17−2
ストーリー仕立ての漫画は四日でできた。もちろん、道具が不足しているから商業出版の完成度には及ばない。だが、ここにある道具だけで可能な限りの品質は保持できた自負があった。
その自負を裏打ちするように、納品した漫画は好評を呼んだ。仲間内で回し読みされ、我も我もと大量の食料を手にやって来る者が後を絶たなかった。おれもおれで、それらを断らなかった。時間が掛かるかもしれないとした上で、彼らの依頼を一つ残らず引き受けた。喜んでもらえるのは単純に嬉しかったし、自分としても漫画を描いていたかった。いや、おれというよりは体が、砂漠を歩き疲れたラクダがオアシスで水をがぶ飲みするように次から次へと漫画を描くことを欲していた。
「先生、楽しそう」
机に向かっていると、横からセーラー服姿の少女が言った。彼女は何時間も、おれの作業を手伝うともなしに眺めていた。
「楽しいさ。生きてるって感じがするよ」おれはペンを走らせながら言った。
「今までは生きてなかったの?」
「生きてはいたが、生かされていた気がする」
「何に?」
「何かに」ベタを輪郭線からはみ出ぬように塗っていく。ここには修正液などない。「いや、MINDであり、NODEシステムだったのだろうな。結局のところ、その二つがおれたち人間の行動や思考を縛っていたのだから」
「今は開放されて自由になった」
「その通り」ペン先が紙に引っ掛かり、力が入った。ベタの一部が線からはみ出した。不本意ではあるが、不愉快ではなかった。そのはみ出た部分を、背景に見せる加工を施せば済むことだった。「生き方は一つではないと気付くことができた。やりようはいくらでもあるんだ」
「それで今は幸せ?」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
ペン先が停まった。おれは仮想少女を見た。
「お前にはおれが、嘘を言っているように見えるのか?」
「違う違う」少女は首と両手を大きく振った。「ただ、記憶をごっそりなくして、それでいいのかなって気になっただけ。その、なくした部分のことはいいのかなって」
「そこに大事なものがあったんじゃないかって?」
「そう」
「もちろん、それは思う」おれは言った。「だが、それらは〈上〉での生活にしがみ付くために必要だったに過ぎないのだとも思っている。それがなくても、ここでの生活には支障がない。それはつまり、本当の意味ではおれには必要なかったということだ。現におれは、今こうしてここで生きている」
しかし、少女はどこか不満げだった。
「たとえば、なくしてしまった記憶の中に含まれる人のこととかは?」
「それまでの付き合いだったということだ。必要があればここまで会いに来るだろう。会いに来ないのはお互いにその必要がないからだ」
「先生のことを必死で探して、見つけられていない人だっているかも」
その瞬間、誰かの後ろ姿が頭の中に浮かんだ。真っ白な光に溶けていく寸前の、小さな背中。スーツを着た女性のものに見えた。
「万が一にもいたら嬉しいね」おれは幻影を払うように首を振った。「だが、もしそういう人間がいたとしたら、そいつはおれに不幸をもたらすはずだ。今のこの生活を失うことは、即ちおれにとっての不幸だからな」
「ふーん」
それきり、少女は何も言わなくなった。おれは作業に意識を戻そうとしたが、釈然としないものが残った。彼女が口にするのは、おれが求めた言葉だ。彼女が言うということは、おれがそう言ってほしいと願ったということである。そうした事実が、どうしても信じきれなかった。それに眼の裏には、一瞬だけ見えたあの後ろ姿が焼き付いていた。
気付けば少女と科野以外の人々からも「先生」と呼ばれるようになっていた。科野のそれにはエロ漫画家であることを小馬鹿にしたようなニュアンスが含まれていたが、依頼人であり読者でもある住人たちから呼ばれる際には素直な尊称として受け取ることができた。因みにセーラー服の少女もおれを「先生」と呼んだが、そこにはまた別の響きが込められているように思えた。何か別の絵を、絵の具で上から塗り潰したような響きだ。消した記憶と関係している気がしたので、深掘りはしないでおいた。
尊敬云々はどうあれ、自分の描いたものが評価されるのは創作者としては喜び以外の何者でもない。それが趣向を凝らしたストーリー漫画なら尚更だ。
エロ漫画に在ってエロだけに在らず。これはおれがエロ漫画を描く上で信条としている言葉だ。単なる性描写の羅列だけでは終わらせない。ストーリーがあり、シチュエーションがあり、その上で必然的な性交渉がある。それらが混じり合って極上のエロスを醸し出す——おれはそうしたエロ漫画づくりを心がけた。たぶん、記憶をなくす以前のおれも同じだったはずだ。
読者はそんなおれの意図を完璧に汲み、おれの理想とするままに作品を楽しんでくれた。彼らが良かったと挙げるポイントはおれが最も力を入れた部分であり、彼らの述べる感想はおれが想定していたものと僅かな誤差しかなかった。これは作家として、理想的な環境であるに違いない。
おれが正当な評価を受けるのはここなのだ、と思った。その思いが賞賛を受ける度に膨れていき、おれはここで漫画を描くために生まれてきた、という風にまでなった。
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