11−5
頭を撫でていた手が止まった。その手は顎に周り、おれの顔を上へ向けた。砂漠谷エリの微笑が、こちらを見下ろしていた。
「今度はあなたがわたしを助けてくれる番」
「一体どうすれば……」
「頭脳警察と接触して。あの、濃川という刑事でいい」
先ほど取り逃した疑問を、今度は捕らえた。
「濃川さんを知っているのですか?」
言った途端、唇に人差し指を充てられた。その指は氷柱のように冷たかった。
「あなたは薄々気付いていたと思うけど」砂漠谷エリは目を細めた。「わたしはあなたをずっと見ていたの」
「おれの――口を動かしたのは――あなた——」それが自分の意思によって発せられた言葉なのか、自信が持てなかった。
飯田橋の喫茶店。そこでおれは、〈濃川捜査官〉(顔がブランクになっている。女性という属性のオブジェクトでしかない)にNODEシステムのメッセージ機能について説明した。そうしたのはおれだが、そういう状況にしたのはおれではない。おれの口を無断で使った誰かだった。
「悪いことだとはわかってる」と、砂漠谷エリは言った。「けれど、ああするしか方法はなかった。それぐらい、わたしたちは追い詰められていたの。あなたに頼るのが、最後の手立てだった。勝手にあなたの中へ踏み込むことが。でなければ、世界中の人々の思考が権力の干渉を受けることになる」
警察とサバクタニの歴史。それは対立の歴史である。片方は秩序の維持を振りかざし、もう片方は個人思想の自由を叫び続けた。政治、経済、時には実力行使と、あらゆる圧力を掛けられても、サバクタニは決して警察組織にサーバの情報を開示することはしなかった。それが、人の脳を預かる者の義務であり、決して譲ることのできない信念でもあった。
その伝統は父から子へ、そして子から孫へと受け継がれた。おれには、砂漠谷エリの中で静かに燃え続ける青白い炎が見えた。消えることのない、消えてはいけない、受け継がれてきた伝統の炎なのだと、直脳だからこそ理解できた。それを絶やさぬためならば、燃やし続ける一助となるならば、おれの頭が覗かれるぐらい、些末なことではないか。
おれは腹を決め、砂漠谷エリに言った。
「――彼女にとって、濃川捜査官にとって、おれの役目はもう終わったようですが」
「『思い出したことがある』とでも言えばいいわ。後は何でも構わない。お話を作るのは得意でしょう?」
おれは頷いた。
「上手くはないかもしれませんが」
「あなたならできる。あなたにしかできない」彼女は両手で、おれの顔を挟み込んだ。そして目を覗き込んできた。深淵のような、黒い瞳で。
頭の奥の奥、おれの〈核〉ともいうべき場所に直接繋がれるような感覚があった。それは何よりも強い接続となった。
「濃川捜査官と会って、何をすればいいのですか?」
「わたしの眼を見て」砂漠谷エリの声が耳の内側で響いた。「それから、心の中で三つ数えて。ゆっくりと、三つ」
言われた通りにした。一、二、三。
彼女の瞳孔が収縮するのが見えた。
何かが頭の奥へ入ってきた――気がした。
「これで大丈夫」砂漠谷エリが言った。「彼女と会って、話をして」
「それだけでいいのですか?」
「それだけでいいの」
「これで、世界中の人々が救われる」おれは言った。
「世界が救われる」それに、と彼女の声は続いた。「あなたに掛けられた冤罪も晴らすことができます。MINDも回復して、娘さんとの面会も叶うでしょう」
娘。甘美な響きだった。天上で吹き鳴らされるラッパのように、歓喜に満ちた響き。
「娘さんのためにも」
「あの子のためにも」
「何より、あなたのために」
「何より、あなたのために」
胸の内側が、じんわりと温かくなった。熱は次第に全身へと広がっていった。
多幸感。そして無敵感。何かに守られている気がした。今の自分なら何でもできる。根拠はないが揺るがない自信が、おれの内側を満たしていた。
「やります」と、おれは言った。「やらせてください。必ず、成功させてみせます」
次に目覚めた時、目の前には見覚えのあるクリーム色の天井が広がっていた。
仰向けになっているのは、広いベッドではなく、合成皮革のソファの上だった。所々の凹みは、おれの身体に馴染んでいた。というより、おれの身体に合わせて凹んだのだ。
足元へ目を向けても、熱帯魚の水槽はなかった。おれの部屋なのだから当然だった。
身体を起こした。頭に一瞬痛みが走ったが、すぐに収まった。二日酔いの兆しだったが、頭の中の人工脳がエタノールを分解し、鎮静化させたのだ。普通であれば飲んだその場から酔いは醒めるはずだが、翌日まで続くとはかなりの量を飲んだようだ。
昨夜のことは夢のようだが、ちゃんと記憶には残っていた。サバクタニの社長室で美人三姉妹に囲まれ、挙げ句の果てに砂漠谷エリと直脳した。精緻な夢などではない。目を瞑れば彼女たちの一挙手一投足や、砂漠谷エリと繋がった時の感覚を細かに思い出すことができた。特に後者の記憶は、思い出すと下腹部が疼いてくるほど鮮明だった。
「エッチなこと考えてる」
娘の声がした。おれは咄嗟に前屈みになった。
「なんだ、居たのか」
「ずっと居たよ。お父さんが見なかっただけ」
「いや、探したさ。でもお前はいなかった」
「あの美人社長のことで頭がいっぱいだったんでしょ」
それを言われると反論はできなかった。
「別にいいけど」セーラー服姿の少女は、ソファの背もたれに腰掛けた。「それにしても、大変なものを預けられたね」
「大変なもの?」砂漠谷エリとの濃厚な接続の記憶だろうか。
「わたしは別に止めないけど。それがお父さんの選んだ道なんだし」
「何のことだよ? お前、何か知ってるのか?」
「言わない。言ったらわたしが消されちゃうし」
「消される?」穏やかな話ではなかった。「きのうの砂漠谷さんとのことが関係あるのか?」
「砂漠谷さんだって」娘はツンとそっぽを向き、背もたれから離れた。「お父さんもやっぱり、ああいうスタイルのいい人が好きなんだ」
「お父さんの質問に答えなさい」
「全部わたしのせいにしていいよ」娘は、光の射し込む窓辺に立った。自動で調光処理が走り、彼女の姿は逆光を受けた影から元のコントラストに戻った。
娘は微笑んでいた。妻と同じ笑い方だ。そうやって笑う時、妻は大抵、何かを我慢していた。
「お父さんは悪くない。お父さんは、わたしに会うためにそうしてくれたんでしょ?」
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