14−2

 三角座りする娘の背中を横目に見ながら日々は過ぎた。仮想人とはいえ娘の形をした少女に嫌われたことは確かにショックだったが、本物に会えることへの喜びがそれを凌駕した。おれは手を替え品を替え、言葉を尽くして仮想娘のご機嫌をとることもせず、面会日がやって来るのをひたすら待ち続けた。薄情は承知だった。だが、至上命題ともいうべき目標に手が届きそうな状況では、他の何事も些事にしか思えなかった。これに関しては、いくらでも冷酷になる覚悟はできているつもりだった。

 これは脳なし故の副作用なのか、単におれ特有の性格なのか、日を追うごとに不安が高まっていった。娘には会えないのではないかという気持ちが、見る見る膨らんでいったのだ。それは元妻から当日の具体的な場所の指示が来ても萎むことはなかった。

 思えば、これまでの人生に於いても楽しみにしている物事の前には同じような不安に駆られてきた。小学校の遠足や受験で入った中学の入学式、高校生の時にした初めてのデートなど、待ち焦がれていた行事の前には必ず、それが実現しないのではないかという不安が湧いてきた。実際には、それらは全て実現された。中にはその後の結果が芳しくないものもあったが(初デートの相手は父親が同伴していた)、おれの不安が的中することなど一度もなかった。

 そう、単なる思い過ごしに過ぎない。おれは何度も自分に言い聞かせた。これは一種の破壊衝動であり、万一事が実行されなかった時の保険を掛ける防衛行動でもある。人工脳が機能としてそうさせているのかもしれない。いずれにせよこれは普通のことだ。この不安も含めて、娘に会えることを楽しもうじゃないか。うん、全然不安じゃない。全然。

 あるいは、不正受給したMINDで娘に会うことへの後ろめたさも一因としてあったかもしれない。だが、よく考えれば不当なことなど何もなかった。おれは依頼を受け、その報酬として依頼主からMINDを受け取ったに過ぎない。おれ自身は何も悪いことはしていない。いや、誰も悪いことなどしていない。ただの経済活動があっただけだ。

 毎日、ほとんど秒単位といってもいいぐらいの間隔で気分は目まぐるしく乱高下を繰り返した。そんなことだから、仕事も禄に手に付かなかった。いっそのこと諦めて、荻原とエゼキエルには休暇を出した。二人は盆と正月が一緒に来たように喜んだ。実際、そのどちらも休みにしたことはなかった。こちらの本心としては、彼らがいらぬトラブルを持ち込まないとも限らなかったので、転ばぬ先の杖としての判断だった。

 そうしておれは、家からもほとんど出ず、寝るかテレビを眺めて面会当日に備えた。時間を早回しするような機能が人工脳にあればいいと心底思ったが、そこまで都合よくはできていなかった。

 面会の前日になって突然、濃川捜査官から着信が入った。彼女の名前を見た瞬間、おれの心臓は跳ね、頭からは血の気が引いた。不安が的中した。やはり警察では大事になっていて、それがおれの仕業だと突き止められたのだ。おれは通話に出た。濃川捜査官の疲れた声が電話口で言った。『残念です、夢野さん』——そこで目が覚めた。そういう夢を見たのだ。起きた時、喉はカラカラに渇き、寝間着は汗でぐっしょり濡れていた。おれは台所へ行き、コップ一杯の水を飲んだ。

 いくら不安に対する防衛行動といっても、これではさすがに精神への負担が大きすぎる。科野に調整してもらう必要があるだろう。コップをゆすぎながらそう考えた。時計は既に面会日の日付になっていた。

 そこから寝付くことはできなかった。まんじりともしないまま朝を迎え、惰性で朝食を作り、ほとんど無意識でトーストを囓った。

 そろそろ支度をしようかと思ったところで元妻から着信が入った。すわ土壇場になっての中止かと、例の防衛行動が発動したが、ただの挨拶であった。今日はよろしく。あの子の顔わかる? 一応あの子にはあなたの写真見せたけど。念のために、と送られてきた現在の娘の画像は、普段から接してきた仮想娘と瓜二つだった。本物を盗撮してまで作ったのだから当たり前だ。その仮想娘は、肉体的負荷を初めとするあらゆる物理法則を無視して未だ壁に向かって三角座りを続けていた。

『本当に、会うのよね?』

 丸まったセーラー服の背中を見つめていたところへ、元妻の声が入ってきた。

「当たり前だろ。何だよ、今さら嫌になったなんて言うんじゃないだろうな」

『そういうわけじゃないけど』

「安心しろ。一緒に暮らしたいとか、妙なこと言ったりしないよ。せいぜい美味いもの食べさせてやるぐらいだ。お前から奪うようなことはしない」

『それは心配してないわ。ただ——』

「ただ?」

 電話の向こうで別の声がした。お母さん、と言ったように聞こえた。

『じゃあ、二時に代々木公園で。七時には迎えに行くから』

 そう一方的に告げて、元妻は電話を切った。おれは下ろしたてのシャツにシミを付けられたような心持ちで通話アプリを閉じた。

 肩越しにこちらを見ている仮想娘が目に入った。

「どうかしたか?」

 しかし答えは返ってこなかった。

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