第2話 音は個性
その翌朝、リェティーの体調は回復したようで、彼女はいつもと変わらない様子で階段をスタスタと下りてきた。
食事をほとんど取っていないため空腹だろうと思ったクレイドは、朝の食卓に多くのものを並べていた。
昨日の昼間に市場へ行き、パンや野菜、果物、豆、調味料などを久しぶりに大量買いしておいたのだ。
「いいかい、今日も無理は禁物だよ。店は開けるけど、時々様子を見に行くからね」
リェティーは申し訳無さそうな顔で小さく頷いた。
「は、はい。すみません、ありがとうございます……」
ところが、この日は昼時を過ぎても全く客が来ることがなかった。
本日の天気は曇りで、昨日の晴れた空とは打って変わり、今にも雨が降り出しそうな曇天が朝から続いている。
外出する気が失せるような天気といえば、確かにそうだろう。
クレイドはリェティーの様子を時々見に行きながら、それ以外の時間はただ黙々とヴァイオリンの製作に時間を費やした。
日暮れを待つだけとなり、クレイドが早々に店仕舞いをしようかと迷い始めていたところ、ロディールの妹フィナーシェが来店した。
このタイミングということもあり、クレイドはロディールがやって来たのかと一瞬思ったのだが、それはひっそりと心の内に秘めておく。
「あの、こんにちは……」
随分と控えめな挨拶だった。
彼女はヴァイオリンケースを持っていた――彼女の言葉で表現すると、『楽器を連れてきた』というべきか。
「あぁ、また来てくれたんだね。いらっしゃい。君が今日最初のお客様だ」
クレイドの言葉に、フィナーシェは拍子抜けした顔を見せた。
「そ、そうなんですか?」
「そう。楽器は生活必需品じゃないし、需要が多いわけでもないからね」
フィナーシェは少し難しそうな顔でふむふむと頷いた。
これは客人に話すことではなかったかもしれないと思い、クレイドは心の中で少し反省する。
フィナーシェが客人であることは百も承知だが、彼女がロディールの妹であると知ってからは、少しだけ親近感が湧いていた。それが言葉や態度のそこかしこに出てしまっていることには、クレイド自身も気が付いていないわけではない。
「えっと、本日のご要件は何でしょうか」
気を取り直して尋ねると、フィナーシェが満面の笑顔でこう答えた。
「はい、ヴァイオリンの演奏をお願いします!」
クレイドはただただ目を丸くした。
――いや、え? リクエスト……?
「俺は演奏家じゃないので、演奏というのは……」
クレイドがやんわりと断ろうとすると、明らかにフィナーシェが気を落とした表情へと変わっていくのが分かった。
わざとではないのだろうが、表情が豊かすぎてクレイドも居たたまれない気持ちになる。
その時、街の教会の鐘の音が鳴り始めた。
クレイドとフィナーシェは、その音に耳を澄ませるように沈黙した。
鐘の音が途切れた直後、
「やりましょう」
このクレイドの一言で、フィナーシェが喜びを全身に纏って立ち上がった。
「よ、よろしいのですか?!」
少し圧倒されながらも、クレイドは頷いた。
「う、うん。帰る頃には薄暗くなるかもしれないけど、大丈夫?」
「はい! わあぁ、ありがとうございます!」
「ただし条件が……」
クレイドが突然の条件を突き付けた。
一体何なのだろうか、とフィナーシェが不思議そうな顔をする。
「せっかく楽器を持ってきているんだし、君も一緒に弾かない?」
フィナーシェは驚いたかと思うと、目を泳がせながら焦り出した。
「わ、私はクレイドさんと一緒に演奏できるレベルではありません。まだ弾けないので……」
しかし、そう言うフィナーシェにクレイドは微笑んだ。
「大丈夫。独奏もいいけど、せっかく君もヴァイオリン持って来ているんだし、一緒に弾こう。途中で弾けなくて離脱することがあったら、その時は俺が最後まで弾くよ」
「で、でも……」
「何か練習している曲はある?」
フィナーシェがやや混乱していることを知りながら、クレイドは話を進めていく。
楽器の上達には、思い切りが必要だ。弾けないからといって小さな音で演奏しては上達することはないし、これは誰かに後押ししてもらうことも必要だろう。
「あの、私、まだ完全に弾ける曲はありませんが……」
「それでも全く構わないよ」
ここで重要なのは"弾く"ことそのものでなく、"弾こうとする気持ち"の方である。
「わ、分かりました」
これで一歩前進だ、とクレイドは微笑んだ。
そして、フィナーシェはケースの中に入っていた羊皮紙の楽譜一枚を取り出した。
「これは兄から譲ってもらった楽譜です。基礎練習以外の曲だと、今はこれくらいです……」
「分かった、それを弾いてみよう」
テーブル上に楽譜一枚を広げると、二人で見ることのできるようにと左右に立ち並んだ。
ヴァイオリンをそれぞれ構えて、調弦を行った。
フィナーシェはヴァイオリンこそ初心者であるものの、さすがはフルート経験者と言わんばかりに、彼女の音を聞く力は確かなものであった。
クレイドが足踏みで等間隔にリズムを取り、演奏の始まる一拍前に全身で深く呼吸をする。
これが演奏開始の合図だった。
少しゆっくりとしたテンポで、二人は同じメロディーの旋律を弾く。
――うん、購入したばかりとは思えないほど音がしっかりと出ているみたいだ。
クレイドは感心しながら、楽譜から時々目を離してフィナーシェの方を見ていた。
せっかくなのでと思い、途中からメロディーを無視して勝手に副旋律を演奏し始めた。
しかし、曲の後半になるとフィナーシェの弦を押さえる左手が完全に止まった。ここで音も途切れ、クレイドの音だけが室内に響く。
フィナーシェが抜けた後、クレイドは即興で曲にアレンジを加えて演奏し始めた。
フィナーシェはクレイドが演奏する姿を、雷に打たれたかのように衝撃を受けた表情でじっと見つめていた。
曲が終わり、クレイドはいつも通り楽器を肩から下ろした。
その直後、大きな拍手と歓声が上がった。一人の少女が発しているものとは思えないほどに。
「す、すごいです! 何もかも素晴らしすぎて……! あぁ今日ここへ来て本当に良かった……!」
フィナーシェは感嘆した。
「い、いや、そんな。君の上達の早さの方がすごいと思う。この曲はなかなか難しいし」
「いえ! 私など、全然です!」
「本当だよ。時間がある時にでも、また弾きに来るといい」
そのクレイドの言葉を聞いて、フィナーシェの瞳がキラキラと輝いた。
彼女にとっては、クレイドの演奏を再び間近で聞くことができることが、何よりも飛び跳ねるほど嬉しかった。
「あ、ありがとうございます!!」
そして、フィナーシェは喜々とした様子で店をあとにした。
クレイドは店の外扉に『closed』の看板を掛けながら、リェティーのことを考えていた。
――体調は大丈夫だろうか。きっと、そろそろお腹が空いてるだろうな。
クレイドは二階へ続く階段を駆け足で登り、リェティーの部屋へ向かった。
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