第4話 鍛冶職人

 クレイドが目を覚ますと、窓枠から溢れ出んばかりの光が差し込んでいた。慌てて身体を起こすと、左手に手紙が触れた。はっと息をのみ、嫌な冷や汗をかく。大切な手紙に危うく折り目を増やしてしまうところだった。


 ベッドから立ち上がると、窓際に立って街の様相を眺めた。既に人々の往来が多く見受けられ、一日の活動が既に始まっていることに気がついた。変わり映えしない街や人の姿を憂いに満ちた瞳で見下ろし、と心の中でひと言つぶやくと、くるりと背を向けた。


 突如、身体が空腹のサインを鳴らした。クレイドは咄嗟に腹に手を添えて、ため息を吐いた。昨日の朝食を最後に、何も食べていなかったことを思い出す。食べたい気持ちはなくとも身体が食物を欲しているこの状況は、まるで心と身体が別の生き物であるかのようだった。


 クレイドは二階の部屋に手紙を置いたまま、身一つで階段を下りた。

 ミセス・ヴェルセーノの土産の果物くらいなら、少し食べられるだろうか――そう思ってリンゴを一つ手に取ると、ナイフで器用にくし形に切って食べた。


 ***


 店を開ける気が起こらず、しばらくクレイドは奥の部屋で座っていた。楽器に触れたいという気分すら湧き起こらず、この陰鬱な感情をどう整理すれば良いのか、正解を見出すことができずにいた。


 突如、扉をドンドンと叩く音がした。その振動は店の扉を壊しかねないほどの力強さである。

 何事かと思いつつ、クレイドはあまり気が乗らないまま扉の方へ向かった。


「あの! クレイドさん、いらっしゃいませんか?!」

 クレイドの名を大声で呼ぶ女性。聞き覚えのある声で、焦燥感に駆られているようだった。

「今、開けます……!」

 クレイドはそう一声かけてから、扉を押し開けた。

「お待たせしま――」


「クレイドさん! 兄が怪我をして……!」


 クレイドは扉を広く開けると、そこにはフィナーシェが血相を変えて立っていた。その後ろには、どこか苦痛な表情を浮かべたロディールと、彼に肩を貸す無精髭の大柄の男の姿があった。


 クレイドは中に入るように促すと、真っ直ぐに奥の部屋まで三人を通した。フィナーシェとその男は礼を述べて中に入ったが、ロディールは「すまない」と小声で謝った。その瞬間、彼の背に掛けられた大判の布が風をはらんで膨らみ、クレイドはそれを横目で見た。


 フィナーシェは震える手で長椅子を引くと、男がロディールをゆっくりと座らせた。クレイドは何もできず、気もそぞろに三人の姿をただ見ていた。怪我の程度が気になるが、せめて自分だけは冷静でいなければならないのだと、焦燥に駆られる気持ちを抑えた。


 ロディールは俯きながら、ゆっくりと口を開いた。

「クレイド、突然だったのに受け入れてくれてありがとう。……そして親方、ここまで介抱していただきありがとうございました。無茶言ってすみませんでした。……フィナーシェも案内ありがとうな」

 一人ひとりに対して律儀に礼を述べるロディールに、クレイドはどこか居たたまれない気持ちになった。

 すると、大柄の男――ロディールの親方が、クレイドの方に顔を向けた。

「申し遅れたが、俺は鍛冶屋のウルバーノだ。実は、工房うちの新人が早朝から仕事してたんだが、どうも手を滑らせたらしくてな。新人が怪我するところを、ロディールは咄嗟に身体で庇っちまったらしい」

 ウルバーノは心配そうにロディールを見た。ロディールは無言で視線をテーブル上に落としていた。

「本当なら病院へ行くべきなんだが、ロディールは断固拒否しやがる。どうしてもここへ行きたいって言うもんだから、同僚に妹さんを呼んでもらって、ここまで案内してもらった」

 クレイドはロディールの背中に掛かる布に、やんわりと目を向けた。

「そうでしたか……。ちなみに、怪我の状態を聞いても……?」


 すると、ロディールが左手で背に掛けた布を手前からさっと引くと、隠されていた怪我の様態が露わになった。上半身の右腕から右脇腹付近にかけて、衣服が焼け落ちており、背中には焼けただれた赤黒い熱傷が大きく残っていた。

 フィナーシェはその痛々しさに目を向けられず、両手で顔を覆う。目を背けたくなるような傷跡に、クレイドも表情を歪めずにはいられなかった。


「これが傷跡だ。命に関わるような場所じゃなかっただけ運が良かったと思う。それに、俺には自分の傷が見えないんだからラッキーかもな」

「お兄ちゃん!」

「ロディール! こんな時に変な冗談言うなよ」

 黙っていられず、クレイドとフィナーシェが同時に声を荒らげた。ロディールは「悪い」と言って、渇いたように小さく笑った。


「親方、俺はもう工房あそこには戻れないでしょうか?」

「……急ぐことはない。まずは十分に休養を取って、身体が落ち着いてから、戻りたいと思ったときに戻ってこい」

 ウルバーノは深みのある力強い声で、ロディールの心を包み込んだ。

「……ありがとう、ございます」

「お前の意思を尊重したうえで、今の俺にできることはここまでだ。困ったときは、いつでも工房へ来い」

 ウルバーノはそれだけ言うと、店の扉がある方へスタスタと歩き始めた。


 クレイドは慌ててその後ろを追いかけて小さく呼び止めた。

「あの、ウルバーノさん。私はどうすれば……」

 ウルバーノは困ったような笑みをクレイドに向けると、ロディールに聞こえないように小声で話した。

「……すまんな、君に押し付けるかたちになってしまった。大声では言えんが、あいつは君に強い信頼を寄せている。迷惑かもしれんが、少し話を聞いてやってほしい。……あと、仕事中の怪我には保障が出せるから、もし病院へ行く気になった時は工房に声をかけてくれ。場所はあいつが知っている。ロディールは……本当に面倒見のいい、優しいやつなんだ」

 これが親方ウルバーノの本音なのだろう、とクレイドは少しだけ口元を綻ばせて頷いた。彼は人の心を何よりも大切にする、優しい人間に違いない。

 ロディールが親方を慕っていた理由が、クレイドにも何となく分かったような気がした。


「ありがとう。じゃあまたな、職人さん」


「ロディール、痛みは……?」

「問題ない」

 そう答えるロディールの横顔は、心なしか歪んで見えた。クレイドは両手を腰に当てて、小さくため息をつく。

「……病院に行くつもりは?」

「ない」

 我儘を言う子供のように、ロディールはそれ以上の言葉を頑なに喋ろうとしない。

「何故そんなに嫌がる? もっと悪化する可能性だってあるだろう?」

「こんな状態で医者に診てもらったら、野暮医者に腕を切り落とされるかもしれない……」


 クレイドは数秒の間、沈黙した。「そんなことはない」とすぐに否定できなかったことに、自分を責めた。ロディールの仮定はあながち間違いではなく、今の時代、高度な技術と的確な判断力を有する医者がそう多くないことは確かなのだ。

「お兄ちゃん。病院に行かなかったら、もっと広範囲に後遺症が出る可能性だってあるでしょ? せめて、病院で薬くらい――」

「今はだめだ。楽器が演奏できなくなったら困る」

 兄の強い意思に一瞬たじろいだフィナーシェは、肩を竦めてクレイドの方を見た。


「分かった。じゃあ熱傷の痕を冷やして、その布を包帯にして巻いておこう」 

 クレイドの言葉を聞いたロディールは、少しだけ安堵した表情を浮かべて「すまない」と謝った。

 


 クレイドはロディールが羽織っていた布の一部を切りとり、汲んだ冷水で熱傷部分を冷やした。フィナーシェも加わり、これを何度も繰り返しながらロディールの痛みが緩和するまで続けた。


 さらに、クレイドは布を一片も余すことなく包帯を作り上げると、それをロディールの傷痕を覆うように丁寧に巻き付けた。


「クレイドさん、さすが器用ですね!」

 クレイドの包帯巻きの手腕を真近で見て、フィナーシェが感嘆した。

「……そうかな? ――よし、巻き終わった。ロディール、身体動かしにくくないか?」

 ロディールがゆっくりと上半身を左右に動かした。

「大丈夫そうだ。二人とも、本当にありがとう。おかげで痛みが引いたよ。……本当に今日は迷惑をかけたな。もう昼時を過ぎてるはずだし腹減ったんじゃないか? フィナーシェは早めに帰ってくれていいぞ、俺は大丈夫だから心配するな。用事あっただろうに、悪かったな」

 フィナーシェは首を横にブンブンと振った。

「お兄ちゃんの命に比べれば、たいした用事じゃないもの」

「俺はお前の夢を壊すくらいなら死を選ぶかもな」

「……そんな簡単に死ぬなんて言わないで」

 フィナーシェが少し膨れていると、ロディールが「悪い」と言って微笑んだ。

「……ほら、あとはクレイドがいるから大丈夫だ。だから心配するな」

 ロディールの言葉に、クレイドは「そうだ」と頷きながらも、フィナーシェとの扱いの差が歴然としていることに気がついた。人のことを言えた義理ではないが、妹第一主義に傾向した考え方には気をつけよう――そう密かに思った。




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