第3話 買い出し

 クレイドが終業を迎えた後、リェティーは一階へ降りてきて夕食の席についた。

「まだ病み上がりだから、無理はしないようにね」

「はい、ありがとうございます!」

 リェティーの笑顔に、クレイドも自然と口元が綻んだ。

「そうだ、リェティー。実は食材の在庫が切れてしまったものがあって、夕食後に買いに行ってもいいだろうか」

「もちろんです! もう外は暗いですが大丈夫ですか?」

「うん、そんなに遠くはないんだ。夜までやってる特殊なお店でね」

「そうなんですね。お兄さま、気を付けてくださいね」

「うん、ありがとう」


 そんな会話を交わしながら、いつものように夕食を終えた。


 食事の片付けを終えた後、クレイドは出かける支度を始めた。布袋の財布に硬貨が入っていることを確認し、ショルダー式の革製鞄に入れる。それを背負って玄関へと向かった。

 リェティーが手を振りながらクレイドを見送る。

「いってらっしゃい、お兄さま。お気をつけて」

「うん、ありがとう。行ってきます」


 ***


 留守番することになったリェティーは、店の壁に掛けられた楽器一つひとつを真剣な眼差しで見つめていた。


 薄暗い中、複数のランタンに照らされる店内は、不思議と心地良い空間だった。

 少々埃っぽい作業机上には、楽器製作途中に付いたと思われる傷跡や、削られて間もない木屑が散らばっていた。


 リェティーにとっては、この何もかもが美しいものに見えた。



 ***



 メインストリートを外れて一本細い路地に入ると、家屋の間にひっそりと建つ店がある。

 扉の上部にある木の看板にはカップの絵柄が彫られているが、どこか目立つことを避けているようであった。


 カラン、とドアベルの音が鳴る。



「いらっしゃい。……あらぁ! クレイドじゃないか。最近見なかったねえ」

 出迎えたのは気前の良さそうな大柄のミドルレディだ。彼女は客人であるクレイドの顔を見ると、すぐに懐かしむ声を上げた。

 少し気圧されて一瞬足が竦んだクレイドだったが、気を取り直して店の中へと入る。


「こんばんは、ミセス・ヴェルセーノ。最近は少し忙しくて。お元気そうで何よりです」

 クレイドは改まった態度で挨拶した。

 ミセス・ヴェルセーノは両腕に力こぶを作ってを表現したが、服装のせいもあって残念ながらよく分からなかった。

「ご覧の通り、私は元気よ。クレイドもたまには息抜きしなきゃねえ。……ええっと、今日のお買い求めは何だい?」

「えぇ、いつものパスタをやや多めに。あと……」

 クレイドが話しながら持参した空の瓶を取り出していると、

「あんた、コーヒーは飲むんだっけ?」

 ミセス・ヴェルセーノが堂々と口を挟んだ。

「コーヒーも飲めますが、最近はジュースばかりですね」

 リェティーがコーヒーを飲まないため、気が付くとクレイドもほとんど飲む機会がなくなっていた。

「じゃあ、少し持っていくかい? いいやつ仕入れたんだよ」

「あ、いえ。お気持ちだけ。今はジュースでも十分かな、と思うようになりまして」

「そうかい……? あんたはワインも飲まないんだもんねぇ。それなら、今コーヒー入れてあげるから飲んでくといいさ」

 クレイドに一切の断る余地を与えず、ミセス・ヴェルセーノは矢継ぎ早にコーヒーをカップに注ぎ始めた。

「あの、ありがとうございます……。なんだか、すみません……」

「いいんだよ、この時間にお客なんてほとんど来やしないんだから。そこの椅子に座っててくれるかい」


 クレイドはぎこちなく椅子に腰掛けると、久しぶりにゆっくりと店内を見回した。

 隣国風にデザインされたテーブルや椅子が、相変わらず綺麗に並べられている。どこか懐かしく感じるのは、自らの抗えない血のせいだろうとクレイドは考えていた。


 コトッ、とテーブル上にカップが置かれた。

「はい、どうぞ。何だい、店の中に珍しいものでもあったかい?」

 目の前からコーヒーの濃い香りがふんわりと漂う。

「あっ、いえ。すみません」

「何だい? 気なんか遣わないでくれよ、長い付き合いじゃないか。あんたは一体誰に似たんだろうねぇ。頑固で真面目な性格は父親、色素の薄い髪に綺麗な青い瞳は母親かねぇ」

「はは、どうなんでしょう」

 クレイドは肩をすくめて苦笑した。


 ミセス・ヴェルセーノことイゼルタ・ヴェルセーノは、その言葉どおりクレイドの両親を知っている。さらに、クレイドの幼少期の頃を知る唯一の人物だ。

 彼女はクレイドの父親と出身国が同じであり、父とは昔からの親友だった。父を亡くした後も、クレイドは彼女に世話になることが多く、お喋り好きではあるものの、信頼できる人間なのだ。


 クレイドがコーヒーを飲んでいると、彼女がどんと正面の椅子に座った。

 これがまた、なかなかの貫禄であった。


「……クレイド。それにしても、あんたはまだ若いんだから人生楽しむんだよ。今の店を続けるのもいいけどね、それが全てだと思う必要はないんだからね。困った事があればいつでも助けになるから、言っておくれ」

 クレイドは少し口角を上げた。

「はい。本当に、ありがとうございます」

 ミセス・ヴェルセーノは、いやいやと空中で手を振ったかと思うと、クレイドの目をじっと見た。

「そうだ、このコーヒーの味はどうだい? 新しいブレンドに挑戦中でね、これを商品化したいと思っていたところなのさ」

 クレイドはカップの中に視線を移した。

 気品あるカップに落とし込まれた鮮やかな黒。香りも味も申し分なかった。

「これ、もう販売しているのかと思いました。とても美味しいですよ」

 すると、ミセス・ヴェルセーノがにやりと笑った。

「クレイドの保証つきなら売れること間違いないね。まぁ、あんたのには特別に私が愛情込めたんだけどね」

 そう言ってミセス・ヴェルセーノは豪快に笑うと、クレイドもつられて小さく笑った。

「ちょっと、冗談はよしてくださいよ」


 二人の会話に一区切りついたところで、クレイドは立ち上がった。

「ミセス・ヴェルセーノ。今日はありがとうございました。そろそろ、帰らなければ……」

「おや、まだそんなに経っていないんだから、ゆっくりしていけば良いのに」


 彼女は服のポケットの中から懐中時計を取り出すと、時間を確認した。

 質素な服装に似合わず貴重な品を所持しているため、何か独自の入手ルートでもあるのだろう。入手困難なコーヒー豆を手に入れることのできる彼女なら、なおさらだ。


「本当はゆっくりしたいのですが、やることもあるので……」

「あんたも忙しい人だね。まぁ、仕事があるっていうのはいいことだけどね」

 ミセス・ヴェルセーノは椅子から立ち上がると、用意した乾燥パスタを空き瓶に詰め始めた。

「お金を得る手段は必要ですからね。生活できないと、何もできませんから」

「そりゃ、もっともだ」


 そして、ミセス・ヴェルセーノからずっしりとした重量感のある瓶をクレイドは受け取った。


「多めに入れておいたからね」

「ありがとうございます。えっと、代金は銀貨十枚で足りましたか?」

「いや、割り引いておくよ。五枚でどうだい? 久しぶりに顔見せに来てくれたお礼さ」

「そ、それは違うんじゃ……」

「気にしなくていいよ。あんたと私の仲じゃないか」

「おもてなしされてばかりで、申し訳ないです」

「だから、いいんだって」


 クレイドは言われたとおり、鞄から銀貨五枚を取り出すと、ミセス・ヴェルセーノへ手渡した。

 

 クレイドはリェティーのことがそろそろ気掛かりになっていた。

 早く帰らなければ、心配させてしまうかもしれない。


「コーヒー美味しかったです。あの、また来ても良いですか?」

 その言葉を聞いて、ミセス・ヴェルセーノは名残惜しそうな顔で笑った。

「あぁ、また待っているよ。いつでもおいで。暗いから気をつけてお帰りよ」

「はい、ありがとうございます。ではまた」

 クレイドは律儀に頭を下げて挨拶すると、店を出た。


 ――予想以上に長居してしまった。急いで帰らなければ……。



 ***



 クレイドは家に辿り着くと、勢い余った強い力で扉を開けてしまった。

 一階にいたリェティーは驚いた顔でこちらを振り向き、硬く身構えた。


「ご、ごめん! 不審者じゃないよ! ここの扉、こんなに緩かっただろうか……?」

 不自然ながら、クレイドは慌てて扉に責任を押し付けた。

「大丈夫ですよ、お兄さま! お帰りなさい!」

 リェティーの表情はすぐに笑顔に変わった。

「た、ただいま。あと、遅くなってごめん」

 クレイドは苦笑しながら、頭を掻くような仕草を見せた。 


 就寝前の隙間時間、ランタンが灯る家の中で二人は向かい合うように椅子に座っていた。

 それぞれのカップには、温められたミルクが湯気を立てていた。


「リェティー、ヴァイオリンの練習はいつから始めようか?」

「お兄さまの都合がよろしい時にでも……」

「じゃあ、明日の仕事終わりならどうだろうか? 夕食前、夕食後の二回目に分けてやれば時間もたくさん取れると思うんだけど、どうかな?」

 リェティーの表情がぱっと花開くように明るくなった。

「そ、そんなに私に時間を取っていただいても、よろしいのですか?」

 クレイドは口元を綻ばせた。

「うん。必ず時間を作るから、一緒にやろう」

「はい!」

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