第1話 抒情詩人の芝居(2)

 青年は酒場を夜通し巡り歩き、人々にウェリックス公爵の罪を語り続けた。


 もっとも驚いたことは、ウェリックス公爵の人物像を知る者が誰ひとりとしていなかったことである。さすがに偶然であろうが、公爵を擁護する者がいないということは、彼の言葉を無条件に信用する人々も、そう多くはないということだ。

 この事実は、片眼の青年の作戦遂行を後押しすることになった。


 カウンター席に座りながら、青年は片肘をついて左目をいたわるように手で覆った。口元に笑みを携えて、店の主人へ向けて言葉を告げる。


「今日の日没前に、我々の仲間が真実を明かすことでしょう。もしご協力いただけるのなら、ぜひ広場へお越しいただきたい。スベーニュの未来はきっと明るいものになるでしょう」



 ✳︎✳︎✳︎



 夜が明け始めたスベーニュの街で、青年は目を細めながら朝焼けを見つめた。

 朝靄で霞んだ視界の中で、青年は左右を見回す。人の姿が一切なく、テントを張った常設市場や煉瓦造りの店が建ち並ぶさまが、不思議と別世界のように見えた。


 広場の方向から教会の鐘の音が聞こえて、いよいよ今日の始まりが告げられる。

 青年は適当に目についた建物の外壁に寄りかかると、撥弦はつげん楽器シトールを抱えながら腰を下ろした。


「……さすがに、一晩中この調子はちょっと疲れたかな」


 ふと真上を見上げると、外壁から肉屋のフラッグ看板が目に入った。

 開店前までこの場で少し休むことにしよう。抒情詩人としてではなく、今だけは一般人レオンスとして。



 ところが、すぐに周囲は騒がしくなり始めて、レオンスは閉じかけていた瞼を強引に見開いた。


 老若幅広い女性たちが辺りの店から続々と出てきて、花壇への水やりを始めたのだ。

 スベーニュではよくある光景だとロディールは言っていたが、これぞ街の風物詩と言わんばかりの光景だった。このメインストリートを見渡すだけでも、その数十五名は優に超えている。

 

 突如、背中に振動を感じて、レオンスは外壁から身体を離して振り返る。背を預けていた肉屋の扉が開いたのだ。

 そこには老齢の女性がバケツを持って立っていた。


「あらまあ!」


 見知らぬ青年を見て女性は声を上げた。その瞬間、辺りの女性たちの視線がみすぼらしい恰好の詩人の姿を捉えた。

 ある者は濡れた手をエプロンで拭きながら、またある者はバケツを手に持ちながら、急ぎ足で近づいてくる。


「……大丈夫かい⁈」

「あら、怪我してるじゃないの⁈」


 レオンスは瞬く間に女性たちに囲まれた。

 大袈裟などではなく本気で心配されていることが分かって、さすがに若干の申し訳なさを感じる。


 その瞬間、自らの名前を呼ぶ声が聞こえた。


「オベールさん……!」


 ロディールの声だ。『オベール』とは、この作戦決行にあたって取り決めたレオンスの呼び名である。

 この街中で彼が声をかけてくるのも作戦のうちだったが、もう少し早く駆けつけてくれれば良かったのに、と小さなため息をついた。


「ご迷惑おかけして、すみません」


 ロディールは女性たちの間をくぐり、周囲に頭を下げながらレオンスの横に膝をついた。怪我を負った右半身を少し庇いながら、左腕をレオンスの肩に回して起立させようとする。


「……いや、一人で大丈夫だよ」


 レオンスは自らの力でその場に立ち上がった。だが、その片眼が見ているものは地面の石畳だった。


 そして、張り上げない程度に大きな声で、悔しさを滲ませるようにレオンスは言葉を放った。


「……人殺しのウェリックス公爵は、罪のない人間を罪人に仕立て上げようとしている。そんなこと、許されていいはずがない。決して許してはならない」


 途端に辺りは騒然となり、数多の動揺と驚きの声に包まれた。ウェリックス公爵の姿をまともに見たことのない街の女性たちは、互いに首を傾げながら顔を見合わせている。


 ロディールは眉を寄せながら、どこか不安そうにレオンスを見ていた。その言い方が、ただの作戦としての芝居には思えなかったからである。


 レオンスは変わらぬ調子で話を続けたが、その訴えかけるような口調は、人々の注目を否応なしに集めていた。


「……ウェリックス公爵は芸術、とりわけ音楽に強い関心を持っている御方。しかし、自分の望むものが手に入らなければ、他人に罪をなすりつけ、他人の人生を壊し、全てを壊しても自分の望みを叶えようとする人間だ」


 人々は抒情詩人のを黙って聞いていた。


「正義を持つ弱き者は、不義な強き者に意思表示をしてはならないのか? そのまま理不尽に排除されることを待たなければならないのだろうか?」


 その問いの答えを求めるように、レオンスはロディールに顔を向けた。

 この場に及んで訊ねることではないだろうが、ウェリックス公爵と本来無関係である彼の考えを、今ここで聞いておかなければならない気がしたのである。


「君は公爵のことをどう思う?」


 ロディールは驚いたような、困惑した顔をした。

 だが会話を振られた以上、自分が何か答えなければ話が進まないことも理解していた。

 それに、その答えはもう決まっていた。


「……意思表示をして、逆に理不尽に排除されることもあるかもしれません。でも、自分の正義がこっちにあると確信しているなら、俺は後悔したくないので意思表示すべきだと思います」


 レオンスは口元に笑みを浮かべて、心の中でほっと安堵した。

 この作戦の成功は十分に見据えているものの、全くリスクがないわけではない。ロディールが単にクレイドの親友という理由で協力しているのなら、本人は望まないだろうが、正直今からでも身を引かせるつもりで考えていた。

 だが、それは単なる杞憂であったことを知る。


「それと、もう一つ」とロディールが言葉を続けたため、レオンスは二回まばたきして彼を見た。

 表情を曇らせながら、ロディールは口を開く。

「ウェリックス公爵が真の音楽愛好家なのか、俺には分かりかねます。本当に音楽を愛している人間ですら、自分の権力として利用しようとする奴です。……俺は、それが許せません」


 これはきっとクレイドのことだろう。レオンスはそう思いながら、自分の父親やフェネット家当主の姿を重ねて、わずかに目を伏せた。



 不意に女性たちが声を上げ始めて、最年長らしい肉屋の女性が「私にできることなら協力するよ」と言った。

 レオンスは顔を上げてその女性を見たあと、ぐるりと周囲を見回す。人々の視線が自分の返事を求めて真っ直ぐに向けられていることに気がついた。

 人々の温かさを直に感じて、レオンスは馴れない居心地に小さく頭をかきながら、どこか吹っ切れたように清々しい顔を向けた。


「私からお願いしたいことは二つあります。一つ目は、今日の日没前にウェリックス公爵が広場で罪の告示を行う予定です。ですが、そうはさせません。真実が明かされるその瞬間を、多くの皆さんに見ていただきたいのです。……そして二つ目のお願いは、今話したことをできるだけ多くの人に伝えていただきたいのです」


「もちろんさ。公爵なんて、私たちにとっては存在すら疑う男だもの」


 ひとりの若い女性の言葉に、どっと笑いが起きた。

 一瞬つられそうになりながら、レオンスはロディールと顔を見合わせてうなずき合った。

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