第4話 失せ物(2)

 暗闇の中で聞こえてくるのは、風の音、木の葉が擦れ合う音。


 ――音だけの世界。


 突然、顔に何か冷たい滴が落ちてきたような気がして、瞑っていた目を開けた。


 ――雨……?


「うわあっ?!」


 クレイドは叫びに近い声をあげた。


 見ず知らずの少年の顔が目の前にあったのだ。

 少年は相手の顔を覗き込むような姿勢をまっすぐに戻すと、少し首を傾げて腕を組んだ。

 古びた大きな布で全身を包み、その姿はいかにも『旅人』という印象を受ける。所々衣服がほつれているのが長旅を思わせて、尚のことそれらしく見えた。


 少年は右手で酒瓶のようなものを掲げて左右に振った。

 クレイドは困惑しながらも、それを見て状況を理解する。


 ――この少年が酒を垂らしたのか?


 すると突然、少年は腹を抱えて笑いだした。

「あっはっはっ! 安心してよ。これは水だからさ。何だかぐったりしてるもんだから、心配になって。……飲むか?」


 少年はあどけない笑みを向けると、クレイドに水の入った酒瓶をどんと差し出した。

「あ、ありがとう」

 クレイドは戸惑いながらもそれを受け取り、少しばかり口に含んだ。

 冷たく綺麗な水が乾いた喉を潤していく。


「……生き返った気分だよ」


「それは良かった! この広場を出たところに飲み水が出てるから、行ってみるといいよ。安全な水さ」


 少年は自らの後方を指で差した。


 この場所から目視で確認できる範囲には建物しか見当たらないが、きっと少年はさらにその奥の場所を示しているのだろう。


「そうか、ありがとう。よく俺なんかに声をかけてくれたね」

「まあね。これに少し興味を持ってさ」

 少年はクレイドが抱える直方体の箱に視線を向けた。

「ヴァイオリンのことか?」

「あ、やっぱり中身は楽器だったんだ? 気づいていないと思うけど、実は俺もリュートを背負ってるんだよ」


 少年はそう言うと、布で包まれたを背中から下ろした。

 そして、堂々とその場に胡座をかいて座り、布を地面の上で器用に広げた。


「ほらね? これがリュートだ」


 少年は撥弦はつげん楽器のリュート(※ヨーロッパの古楽器)を両手で掲げて見せた。

 クレイドは少し前のめりになって楽器全体を眺める。

「……確かに。良ければ地面じゃなくてベンチに座らないか? ほら、俺の隣も空いてるし」


 提案を受けた少年は、急になぜか乾いたような笑みを浮かべた。


「俺はこういうの慣れてるから気にしなくていいよ。俺と君とじゃ育ちが違う。君には帰る場所があるんだろ?」


「……君は何を言って――?」


 クレイドが言いかけた時、少年がリュートの弦を上から指で流すようにはじいた。

 柔らかく透き通る湖のような、それでいて芯のある深い音色だった。


「――君は間違えても俺と同じ道を歩むべきじゃない。帰る場所があるのならね?」


 少年はクレイドの目をじっと見据えたが、クレイドはすぐに言葉を返すことができなかった。

 こんな状況でさえも、自分は恵まれている方なのかもしれない――そんな気がしたからである。


 ようやくクレイドが発した言葉はただ一言。

「今ちょっと、色々どうしようかと考えていて……」

 不意に少年は眉根を寄せる。

「ちゃんと食べてるか?」

「まあ、一応。ただ、全部じゃないんだが、誰かにお金を盗まれたらしくて」

 クレイドの言葉を聞いた瞬間、少年は目を見開いた。

「それは災難だったなあ。金に困った奴に目をつけられたんだろうな。……そんな人間と会った記憶は? 誰に盗まれたのか分からないのか?」


 クレイドは、今まで出会った人の中で『お金に困った人』がいたかどうかを考えた。

 そういえば……、とクレイドは新鮮な記憶が脳裏に蘇ってきた。


「昨日、そんなことを話していた人とは会ったかな」


 それは、客引きをする代わりにパンを大盤振る舞いしてきた露店の男性のことだ。


 少年はリュートを構えたまま、クレイドに険しい眼差しを向けていた。


「どんな人だった? ……もしかして、そいつは店を出していたか? 年齢は中年過ぎたぐらいの?」


 少年は思い当たる節があるのか、食いつくように次々と質問を投げかける。

 彼の言葉は抽象的ではあるものの、クレイドはそれを否定する要素が見当たらなかった。


「……君の言う通りだ。家族のために働いているって話してたよ」


 昨日の男性を疑いたくはなかったが、クレイドは事実として答えた。


 少年はその場にすっと立ち上がった。周囲を警戒してクレイドの耳元に詰め寄る。

「そいつなら俺も前に見たことがあるし、噂でよく話を聞いてる。……その男、有名な詐欺師だぞ。君が油断している隙を狙って金を盗んだんだ」

「そ、そんな。それは疑いすぎじゃ……」

「知らないからそう言えるんだよ。あいつは広場に店を出して金を盗んだら、しばらくは近隣に店を出さない。別の場所で店を開いて、金を得たら、また別の場所で店を開く。……それを繰り返して、俺たちが忘れた頃にまた戻ってくるのさ」

「でも、あの人は俺が客引きをして演奏する代わりに、パンをくれたんだ。本物のパンで、腐ってもいなかった」

「それだよ。あいつは、客引きをしている間に君の金を盗んだんだ。そして、盗んだ金を資金にして工房からパンを買い占めるのさ。もちろん利益が出るように」


 クレイドはそれ以上反論することをやめて、ゆっくりと視線を地面に落とした。

 騙されたことよりも、男性の話が嘘だったことが何より信じられなかった。


 少年は再び地面に座り込むと、リュートを両腕で抱えた。その視線は一直線にクレイドへと向けられていた。


「ショックだろうけど、俺が事実を話した理由は、君にはもう似たような手口で被害に遭ってもらいたくないからだ。……君なら大丈夫さ。もしもの時は楽器があるんだから、稼ぐのは簡単だろ?」

 クレイドは力ない笑みを浮かべた。

「……君もそうやって稼いでいるのか?」

「まあ、基本的にはね。宮廷楽師として雇われたこともあったけど、今は自由の身。いずれは国を出るつもりだよ。……俺みたいな人間はどこかで命果てるかもしれないけど、良ければ名前を覚えておいてよ。リュート弾きのアレットだ」


 少年はそう名乗ると、慣れた手付きでリュートをくるりと布で巻き上げた。器用に布の端を縛り上げて、斜めに背負う。


「じゃあね、お兄さん」


 アレットは笑顔で手を振りながら、迎えた日没とともにこの場を立ち去った。


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