20−3
情報が断片的に染み込んできた。様々な人間が持っていた情報。記憶。他人の感覚が、小さなオタマジャクシとなって膜を破り、おれの内側へ無理矢理入り込んでくる。払いのけたくなるほど不愉快だが、抗う術はない。多種多様、千差万別、種々雑多。オタマジャクシたちは、一つとして同じものはない。それぞれが個別に情報を持っている。共通しているのは、それらが全て同一の人物に関した情報であること。夢野恋太郎という、四十二歳の男に関する情報であることだ。
その男はおれのはずだ。おれはその男であるはずだ。しかし何かがしっくりこない。他人を見ている感覚が拭いきれない。自分が他人になっていく。浸食されていく。そういったネガティブな気持ちが湧いてくる。おれは、上書きされようとしている。
オタマジャクシの群れの中から明らかに別種の、光球のようなものが飛んできた。その球はおれの眼前に来ると、人の形へ変化した。セーラー服姿の少女である。
「大丈夫、怖くないよ」と、少女は言った。「全部受け容れて大丈夫。先生は先生のままだから」
「それは、おれ以外の人間から見たらそう見えるってだけの話じゃないのか?」
「先生の中にいるわたしが言うんだから間違いないよ。わたしは先生の意識の一部なんだよ?」
「それはそうだが……」我ながら情けない声が出た。
少女はふっと微笑んだ。菩薩のような笑み、とはこういうのを言うのかもしれない。
「安心して。あなたの大事な部分は、わたしがずっと守ってるから」
「大事な部分……」
「ここだけは、わたしが何があっても守ってるから。だから何も心配せずに、あなたは他の情報を受け容れて」
少女の頬にブロックノイズが走った。サバクタニの社獣に首を絞められた時と同じ、彼女の存在を揺るがすように思えるものだった。
「お前は大丈夫なのか?」訊かずにはいられなかった。セーラー服のあちこちがノイズで乱れ出しており、とても大丈夫なようには見えない状態だった。「まさか消えたりしないよな?」
彼女は何も言わず、笑みを浮かべるだけだった。
「おい!」
「大丈夫。わたしはいつでもそばにいるよ」
「そういう問題じゃない」おれは言った。「お前と話せなくなったら意味がないんだ」
「もうわたしである必要はない。今度こそ、本物のわたしに会いに行って。頭の中で作り出した紛い物じゃなくて、本物に」
彼女の笑みは、どこか寂しそうな色を残しながらブロックノイズに呑まれていく。
「お前は紛い物なんかじゃない。お前はお前で、誰かの代理ではない」
「嬉しいなあ。仮想娘冥利に尽きるよ」
姿だけでなく、声にもノイズが混じる。彼女を認識する解像度がどんどん落ちていく。不鮮明になった少女は、人の大きさをした、ブロックの塊といった方が近い姿となっている。だが、それは紛れもなく彼女だ。おれにはわかった。
そうだ。おれにはわかる。自分が誰で、誰と話をしているのか。自分が何を失い、何から逃げていたのか。思い出した。というより、そう認識するに足る情報を流し込まれた。おれはそれらに意識というこの本体を慣らした。おれがおれでありながら。外部記憶に呑まれず潰されることなく、外部記憶をおれの記憶として取り込んだ。
そしておれは、脳なしのエロ漫画家・夢野恋太郎の人格を取り戻した。
仮想娘は——おれの娘を模して作られたデータの少女は、もはや立体感を失い、平面のドットの塊と化していた。しかも端の方から、風化するように散逸し始めている。
「全部思い出した。おれはおれのままだ」
「そうみたいだね」
「お前のお陰だ」
えへへへ、と彼女は笑った。
「もう疑似記憶なんかで自分を騙しちゃ駄目だよ。その脳は、もっと他に使い方があるんだから」
「ああ」と、おれは彼女の方へ意識の手を延ばした。彼女の胸の中心部にある、一際輝いているドットを摘まんだ。ドットに含まれていた情報がおれの中へ入ってくる。おれの一部として。大事な記憶として。「カッコよく使うところを、一番近くで見せてやる」
『楽しみにしてるよ』少女の声が自分の内側から聞こえた。『お父さん』
おれは意識の目を閉じた。体が引き上げられるのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます