第3話 雨の日の客人(1)

 この日は、今朝から小降りの雨が続いていた。

 太陽が灰色の雲に覆われた雨空は薄暗く、家屋や店のランタンの明かりがぼんやりと街を照らしていた。

 不思議と心が落ち着く光景であった。


 一方で、雨が降る日は楽器の状態が普段より悪くなる。雨の降る日は気温が低くなるうえに湿気が多い。気温が低くなると音程が狂ってしまうため、職人として楽器に影響が出てしまうのは難点だった。

 さらに、店の経営の観点から見ると、雨の降る日は総じて客入りが悪かった。わざわざ悪天候の日に楽器店を訪れる客は滅多にいない。そんな客がいるなら、よほど急ぎの用事があるに違いない。


 クレイドは、店の二階の部屋の窓から一人で街を眺めていた。窓ガラスに雨が当たっては流れ、まるで見ている景色はモザイク画のようだった。

 雨が強まって来たとき、クレイドは店の『 open 』の看板を外に掲げたままであることを思い出した。

 一階へ続く階段を駆け足で降りて行き、玄関のドアを数センチほど開ける。雨が大降りになったことを確認して、『 closed 』の看板を掲げた。


 その後、クレイドは一階奥側のキッチンへと向かい、カップにコーヒーを注いだ。

 夕方に天気が晴れたなら、外で楽器を弾いても良いかもしれない――そう思いながら、コーヒーが入ったカップを右手に持ち、ゆっくりとした歩調で二階へ上がった。


 ***


 相変わらず止むことのない雨を眺めながら黙っていると、クレイドは次第に眠気に襲われ始めた。


 この日に限らず、クレイドは普段から一人でいることが多いため、音楽に関する事以外で暇があれば、大抵寝ているような生活を送っている。

 だが、それがまた気楽であった。


 今にも閉じてしまいそうな瞳で、人っ子一人いない街を眺めていると、向かい側の建物の角から人の姿が視界に入った。

 こんな大雨の中、人が外を出歩くのは珍しい。傘を差しているため性別までは判別つかないが、何となくこの店の方向へ歩いて来ているようにも見える。


 クレイドは表情こそ眠そうなままであったが、誰かがこの店に向かっているかもしれないと思うと、警戒心を抱かずにはいられなかった。日頃からこの街の治安の良さを信用していたため、店に鍵をかけていなかったからである。おそらく、街の建物の多くがそうであろう。

 しかし、いくら治安が良いとはいえ、悪人がいないという保証はないのだ。

 そう判断するに至ったクレイドは、再び駆け足で一階へ向かうと、久々に玄関の扉を施錠した。



 ところが、この数秒後。

 否応にして扉を叩く音が聞こえてきた。『 closed 』の看板を出しているにも関わらず、間違いなく誰かがこの扉を叩き続けているのである。

 なかなか強情な客なのかもしれないと思いながら、クレイドは慎重に近づいた。できることなら、相手が諦めて去ってくれるのを待ちたいが、もしも急を要した客人であるならば開けないわけにもいかない。


 少し悩んだ挙げ句、クレイドは気持ちを割り切ることにして、二センチほど開けた扉の隙間から外の様子を覗いてみた。

 そこには若い女性の姿があった。

 服装を見る限りクレイドと同じ一般人のようで、特に着飾った様子もなく、むしろ地味な印象を受ける。


「あの、ご要件は何でしょう? 修理ですか?」

 もう少し扉を大きく開けてみると、彼女の手には傘以外何も持っておらず、クレイドはすぐに修理の依頼ではないと理解した。


「そ、そうではなく……。実は……」


 女性はどこか焦っている様子で、よく見ると疲れ果てたような表情をしていた。雨傘の骨組みも一部折れているらしく、所々歪んでいた。

 これは話を聞かなければならないだろうと判断して、クレイドは女性を店内に招き入れることに決めた。


「とりあえず、中にお入りください」


 女性は申し訳なさそうに深々と頭を下げると、傘を閉じて中へ入った。


「ありがとうございます」



 そうして、クレイドは女性を店の中へ通すと、一階の奥の部屋に案内して長椅子に座るように促した。

 クレイドは新しいカップに注いだコーヒーを女性に差し出すと、正面の椅子に腰を下ろした。


「すみません、これくらいしか出せなくて」

「とんでもありません、こんなに珍しい飲み物を……。ありがとうございます」

「たまたま手に入れやすい環境が近くにあっただけなので。……落ち着いたらで構いませんので、用件をお話しください。力になれる事があれば、協力させていただきます」

 その言葉を聞いた女性は静かに頷き、コーヒーを一口飲んだ。


 そして、ゆっくりと口を開いた。

「ありがとうございます。私はリューヌ・セジュールと申します。この街のイルスァヴォン男爵に仕える使用人でございます。

 実は、イルスァヴォン男爵邸には非常に高価なヴァイオリンがあるのです。ただ、それが貴族世間一般では、『呪いのヴァイオリン』であると有名でして、現在では誰も弾く者がおりません。男爵様は、そのヴァイオリンがあるために、貴族としてのご自分の立場を気にしておられるのです。どうか、そのヴァイオリンに呪いなどない事をあなたに証明していただきたいのです……」


 リューヌと名乗った女性は、クレイドに視線を向けていたものの、あまりにも生気のない暗い表情をしていた。


 クレイドは、話の概要についてある程度理解したが、当然ながら今の話を聞いただけで安請け合いすることはできなかった。


「なるほど、お話は分かりました。ですが、どのように証明すれば良いのでしょうか? 私は呪術については全く分かりません。なぜ呪いがあると言われているのです? 過去に何か起こったのですか?」


 クレイドは、呪いというものの存在を特に否定するつもりはなく、だからと言ってそれが怖いとも思わなかった。

 呪いについては詳しくないが、敬遠されがちな魔女などの類いが関係しているのかもしれない。ただ、魔女の正体が普通の人間であるという話も耳にしたことがある。

 今回の件も、一部の人間たちが『呪い』だと騒いでいるだけの可能性も十分ありうるわけだ。


「証明する方法として、あなたに楽器を弾いていただきたいのです。もちろん、私は呪いなど存在しないと思っています。以前、少し事件に巻き込まれただけで、大騒ぎするほどの事じゃないと思っているので。貴族は、単にそういうのが好きなだけなのです」


 ――ん? 今、事件と言ったような?


 クレイドは表情を少し引きつらせた。呪いなどそれほど気にしていなかったが、リューヌの表現が曖昧であることに不安を感じ始める。


「その、具体的にお願いできますか? さすがに、事件と聞くと少し心配ではあるので……」

「はい。それは、今から約二〇〇年前に起こった事件です。当時のイルスァヴォン男爵邸で、男爵様本人がヴァイオリンの演奏会を開催された当日のこと。貴族の一部が剣を抜いて乱闘騒ぎを起こし、男爵様が演奏中に殺されたのです。その時に弾いていたヴァイオリンが、現在呪いのヴァイオリンと言われているものなのです」


 ――えっ、それもう本当の呪いでは?


 そう言いたい気持ちを押し殺して、クレイドは無表情を貫き続けた。無理やり自分を納得させるように、ただただ繰り返し頷く。


「な、なかなか古いヴァイオリンなのですね。へぇ、なるほど……。殺されたということは、当時の男爵は誰かに恨まれていたのですか?」


 感情にのまれないよう、少し状況を整理しなければ。

 演奏中に殺されたことが呪いに繋がっているのだとすれば、確かに呪う側の気持ちとしては合点がいく。


「いえ、私は単に男爵が音楽好きだったとしか聞いておりません。ただ、当時の男爵は音楽の事ばかりだったようで、他の貴族との関係性は良くなかったようです。それが殺された原因の一つかもしれません。当時の貴族には、まだあまり音楽を楽しむ習慣がありませんでしたから」


「そ、そうですか……。確かに、何もないとは言い切れないですよね。音楽好きの当時の男爵にも、様々な想いがあったのでしょう……。今の男爵は、そのことを非常に気にされているのですね?」


「はい。長い間、外に出られないほど体調を崩しております。音楽が大好きなのに、今はそれに関わることもできずにいます」


 一般人が爵位を持つ貴族に対して抱く感情ではないかもしれないが、その男爵のことが少し不憫に思えた。彼は何も悪くないのに。


「それほど大変な状況なのですね……。では、あと一つ確認したいことがあるのですが。当時の男爵がそのヴァイオリンを演奏されてから、その後は誰も演奏されていないのですか?」


「いえ。それが、約一〇〇年ほど前に誰かが一度弾いたようなのです」


 これは予想外の回答だった。呪いと言われながらも、そのヴァイオリンを弾いた人物がいたということか。


「その方は大丈夫だったのですか?」


 なぜかこの質問にリューヌは少し戸惑った様子を見せた。


「……実は、亡くなったのです。弾いた一週間後に。ですが、ヴァイオリンのせいじゃないと私は思っています。以前から病弱な方だったようですし」


 ――やはり呪いなのか? 呪いを否定できるエピソードは全くないのか?


 クレイドは焦りを隠すため、とりあえず顔をしかめた。たとえリューヌが呪いのせいではないと言ったとしても、それ以上に気になることが多すぎる。たまたま一週間後にその人が亡くなったのかもしれないが、事の発端が殺人事件だと聞いた後に言われても説得力に欠ける。

 クレイドは視線を下に向け、頭の中でぐるぐると考えていた。


 しばらく沈黙の空気が続いたが、ようやく自身の考えがまとまったところでクレイドは顔を上げた。


 リューヌはやや不安そうな表情をしていたが、一方のクレイドは彼女の目を見ながら真剣な態度を見せていた。


「もし、呪いと言われる事でそのヴァイオリンが一生演奏されることがないなら、それは私の立場的にも悲しいことです。それに、音楽好きのイルスァヴォン男爵の体調も気掛かりです。ですので、その依頼をお引き受け致します」


 結果がどうなるかは分からないが、やるだけやってみよう。そうクレイドは腹を括ることにした。

 リューヌはホッとしたように口元を綻ばせると、頭を深く下げた。


「本当にありがとうございます」



 ふと気が付いた頃にはもう昼をとうに過ぎていたが、まだ雨は止みそうになかった。

 外で楽器を弾くことは無理だろうと諦めていたとはいえ、建物の中にいても雨音が聞こえてくるほどの強い雨が降っているらしい。

 外の暗さも相俟って、気分まで陰湿になってしまいそうであった。



 その後のリューヌとの話し合いの結果、明日、イルスァヴォン男爵邸に向かう事に決まった。

「あの、今日はこの後どうされますか? まだ雨は止みそうにありませんが……」

「そうですね、この近くに宿屋があれば……」

「帰られる予定がないのであれば、今日はここに泊まっていただいても構いませんよ? 二階なら空いていますし。豪華な食事はお出しできませんが、明日また来ていただくのも申し訳ないので」


 当然、強引な引き止めをするつもりは全くない。この提案は、金銭を支払って宿屋に泊まるくらいなら、自分が無料で部屋を貸す方が安く済むだろうという単純な考えからであった。


「よ、よろしいのですか? むしろ、申し訳ないぐらいです。私は使用人として働く身ですから、せめてものお食事をお作りしてもよろしいですか?」

 客人に料理をさせるなど言語道断、クレイドがその提案に頷くことはなかった。

「いえ、あなたはお客様ですから。お疲れになっているはずですし、与えられた休暇だと思ってお休みください」

「えっと、でも……」

 リューヌは言葉に詰まった。

 一秒足りとも隙を見せることのないクレイドの対応に戸惑っていたのである。馴れ馴れしい態度をされたら敬遠してしまうが、ここまで距離をとられては普通の会話をしようにも切り出しかたに悩んで当然であろう。


「……失礼ですが、年齢をお聞きしてもよろしいですか?」


 彼女が唯一思い付いた質問がこれであった。とはいえ、あまりにも唐突な問いかけであったため、クレイドもやや苦笑いをせざるを得なかった。

 ただ一つ確信できたことは、この質問によって場の空気が和らいだということだ。


 クレイドも自分から問いかけに答えず、逆に聞き返してみることを選んだ。

「いくつに見えますか?」

 リューヌはクレイドをじっと見ながら数秒考え、そして答えを出した。

「二〇代後半くらいですかね」

 その答えを聞いたクレイドは、一瞬不服そうに口をつぐんだ。

「そうですよね、よく言われます。場合によっては三〇歳前半ですよ?落ち着いているとか言われますけど、本当は一九歳なんです」


 クレイドが実年齢を告白した結果、リューヌは衝撃を受けたかのように目を見開いた。


「な、何で驚くんですか?」

 クレイドが純粋に困ったような表情を浮かべていると、その様子を見たリューヌは小さく笑みをこぼした。

「いえ、ごめんなさいね。少し予想外だったもので。普段からそのような年相応の態度だったら良いのにと思って」

「そ、そんなことはできません。私が侮られてしまってはこの店も終わりです。お客様を相手に生活していますから、当然かと」

 それは確かにそうなんだろうけどね、とリューヌは心の中で思いつつ、言葉には出さなかった。



 ふと、クレイドが突然何か思い出したかのように口を開いた。

「そういえば、昼食は何が良いですか?」

 先程までの会話と全く脈絡がなく、ある意味で拍子抜けしたような質問であった。

 しかし、リューヌは特に気にもせず笑顔のまま応じる。

「昼食ですか? 私は何でも構いませんが、ご一緒させていただいても良いのですか?」

「もちろんです。私もまだ食べていませんし。今日は閉店してますので、他のお客様は来ないでしょうしね」

 クレイドは勢いよく椅子を立ち上がった。

「パンケーキでも作りましょう」

「手間がかかりませんか?」

「結構好きなんですよ、こういうの。少々お時間いただきますが、大丈夫ですか?」

「ありがとうございます」


 料理が好きであるということは本当だったが、実際にクレイドがここまで乗り気になることはほとんどなかった。というのも、誰かに料理をご馳走することがあまりなく、唯一あるとすれば仕事終わりに遊びに来るロディールに料理を出す程度だったからだ。

 それゆえに、パンケーキを喜んで食べる客人の姿を間近で見たクレイドは、作った甲斐があったと心の底から思わずにはいられなかった。



 ***



 リューヌに貸すことになった空き部屋は、今はほとんど人の出入りがない部屋と化していたため、幾分埃っぽく、クレイドは掃除をしてもなお清潔さには自信がなかった。

「汚い部屋ですみません。掃除はしているのですが、なにせ古い建物なので。何かあれば、一階か隣の部屋にいますのでお声かけください」

 しかし、リューヌは相変わらず穏やかな笑顔で応える。

「そんな事ありませんよ。本当にありがとう。お休みなさい」


 それから、クレイドは明日の準備のために一階へ戻った。

 店で使用している工具一式と、店のヴァイオリンを一挺持って行くことにしよう。


 クレイドは作業場の机に向かいながら準備をしていたが、次第に眠気に襲われていった。

 そして、そのまま机に突っ伏した状態で眠りについた。

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