第5話 路地裏の客(1)

 クレイドは、少年アレットが言っていた水飲み場に向かうため、荷物と楽器を持って広場を出た。

 街灯の薄明かりだけが人気のない道先をほんのりと照らしている。


 クレイドは建物の間を進み、石壁が連なる路地に足を踏み入れた。

 約三十メートルおきにランタンが不恰好に吊り下がっている。


 路地の奥まで石畳が続いているようだが、この光量だけでは奥がどうなっているかまでは見えなかった。


 クレイドはやや警戒を抱きながら、迷路のような路地を歩いていくと、しばらくして広い十字路に出た。

 その中心部には小さな噴水があり、すぐ横には鉄パイプを通しただけの水道口がついている。

 絶え間なく流れ出る透明な水を、クレイドは惜しむように眺めた。


 噴水の下に楽器をゆっくり置くと、クレイドは両手で水を受けた。

 あまりの冷たさに手を引っ込めたくなるのを堪えながら、その水をゆっくりと口元に運ぶ。


 ――すごく美味しい……。


 水を飲み終えると、両手を挙げて凝り固まった背筋をピンと伸ばし、そのまま一気に脱力した。一瞬ふらりとよろけたが、すぐに態勢を立て直すと、噴水の縁に腰を下ろした。


 深い群青に染まった空を無心で仰ぎ見る。


 クレイドはヴァイオリンをケースから出して、左肩に軽く乗せた。

 目を瞑り、弓をそっと弦の上に乗せ、囁くような音で曲を奏で始めた。



「――こっち、こっち!」


 どこからか少女の声が聞こえたような気がした。

 だが、演奏中のクレイドにはその方向までは分からなかった。


「こんなところで演奏している人、初めて見たわね。とても静かな音……」

 もう一人、女性の声が聞こえた。二人の会話が少しずつ近づいてくるようだ。

「この曲、知ってるの!」

「ほら、そうやって騒いではいけませんよ。転んだら危ないでしょう」

「でも、久しぶりの外だから……!」


 クレイドが薄ら目を開けると、正面に若い女性と10歳前後の少女が立っていた。

 付近のランタンだけでは二人の顔がはっきりとは見えないが、おそらく親子ほどの年齢差だろう。


 クレイドは楽器を下ろすと、二人に向かって頭を下げた。


「とても上手!」


 そう言って拍手してくれた少女は、目に何らかの病気を持っているのではないかと感じた。

 わずかな違和感にすぎないが、周囲の暗さも相俟って、少女には自分の姿がはっきりと見えていないのではないか――と思ったのである。


「こんな夜分に、ありがとうございました」


 クレイドがお礼を伝えると、少女は再びパチパチと拍手をした。


「私も少しだけ弾くことができるの」

 嬉しそうに話す少女を、隣に立つ女性が穏やかな口調でなだめた。

「あなたは外に慣れるまで無理しちゃいけないのよ。今日は外に出られたから良かったけど」


 クレイドは女性の言葉を聞いた途端、眉をピクリと動かした。


「あの、もし失礼でしたらすみません。……何か事情があるのですか?」

「……え、えぇ。ちょっと病気をね。それ以外にも、この子は結構苦労していて」


 この二人は近しい関係に見えるのに、女性は少女のことをどこか他人事のように話していた。

 わずかな言葉の節々から、クレイドはこの女性が少女の母親ではないのだろう――そう察したのである。


「私は元気だから。お兄ちゃんにヴァイオリンを教えてもらうの」

 少女の言葉は穏やかでありながら、その中に揺るがない強い意思が垣間見えた。

 クレイドは咄嗟に反応する。

「……お兄さん、ですか?」

「うん。お兄ちゃんにヴァイオリンの弾き方をたくさん教えてほしい、って手紙を書いたの」


 クレイドの心臓はドクンと音を立てた。

 

 可憐な花を思わせる表情が、薄暗さに見え隠れしながらも、どこか懐かしく感じた。

 クレイドはこの少女が自分の妹かもしれないと、無意識のうちに思い始めていた。

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