第3話 動揺
ロディールは気持ちが落ち着かず、玄関扉の方向に視線を時々ちらりと向けていた。
リェティーは懐中時計を真剣に見つめながら、じっと息を潜めている。
玄関から扉が開く音を聞いて、リェティーが顔を上げた。
「……良かった。時間内に戻ってきたようです」
ミセス・ヴェルセーノの姿を見て、リェティーはほっと安堵の表情を浮かべた。
ミセス・ヴェルセーノが順番に蝋燭に明かりを灯し始める。彼女の重々しい表情がはっきりと見えると、ロディールは気を抜くことなどできそうにもない状況であることを悟った。
「待たせたね。……驚かないで聞いてほしいんだが、訪問者はウェリックス公爵だったよ 」
一瞬、その言葉が耳の中をすっと通り抜けてしまうところであった。ミセス・ヴェルセーノにしては驚くほど言葉に抑揚がない。
ロディールは言葉の意味をゆっくり咀嚼すると、石のように固まらざるを得なくなっていた。
ミセス・ヴェルセーノの緊張感を帯びた双眼が、ロディールとリェティーに向けられる。
「緊急で二人に話さなきゃならないことができたんだ。……悪いが、私はここにいられなくなるかもしれない」
衝撃的な言葉が、彼女の口から脈絡もなく飛び出した。
リェティーは動揺を隠すこともできず、震える両手で塞がらない口を覆った。
その様子を横目で見ながら、この反応も当然だろうな――とロディールは思った。
そもそもウェリックス公爵がこの家に来る理由が自分たちには分からないのだ。あの男がやって来るなど、良い話であるはずがない。
真っ先に思い浮かんだのが、クレイドのことであった。悪い方向へと考えて当然であろう。
――クレイドの身に何か危険が……。
「あんたたちは心配する必要ないよ。ちゃんと順を追って話すからね。……あと、明日ロディールに頼みたいことがあるんだが、お願いできるかい?」
その頼み事がどんな内容であっても、当然、ロディールには断る理由も見当たらない。
もし自分にも協力できることが何かあるのなら――という気持ちが強く、ロディールは顔を強張らせながらも大きく頷いた。
***
椅子に座り、ミセス・ヴェルセーノが開口一番にこう言った。
「私の元の名は、イゼルダ・ウェリックス。あのウェリックス公爵の実の姉だ」
あまりにも唐突すぎる告白であった。
再び脳内での理解が追いつかず、目の前にミセス・ヴェルセーノがいるにもかかわらず、視線がどこにも留まらない。
ロディールの頭の中は完全に真っ白になっていた。
少し冷静にならなければ――と理性を働かせて、ロディールはゆっくりと深呼吸する。
――イゼルダさんとウェリックス公爵が姉弟? クレイドは知っているのか? 騙されて……いや、この人はクレイドの親みたいな人で、リェティーや俺に対してもこんなに良くしてくれているだろ。俺は何を疑って……。
混乱のせいか、勝手な憶測が頭の中に沸々と湧き起こる。ロディールは何度も頭を左右に振り、自分を制御しようとした。
「言いたいことは山ほどあるだろうが、私は子供の頃に家出をしてそれっきりさ。思い入れなんてこれっぽっちもないし、ウェリックス側につくなんて、死んでも嫌だよ。……それでも、弟――現公爵のアシル・ウェリックスは、今でも私を慕ってくる変わり者だ。縁を切ったはずなのに切らせてもらえず、事あるごとに私に介入してくるのさ」
ミセス・ヴェルセーノは話を続けた。
秘密主義にすら思えた彼女の口から、スラスラと身の上話が明かされる。いつものように核心を突かせない独特な言い回しが一切ないため、到底嘘をついているようには思えなかった。
「三日後、日没の鐘が鳴ったら、私は人質としてウェリックス家の屋敷に行くことになるだろう。だから、これから一生、あんたたちは何も知らないふりをして過ごしてほしい。そうすれば、リェティーも隠れる必要がなくなるだろう」
リェティーは何も言えないまま、衝撃と恐怖で目を見開いていた。
ミセス・ヴェルセーノはわずかに寂しそうな笑みを浮かべる。
「もしもクレイドがこのことを知ったら、何をするか分からない。だから、少しの間だけでもあの子をルーバン地方で足止めしておきたいんだ」
ロディールは唇を真一文字にぎゅっと閉じた。
すぐに頷くことはできなかった。
「……何をされるつもりですか?」
「私は今からルーバン地方のバラッド村の住所に、クレイド宛ての手紙を書く。ロディールには、その手紙をスベーニュの郵便屋に出してほしい。最速で届けてもらえるなら、金はいくらでも出すと交渉しておくれ。クレイドにはバラッド村で手紙を読んでもらい、何としても足止めをする」
「……クレイドがこの事実を知ったら、何と言うでしょうか」
「どうだろうね。できることなら、事情はぎりぎりまで伏せておきたいと思ってるよ」
ロディールはわずかに目を伏せた。クレイドがこれを聞いて納得しないことくらい、分かっている。
「では、どうされるつもりなんですか」
ロディールがゆっくりと問いかけると、ミセス・ヴェルセーノはただ肩を竦めて首を横に振った。
「クレイドなら……。あの子なら強いから大丈夫さ。私の処遇は現公爵アシルの裁量次第さね」
自らの意思を失くしたかのようなミセス・ヴェルセーノの返答に、ロディールは少しだけ眉を寄せて彼女を見た。
聞きたかった言葉はそれではないのだ、と再び口を開く。
「リェティーとクレイドのことはどうするんですか?」
ミセス・ヴェルセーノは息をつくと、卓上のランタンの炎を憂いた瞳でみつめた。
「……平穏無事に生きてもらいたい。クレイドとリェティーを守ることだって、親としての私の役目なんだ。どんな方法であってもね。生きていれば大丈夫さ。アシルが私を殺そうとするなら、みっともなくったって命乞いくらいはするよ」
ロディールは何も言えず、眉尻を下げて黙って俯いた。
この人はクレイドとリェティーのことを本気で守ってくれる人なのだろう。でも、それはお互いさまであることを、彼女は分かっているのだろうか。
リェティーは小さな身体を震わせながら、大きく息を吸い込んだ。
「それが、おばさまのお考えなら……。おばさまに何かあったときは、私は必ず助けにいきますから」
リェティーが発した言葉には、力強い意志が込められていた。
その姿が不思議とクレイドに重なって見えて、ロディールは少しだけ救われたような気がした。
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