第5話 路地裏の客(2)

 クレイドは、時が止まったようにその少女の姿をじっと見つめた。


 女性が少女の肩にそっと手を置く。

「……エリス、このお兄さんを困らせてしまったみたい。私たちはそろそろ帰らないと」


 今、この女性は間違いなくという名前を口にした。


 ――やっぱりそうだ。自分が君の兄なのだ、と今ここで伝えなければ……。


 早く言わなければ帰ってしまうと分かっているのに、間違った発言をしてしまうことへの不安が、クレイドの心を抑圧していた。


 でも、今ここで伝えなければ、もう二度と――。




 言葉が何も出てこなかった。



 ――ああ、馬鹿だ……。


 自分が名乗ることで、妹の平穏な生活を壊してしまうかもしれない――そんな恐怖心が、優位に立ってしまったのだ。


 心の弱さが出てしまったのが情けなくて、クレイドはエリスに作り笑顔を向ける。

 妹を探すためにここまで来たというのに、いざ会えたと思えば自分から逃げ出してしまうなんて。


「あなた、大丈夫……?」

 女性が見かねて声をかけてきた。


 ――今、俺はどんな顔をしているんだろうか……?


 クレイドは女性の顔をまともに見ることができず、顔を背けた。

「すみません、気を遣わせてしまって……」

 女性はその場で身を屈めると、首を傾けてクレイドの顔をそっと覗き込んだ。

「本当に大丈夫? 何かあったんじゃない?」

 まるで子供をあやすような声である。

「……何でもないので」

 クレイドは伏せ目がちになりながら、逃げるように女性から視線を逸らすと、ヴァイオリンをわずかに抱き寄せた。


 じわじわと込み上げてくる感情を押し殺すことに必死であった。


「どうしたの?」

 その純粋な声から、エリスがこの状況に戸惑っていることをクレイドは理解した。

 このままではいけないと思い、一呼吸おくと真っ直ぐにエリスの顔を見た。


「……いいや、何でもないよ。ごめんね。君の病気、早く治るといいね」


 エリスは大きく頷くと、満面の柔らかな笑顔をクレイドに返した。


「うん、ありがとう」


 女性はクレイドとエリスを交互に見た。


「あなた、もしかして――」


 クレイドは最後まで言わせず、首を横に振って女性の言葉を制した。


「――どうか、お元気で」


 これ以上、二人と話をしていると自分の感情が制御できなくなりそうであった。


 女性はクレイドの意思を察したのか、やや辛そうな表情を浮かべながらも、エリスに帰ることを促した。

「……さぁ、帰りましょう」

「うん。お兄さん、またね」


 エリスはクレイドに手を振り、クレイドもまた小さく手を振り返した。


 ――そう、これで良かったのだ。



 そうだよな――とクレイドは思った。

 エリスからの手紙に差出人の住所が記載されていなかったということは、返信を求めていなかったということ。実際、エリスは楽しそうにしていたし、きっと良い環境の中で平穏に暮らしているのだろう。

 実の兄として、それを知ることができただけでも十分だと思わなければ――。


 自分自身を納得させたはずであったが、軽やかな足取りで去っていく妹の姿がクレイドには滲んで見えていた。


「ほんと、馬鹿だよな……」

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