第4話 兄妹

 雲ひとつない澄み切った空。

 今日も一日の始まりを告げる鐘が街中に響き渡った。

 

 昨晩はクレイドとロディールの演奏にリェティーの手拍子という彩りが添えられ、今までにない大盛り上がりとなった。

 ロディールは「帰りたくない」と言いながらも翌日の仕事への影響を考慮して、夕食だけご馳走になった後、渋々帰っていった。



 クレイドとリェティーは、昨晩の余韻がまだ抜け切らない状況の中、朝食の席についていた。


「あの、お兄さまのタイミングで構わないので、いつかヴァイオリンを教えていただけませんか?」

 リェティーが目の前に座るクレイドの瞳を真っ直ぐに見たらめ、クレイドも視線を返して穏やかに微笑んだ。

 少しずつ自分の意志や考えを出すようになったのは、ここでの暮らしに慣れてきたことの表れであろう。

 もちろんクレイドには断る理由などなかった。


「うん、リェティーは音を聴くセンスがあるからね。きっとすぐに上達するぞ」

「いえ、そ、そんなことは……!」

 リェティーは頬を少し染めながら、首を大きくブンブンと振った。

「本当だよ? ロディールなら驚いて腰抜かすんじゃないかな」

 クレイドは素直に思ったことを口に出した。

 すると、今度はリェティーがどこか気の毒そうな眼差しでクレイドを見る。

「お、お兄さま……。ロディールさんのことを話すとき、ちょっとだけ、雑になります」

「そうかな?」

 どこか楽天的な態度を見せるクレイドに、リェティーは真顔で頷いた。

 

 一瞬の沈黙のあと、リェティーがくすくすと笑い出す。

 その様子を、クレイドは妹を見るような温かな眼差しで見ていた。




 昼時を過ぎた頃、来店したのは一人の女性客だった。

「あの、失礼します」

 扉を開けて、ちょっぴり顔を出す。その客人の顔を見て、クレイドは驚いた。

「あぁ、君は……! どうぞお入りください」

 まだ記憶に新しい、昨日ヴァイオリンを購入したばかりの少女だ。

 一人で店内に入ってきた様子を見る限り、母親は来ていないようである。彼女は購入したばかりの楽器ケースを大切そうに両腕で抱きかかえていた。


 ただ、クレイドが真っ先に思い立ったのは、楽器に不具合が見つかったのではないだろうかという不安だった。


「昨日はありがとうございました。もしかして、楽器に何か問題でもありましたか?」

 眉をひそめながら尋ねたところ、少女はすぐに否定した。

「いえ。ただ、話すと少し長くなるのですが……」

 不具合でなかったことに胸をなでおろしたクレイドだったが、まだ安堵はできず表情が強張っていた。


 ――話すと長くなること……?


「何でしょう? 今なら時間もありますし、お話をお聞きしますよ」

「あ、ありがとうございます……!」


 クレイドは少女を奥の部屋まで案内すると、昨日と同じジュースを提供した。

「お気遣いすみません」

 少女は小さく頭を下げて、それを一口飲んだ。


「実は私、兄を驚かせたくて、兄には何も言わずにヴァイオリンを買ったんです。それで、兄に話したら……」

 そこまで言うと、少女は急に口を閉ざした。


 クレイドは瞬時に察した。

 これは、あまり良くない話が出てくる流れかもしれない。


 ――もしかして、お兄さんに楽器の品定めをされて酷評を受けたとか? とすると、この楽器は使い物にならないと言われて返品しに来たのか?

 いやしかし、これは考えても仕方がないことだ。杞憂に終わる可能性だってある。


「何か、まずい事でもあったでしょうか?」


 少女は慌てて首を横に振ると、すぐに向き直ってクレイドを正面からじっと見た。

「ち、違うんです。実は私の名前、フィナーシェ・ブレッセナーという名前なんです」


 二人の間に沈黙が走った。


 ――ブレッセナーって、ロディールと同じ……?


 クレイドは、であるロディール・ブレッセナーの顔が真っ先に思い浮かんだ。


 クレイドが少し気まずそうに口を開いた。

「……な、なるほど、そういう事か。君のお兄さんってロディールのことだったのか」

「はい」

 少女は困ったように笑った。


 クレイドは妹の存在を知っていたものの、この眼前の少女がロディールの妹であるという事実に心底驚いた。彼女は優しそうな垂れ目と、おっとりとした笑顔が印象的であり、そう考えるとロディールとは似ても似つかない。


 正直、ロディールの容姿から弦楽器を優美に演奏する姿を想像できる人は、この世にどれほどいることだろう。鍛え上げられた身体と、決して人を傷つけない優しい冗談で周囲を明るくさせる包容力。

 あぁそうか、とクレイドは顎に手を当てた。

 昨日来店した母親から感じられた温かい包容力、これはロディールと同じものだ。


 ――いや待て。今はロディールのことよりも目の前の少女のことだ。


 クレイドは頭の中に思い浮かべたものを掻き消した。

 この少女はロディールの妹である以前に、この店の大事な客人だ。粗相があってはならない相手である。

 クレイドは穏やかな表情を崩さぬよう、意識的に口角を上げた。


「ロディールに妹さんがいたのは知ってたけど、まさか君だったとは。ヴァイオリンを買ったとき、お兄さんには何て話したの?」

「はい。兄の家に楽器を持って行ったら、買った店を聞かれたので“avec アヴェク des cordesコード”だって答えました。そしたら、『そこって、クレイドの店だ』って。私がクレイドさんについて兄に色々と尋ねたら、『あいつの店に行って直接聞くのが一番だな』ってそれだけ言われたんです」


 ――ロディールのやつ、俺に全部丸投げか。


 クレイドは無意識のうちに小さく唸っていた。

「あの、クレイドさん?」

 フィナーシェが不思議そうに呼びかける。


 クレイドは、ハッと気がついたように顔を上げた。本音を隠した笑みはあっという間に崩れ落ちていた。

 

 ――し、しまった……! 接客中なのに、つい自分の世界に入ってしまっていた……!


「し、失敬……」

 クレイドは視線を逸らして小さく咳払いした。


 しかし、フィナーシェはリェティーと似た仕草でくすくすと笑い始めた。

「気になさらないでください。むしろ安心しました」

 クレイドはきょとんとした顔で少女を見る。

「……安心? それはどうして?」

 その疑問に答えるように、フィナーシェは微笑みながら話し始めた。

「この店に来たことのある人に聞いたのですが、皆さんあなたの事をこう言うんです。『隙を見せない、紳士的な青年』って。でも、必ずしもそうではないんですね。それを知ることができて良かったです」

 一転、クレイドは困ったような表情を浮かべた。

「普段も仕事中と同じじゃ堅苦しくありませんか? ……とはいえ、何でそんな妙な噂が立つかなあ」

「噂とはいえ、事実です! クレイドさんにお似合いの、素晴らしい肩書きですよ! ね!」

 フィナーシェは笑顔で断言した。


 ――突っ込みたいけど、突っ込みづらい……!


 そう心の中で思いながら、クレイドは言葉なく笑顔だけを返した。


 ロディールの妹フィナーシェは性格がやや天然なのだろうか。軽く話をしただけで判断するのも宜しくないが、ロディールの妹と言われたら「あぁなるほど、確かに」と思う部分はある。

 確実に似ているところといえば、赤茶系の髪色くらいだろうか。昨日来ていた母親も同じ髪色をしていたはずだ。

 クレイドがそんなことを考えていると、フィナーシェは唐突にキリッと頭を下げた。

「改めて、昨日は本当にありがとうございました!」

「い、いえ。それはこちらこそ」

 一方のクレイドは不自然に頭を下げた。完全に相手のペースに巻き込まれている自覚があった。

「本当に素敵な楽器を購入できて嬉しかったです。今日も一緒に連れてきてしまいました。またこうやって店に来ても良いでしょうか?」

 楽器を『連れてくる』とは、なかなか乙な表現をするものだ。そう思い、クレイドはこの客人に少しだけ関心を抱いた。

「えぇ。それは、もちろん」

「良かった……! では、私もお仕事の邪魔をしたら申し訳ないので、そろそろお暇しますね」

「あ、もう用件は大丈夫ですか?」

 クレイドの問いかけに、フィナーシェはコクリと頷いた。


 そして、彼女は楽器ケースを持ってスタスタと店の出入口へと向かった。片手で扉を開けて、くるりと振り向いて晴れやかな笑顔を見せた。


「ありがとうございました!」



 日没を迎える少し前、クレイドは少し早めに閉店した。

 リェティーの希望を叶えるために、第一回目のヴァイオリンレッスンを提案した。

「今日から始めてみる?」

 ところが、当の本人から別の提案を受けた。

「ありがとうございます! ですが、あの、今日は天気も良いので、少しお外へ行きませんか?」


 おや? とクレイドは不思議そうにリェティーを見た。


「以前、お兄さまが外で演奏することもあると言っていたので、聴いてみたいなぁと思って……」


 クレイドは真っ先にリェティーと共に外出した場合のリスクを考えた。

 リェティーの姿を彼女の元養父母などに見られたら大変なことになるだろうし、日中の外出なら正直避けたいところだ。

 しかし、日没前後の時間帯ならどうだろうか。少し不安は残るものの、彼女を室内で軟禁状態にさせるのはクレイドにとっても不本意であり、何とか外に出してあげたいという思いはある。


「俺の演奏ばかり聞いても飽きるんじゃないか?」

「いえ全く! 楽しいです!」

 純粋な笑顔を見せるリェティーに、クレイドは彼女と共に外出することを決めた。

「分かった。君がそこまで言ってくれるなら」



 そして、外出する準備を始めた。

 クレイドは奥の部屋に向かうと、ゴソゴソと物を漁り始めた。


「リェティー。実はこんな時もあろうかと、この前買い物に行った時、服を一着買ってみたんだ。今は大市場で街も賑わっているから、仕立て屋の品揃えも多かったよ。サイズは少し不安だけど……」


 クレイドが手に持っていたのは、女性用の衣服であった。

 生地は見事な真紅色に染められ、スカートの裾はわずかな空気の振動だけで柔らかに波打つ。生地に光沢はないものの、職人によって丁寧に織り込まれた、きめの細やかさは一目瞭然である。


「こ、これは……?」

「リェティーに買ったんだよ。さすがに俺は着られないからね」

 クレイドが笑顔でそれをリェティーに渡すと、彼女は感極まったように瞳をうるませた。

「よ、よろしいのですか……?! こんな立派なものを、私に……?!」

「立派かどうかは分からないけど、庶民が少しお金を貯めたら買えるような服だと思うよ。良ければ、貰ってもらえるかな?」

 リェティーは全力で頷いた。

「本当に、ありがとうございます!」

 受け取った服を愛おしそうに上から下まで眺めて、ぎゅっと抱きしめた。

「着替えてきます!」


 リェティーが颯爽と二階で着替えている間、クレイドは服のサイズが丁度良くあってくれ……と願っていた。


 真紅に包まれたリェティーが嬉しそうに階段を駆け下りてくると、彼女は階段下でぐるりと一周回ってみせた。

「見てください! ぴったりです!」

 その姿を見て、クレイドは息をついて安堵した。


 クレイドはリェティーの服の寸法を測らずしてサイズを見極めたわけだが、その方法は人に言えるようなものではなかった。

 まず、前提として押さえていたことは、リェティーが年齢のわりに華奢で小柄という点であり、一般的なものより小さなものを選ぶ必要があった。

 そして、寸法測定については、体格を含めた身体のサイズを楽器のサイズに置き換える独自の方法をとっていた。具体的に『肩幅はヴァイオリンの弓の長さ三分の一程度』、などである。これは弦楽器職人のクレイドだから出来ることであった。 

 つまるところ、クレイドは日常生活の中でひっそりとリェティーの体型などを見て寸法測定を行っていたのだ。結果として本人に不審な目で見られることもなく、ましてや何も気づかれずに済んだということは、信頼関係があってのことだろう。

 ただし、この事実はロディールにだけは知られたくなかった。

 これは極秘につき、他言無用にしておこう――クレイドはそう決心した。



 ***



 先ほど教会の鐘が鳴り終え、日没を迎えたところだ。

 リェティーに店の扉を開けてもらい、クレイドはヴィオラダガンバを持って外へ出た。

 外は薄暗くなり始めているものの、空にはまだ少し茜色が滲んでいた。リェティーの真紅の服は夕焼けに染まり、温かみを帯びた色に変わって見えた。

 街の市場の人だかりも次第に減り始めて、ランタンの明かりが所々で目立ち始めている。



 二人は広場へ到着すると、クレイドがいつも演奏をしている場所へと向かった。

「さて、ここら辺にしよう」

「はい! 分かりました!」

 教会近くの広場の端、木陰の下にある三人掛けのベンチだ。

 ここがクレイドのお気に入りの場所だった。

 クレイドが腰掛ける左側に、リェティーはちょこんと座った。



 ヴィオラダガンバの哀愁感漂う重低音が響き始めた。


 少し肌寒くなった空気に楽器の柔らかな音色が溶け合い、リェティーや帰途を急ぐ人々の心を優しく、温かく包み込んでいく。


 リェティーは目を瞑ってクレイドの音に耳を澄ませていた。

 弓と弦が擦れ合う微かな音のほか、音の余韻までもはっきりと聞き取ることができる。

 今までの嫌なこと全て、何もかも忘れてしまいそうな気がした。


 ――お兄さま、今この瞬間がとても幸せです。

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