第4話 暇

 夕方頃、男爵邸から帰還したクレイドは店の前に『open』の看板を掲げた。

 だが、疲労のせいか食欲もなく、今すぐにでも眠りたい欲に駆られた。今日は少し早めの閉店としても誰にも文句は言われまい。


 この日、クレイドは日没を迎えるより前に店の看板を裏返すと、そのまま二階の自室へ直行した。



 ***



 ロディールは仕事が早く終わり、クレイドが出張から帰って来るのを店内で待ち伏せていた。

 勝手に店内へ入って部屋に居座り、帰ってきたクレイドを驚かすという子供じみた作戦を練っていたのだが、そのターゲットは最後までロディールの存在に気がつくことはなかった。ロディールの作戦は不戦敗に終わったのである。


 それよりも、ロディールは侵入者に気がつかない無用心なクレイドのことが心配になり、後を追うように二階へと上がった。


「クレイド?」

 二階の部屋を開けてみると、クレイドは既にベッドに倒れ込むように眠っていた。さすが眠り魔と言わんばかりであった。

 ロディールはクレイドを起こさないように注意を払いながら、そっと扉を閉めた。

 

 ――ずいぶんと疲れてるんだな。



 ***



 翌日、クレイドは早朝に起床した。

 一階に降りたとき、長椅子で眠るロディールの姿を発見したが、特に驚きもしなかった。

 朝食の準備を進める最中、ロディールが物音で目を覚ました。奥の部屋はキッチンとリビングがワンフロアになっているため、建物の構造上、物音や会話はほぼ筒抜けなのだ。


「お……? おぉ、起きてたのか。昨日はかなり疲れてたみたいだな。大丈夫か?」

 ロディールが開口一番に尋ねた。

 クレイドはロディールの方を振り向くことなく、ただ準備に手を動かしながら応答する。

「まあな。歩いたし、靴擦れで足痛いし、精神的にも疲れたし。依頼人の男爵は良い人だったけど、少しだけ変わった人だった」

 この本音はロディールだから話せるわけで、他の人に聞かれたとなれば問題になりかねない。彼を信用しているがゆえなのだ。


 ロディールは朗らかに笑った。

「そりゃあお疲れさんだったな。けど、男爵からの依頼って何だったんだ? お前が出張なんて珍しいだろ」

 二人の会話は続くが、未だに視線が合うことはない。

「呪いのヴァイオリン。知ってるか?」

「それなら確か親方から聞いたことあったな。お前、それ弾いちゃったのか?」

「依頼されたから引き受けただけだ。でも結局、普通のヴァイオリンだったよ。多少の違和感はあったけど、もう大丈夫だと思う」

 クレイドは朝食の食材に向き合いながら、淡々と言葉を述べる。

「なるほど、お前らしいな。呪いと言われる楽器でも、すぐ弾きこなせるなんて羨ましいぜ。さすが天才クレイド君だな」

 顔を合わせてもらえないことへの当てつけのように、ロディールは皮肉混じりの言葉を述べた。ここでようやく、クレイドは不満そうに振り返った。

「馬鹿にしてるのか? 俺には楽器の良さはすぐに分かる。……羨ましいか?」

 どこか不貞腐れたように目を細めてロディールを見た。ロディールはやれやれと肩を竦めて、小さくため息をついた。

「分かった分かった、俺が悪かったよ。……はは、本当に可愛げないよな、クレイドは。まあ、例のヴァイオリンを弾いてもお前が無事だったなら何よりだ」

「未来はわからないけど、たぶん無事だと思う」

 そう応えた後、クレイドは続けて尋ねた。

「そういえば、ロディールは今日ずっとここにいるつもりか?」

「いて欲しいか?」

 ロディールはにやりと笑う。

「俺が聞いたのに。最低だぞ、ロディール」

 彼はいつも冗談を言いながら、クレイドの反応を見て楽しむ癖がある。会話の主導権を完全に握られたクレイドは、少し膨れていた。

「おっと、機嫌を損ねたか。悪い悪い。いや、今日は仕事が休みなんだよ。お前が良ければ、居させてもらおうかなーなんて……」

 冗談の後の謝罪の言葉も、いつものお決まりだ。だからこそクレイドも怒る気が失せるのである。

「いや、俺は大丈夫だ。客は来たら対応することになるけど……」

「そりゃあもちろん構わない。ありがとな」



 朝食を済ませた後、クレイドはコーヒーを入れた。開店前準備が整い、一服していたところだった。

「こうやって、休むってのはいいねえ」

 完全にリラックス状態のロディールに、クレイドは軽蔑の視線を向けた。

「そうだな。俺はこれから仕事だけどな。……一人だと眠くならないか?」

「俺はクレイドじゃないからなあ」


 ロディールはそう言うと、クレイドの不服そうな反応を待たずして、両手をパチンと叩いた。


「よし、お前が眠くならないように少し話でもするか!」


 えっ? とクレイドは冷めた目でロディールを見た。

「別に今さら話すことないけど……」

「そう言うなよ。さて、何を話そうかねぇ?」

 クレイドはそろりと視線を逸らすと、そのまま数秒間、一時停止した。ロディールに首を傾げられるなか、クレイドはぎこちなさそうに口を開いた。話題を振るわけでは無いが、何となく、ふと思ったことがあったのだ。

「……あ、あのさ。黙ってると一日って長く感じるけど、実際短いものだよな」

「おぉ? うん、それは俺も思うぜ。朝から少し重い話になっちゃうけどな、人生あっという間だ。だから悔いなく生きたいもんだ」

「でもさ、悔いってやっぱり残ってしまうものなんだろうか? そりゃ死に方によるんだろうけど……」

 無意識でさらに話を暗い方向へ持っていこうとするクレイドに、ロディールは不審げに眉を寄せた。

「お前、何かあったのか?」

「いや、ごめん。何かしらの悔いは残るもんだよな。変なこと聞いて悪かった」

 ロディールは心配そうにクレイドを見る。

「まぁ、死が突然やってきたとなれば、悔いは残るだろうな。タイミング良く死ぬ準備なんてできないもんな。できることなら悔いなく生きたいけどさ」


 数秒の沈黙の後、再びクレイドの方から静かに口を開いた。

「自分の選んだ生き方が間違っていることもあるのかな……?」

 クレイドの真剣な表情を見て、ロディールは安直に言葉を返すことをやめた。

「ふむ。お前な、そりゃあ選んだ道の先に失敗が多い事もあるかもしれない。もっと楽な道もあったかもしれない。でも、別の道を進めばもっと苦労が多かったかもしれないだろ? そんなのはその道に進んでみないと分からない。人生の分岐点で自分がその道を選んだのなら、別に間違ってるとか正しいとかの基準で判断するものではないんじゃないか?」


 これはあくまでロディールの考え方である。彼自身も正しいことを言っているのかどうか自信はないはずだが、それでも、クレイドの心に何か刺さったものがあったのは事実だった。


「なるほど……、そうか。そうだよな」

「俺の返答が的外れでなかったなら良いんだが」

「ありがとう、ロディール。俺は今から店の看板を出して来るよ」


 ロディールは玄関先へ向かうクレイドの背中を見て、弟を見守るような柔らかな笑みを浮かべた。


 ***


 太陽が西に傾き始めた頃。

 店は営業中だったが、今ところ誰も客は来ていなかった。

 クレイドは製作途中のヴァイオリンに向き合い、ロディールは店の楽器を眺めながら時々試奏して時間をつぶしていた。


「クレイド、少し楽器でも弾かないか?」

 仕事中のクレイドにロディールが唐突に呼び掛けた。

「俺は仕事中なんだが……?」

 クレイドは作業場から不快そうな声を返した。

「じゃあ店の責任者に確認して許可とろうぜ?」

 芝居がかった口調でロディールが言うため、クレイドは一旦手を止めて、冷ややかな眼差しでロディールの方へ歩いて向かった。

「お前な、悪意あるだろ?」

「悪い悪い、怒るな友よ。単に気分転換のお誘いだ。断るなら断ってくれ」


 クレイドは視線を横へと逸すと、呟くように言葉を発した。

「俺がヴィオラダガンバを担当してもいいか……?」

 ロディールはにっこりと笑う。

「よし、分かった。じゃあ俺はヴァイオリンにしよう」

「曲は何を弾く?」

 早速、クレイドが楽器の準備を始めながら尋ねる。

「とりあえず何でもいいから、片っ端から弾いていこうぜ!」



 二人が何曲も演奏を続けている間、結局この日は客が誰一人として来ないまま日暮れを迎えた。


「思ったより疲れたな……」

 クレイドもそう言わずにはいられなかった。

「少し休むか?」

「あぁ、そうしたい。楽器演奏ってのは結構体力使うからな」

「分かった。店はどうする? もう閉店するか?」

「日没を待つだけなら、閉店しようかな」

「そうか。じゃあ、俺が看板掛けてくるよ」

 ロディールは自ら率先して玄関へ向かった。

「あ、ありがとう……」

 ロディールは元来面倒見の良い性格であり、彼といるとクレイドもつい自然と頼ってしまうことが多かった。友であり、兄のような存在なのだ。

「そろそろ家に帰るか?」

 クレイドが尋ねると、ロディールは顎に手を当てて考えるような素振りをみせた。

「そうだなぁ。迷惑じゃなければ泊まろうかな。お前の家からそのまま仕事に行ったら迷惑か?」

 これもいつものことだったので、クレイドは特に驚きもしなかった。

「別に問題ない。でも、二階の部屋は掃除した方が良いと思う……」

「そうか、それならついでに掃除しておくよ」

 ロディールは陽気に笑った。




 街の教会の鐘が響き渡り、一日の終わりを告げた。


 ――平凡な今日という日が無事に終わりを迎えたことに感謝しよう。

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