第3話 歓迎

 一日の仕事を終えたクレイドは、店の外扉に『closed』の看板を掛けた。


 二階へと続く階段を上がり、リェティーの部屋の扉を三回ノックする。

 プライバシーを考慮して、扉の外から呼びかけた。


「リェティー、今日の仕事が終わったよ。これから夕食の準備をするから、もう少ししたら降りてきてね」



 すると、ガチャッと勢いよく扉が外側に開いた。

 クレイドは表情こそ変えなかったものの、二、三歩後ずさって少し仰け反る。


「夕食の準備、私もお手伝いします!」


 リェティーはどんと前のめりになり、クレイドを見上げて宣言した。


 一方のクレイドは、宙を描くように視線を逸らす。

「い、いや、それは……」


 彼女がこの家で居候を始めて数日が経過したばかりだが、実のところ、既にこのやり取りは毎晩繰り広げられていた。

 普段の昼食は仕事の合間ということもあり、せわしなく済ませることも多い。

 だが、夕食はそうではなかった。クレイドは多少なりとも手の込んだ料理を作るため、近くで傍観するだけのリェティーの立ち場としては、せめて何か役に立ちたい――という強い思いがあったのである。


 これまで幾度もクレイドに手伝いの申立てを行ってきたリェティーだったが、如何せんクレイドが承諾したことは一度もなかった。


 このような現状から、この頃リェティーは手持ち無沙汰になっていたのだ。今まで花売りとして働いていた時間が全て空白となり、これをありがたいことだと思いつつも、何の役にも立てない無力な自分にもどかしさを感じていたのである。


 ところが、今日のリェティーはいつもと違った。

 クレイドの承諾を得るために、しばらく奮闘し続けていたのだ。


「クレイドさま! 今日こそは、私にお手伝いを……!」


「気持ちはありがたいと思っているよ。だけどね……」


 クレイドは物腰こそ柔らかいが、相変わらず固い意思を貫き、年下相手にもかかわらず譲歩する気は全くない。


 リェティーはここで初めて別の手段を試みた。


「お兄さま! お願いですから、私のお話を聞いていただけませんか?!」


 ――えっ、「お兄さま」……?


 突然の呼び名にクレイドは動揺した。


「そ、その呼び方は……?」


 リェティーは両手をビシッと体の横に揃えると、出せる限りの大声で宣言した。


「クレイドさまは私の恩人です! ぜひ私にも何か協力させてください! 尊敬と親愛なる気持ちを込めて、ぜひ『お兄さま』と呼ばせていただきます!」


 そして、その場で勢いよく一礼した。


 ――「呼ばせていただきます」って、拒否権なしか?!


 小柄な少女とは思えないほどに力強い身の構えは、まるで戦場へ赴く騎士のようであった。


 仰々しい態度であるにもかかわらず、わざとらしさが一切感じられないことに、クレイドは少し頭を悩ませた。


 そして、今回ばかりは打つ手なしか、と早々に判断した。


 この態度を延々と貫かれては、どう対応すれば良いものか分からなくなりそうだった。


「わ、分かった。そこまで言うのなら……。本当に手伝ってもらっても良いの……?」


 リェティーは頭を上げると、打って変わり満面の笑みを浮かべた。

「はい! ありがとうございます!」

 クレイドは肩を竦めながらも、困ったように微笑んだ。

「こちらこそ」



 夕食の準備をしながら、リェティーは終始嬉しそうにニコニコしていた。

「お皿、ここに置いても良いですか?」

「うん、ありがとう」


 リェティーは行動を一つ起こすにしても、必ずクレイドに了承をとっていた。


「あの、お兄さま。一つお願いしたいことがあるのですが……」

 リェティーはどこか申し訳無さそうに言い出す。

「うん?」

 『お兄さま』呼びについては、ひとまず不問とする。

「その……、一回だけで構わないので楽器を弾いていただけませんか? 今日も一階から音が聞こえてきたので、私もヴァイオリンの音を近くで聞いてみたくて……」


 ――あぁ、そうか。


 クレイドは自分の気が回らなかったことを少しだけ悔やんだ。

 この家で暮らして数日経つのに、彼女には楽器に関する説明を何もしていなかったのだ。

 ここ最近は仕事が多忙だったこともあり、趣味として楽器を弾く事もなく、ロディールが来ることさえなかった。

 リェティーは楽器に興味を持ちながらも、「聞いてみたい」と言い出すことができなかったのだろう。


「分かったよ。でも、俺は演奏家じゃないから期待しすぎないでね」


 リェティーの顔が分かりやすく喜びに紅潮し始めた。


「あ、ありがとうございます! 演奏が上手なのはもう知っています! 二階で聞こえていましたから!」


「二階から聞こえた音だけで、俺が弾く音だと分かったの?」


 これは素朴な疑問だった。  

 リェティーが客の試奏の音を聞いただけの可能性だって、十分ありうるはずなのだ。


「もちろん分かります! 同じ人が演奏する音が毎日聞こえてきたので、それならお兄さましかいませんよね? 毎日同じお客様がこの店で演奏しているとは思えなかったので」


 ――リェティーは、俺の演奏の癖を見抜いているのか……?


 クレイドは夕食の準備の手をぴたりと止めた。

 一階から聞こえてくる楽器の音なんて、何枚もの壁を挟んだような、こもった音にしかならないはずである。

 それを聴き分けるとは――。


「――すごいなあ」


 クレイドは口から自然と言葉が漏れた。

 不思議そうに首を傾げるリェティーは、自分のどこがのか、分かっていないようである。


「もしもお腹が空いていなければだけど、夕食前に少しだけ弾いてみようか?」


 クレイドの何気ない提案に、リェティーはその場で小さく飛び跳ねた。


「よろしいのですか?!」


「うん。じゃあ、少し待っててね」


 

 クレイドは作業場の方へと向かい、ヴァイオリンの演奏準備を始めた。

 壁に掛けられた楽器をひと通り眺めて、何となく目に入った一挺を選ぶ。



 いざ弾こう――とヴァイオリンを左肩の上に乗せた、その時であった。


 こういう時に限ってお尋ね者がやってくるのだ。



「クレイドー! 久しぶりに楽器でも弾くか!」


 相変わらずのこの陽気さは、お馴染みのロディールだ。


 リェティーがこの家に身を寄せていることをロディールは事前に聞いて知っていたが、実際に二人が顔を合わせたのは今回が初めてだった。


 ロディールはリェティーの姿を見た途端、慌てて謝った。


「あ、いや、すまない。急に誰だよ、って思うよな。俺はクレイドの――」


「知り合いだよ。この人はロディールって言うんだ。ちなみにロディール、この子がリェティーだ」


 紹介されたリェティーは、人見知りすることもなくロディールに向けて丁寧に頭を下げた。


「リェティーです。よろしくお願いします」

「礼儀正しい子だなぁ」

 ロディールはリェティーの態度に感心する一方で、クレイドに難色を示した。

「知り合いってなんだよ。せめて友人とか言って欲しいもんだ」

「どっちでも同じだ」

 クレイドは無愛想にそっぽを向いた。


 クレイドは手に持っていたヴァイオリンを作業机に置いた。


 しかし、ロディールの視線は引き続きそのヴァイオリンに向けられていた。


「お前、これから弾くつもりだったのか?」


 どことなく期待するような目でクレイドを見る。


 クレイドはやんわりと視線を逸らした。


 ――言いたいことは分かっている。が、しかしだな……。


「リェティーがヴァイオリンの音を聴きたいと言ってくれたんだ。夕食前に、一度弾いてみようと思っていたところだ」


 ロディールは明らさまにがっかりした顔を見せる。


「それじゃあ、俺が一緒に弾いちゃだめだよな……?」


「そうだな」


 これらの会話はいつも通りだ。

 しかし、クレイドとロディールの関係性を詳しく知らないリェティーは、不安そうな表情と落ち着かない素振りを見せていた。


「あ、あの! 良ければ、ロディールさんも一緒に弾いてもらえませんか?!」


 これはロディールのことを気遣ったゆえの言葉だろう、とクレイドはすぐに理解する。


 クレイドが何か言う前に、ロディールが口を開いた。


「心配させてごめんな。俺たちすごく仲良しの知り合いなんだよ。仲が良いからこんなことも言ったりできるんだ」


 リェティーは目を丸くしながらも、ロディールの話を真剣に頷きながら聞いていた。


「な、なるほど。お兄さまと仲良しなのですね。勉強になります」


 ――ロディール、「仲良しの知り合い」って言葉のセンスはどうかと思う。


 クレイドは二人の会話に突っ込みを入れたい気持ちをぐっと堪えた。


「いやぁ、リェティーはいい子だな」

 そう言ってロディールはにっこりと笑いかける。

 一方のリェティーは、謙遜してなのか、勢いよく何度も首を横に振っていた。


「ちなみに、君がクレイドのことを『お兄さま』って呼ぶのは何でだ?」

 リェティーは気恥ずかしそうに、控えめに笑みを浮かべた。

「その、私を助けてくださった偉大な方なので。一番しっくりきた呼び方なんです」


 ロディールはクレイドに向けてニヤリと笑うと、肩をポンと叩いた。ただ予想以上に力強く、クレイドは少しよろめいた。


「それは良いことをしたな、クレイドお・に・い・さ・ま!」


「お前、馬鹿にしてるだろ。俺だって、自分が『お兄さま』って柄じゃない事ぐらい分かってる」


 クレイドは少々憤慨した。

 だが、ロディールから二人は仲良しであるとの教えを受けたリェティーは、この様子を楽しそうに眺めている。


「んじゃ、今日はリェティーの要望もあるから、俺がヴァイオリンを弾くぞ」

 そう断言するクレイドを見て、ロディールは「ふむ」と顎に手を当て首を傾げた。

「クレイドが自らヴァイオリンをねえ……」

「いいか。ロディール、今日はリェティーのために演奏を聴かせてあげたい。だから、真面目に頼むぞ」

 クレイドの心中を察したロディールは、一転してニッと笑った。

「よし、了解!」





 始まったのは、日没を感じさせない陽気なケルティック・ミュージック。


 少し遅れて二拍子のリズムを打つ小さな手拍子が加わり、少女の笑顔は満開に花咲いた。


 ――改めて、この家へようこそ、リェティー。

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