第3話 雨の日の客人(2)

 翌日、クレイドは作業机の上で目覚めると、奥の部屋から料理の匂いが漂っていた。

 身体を起こすと背中に痛みが走り、とりあえず両手を上げて身体を伸ばす。

 どこでも眠れてしまう自分のこの癖を直したい――と今まさに思った瞬間であった。


「おはようございます」

 クレイドが声をかけた。

「あ、おはようございます。勝手に場所をお借りして申し訳ありません。せめて朝食ぐらいはお手伝いしたいと思いまして。食糧を勝手に使用してしまいましたので、後日購入してお返しします」

「いえ、それは構わないのですが。申し訳ないのは私の方で……」

 テーブルに準備されていた朝食は、折り込み生地のパイとサラダ。一般庶民の朝食にしては非常に手の込んだ料理である。

「朝なんて、普段はパンだけで済ませてしまうんです。気を遣わせてしまったみたいで、むしろ申し訳ありませんでした。ですが、ありがたくいただきます」

 他人が作った料理を食べることは久しぶりであった。

 パイは外側がサクサクで、中がしっとりと柔らかかった。限られた材料でこれを作ってしまうとは、まさに職人技といえた。

「……これは美味しいです!」

「それは良かったです」

 リューヌは穏やかに微笑んだ。


 クレイドが悩んだのは服装であった。普段着では失礼にあたると思い、所持する服の中で最も綺麗な服を身に纏うことにしたのだが、あまりの着慣れなさに全身を包む違和感がどうにも抜けない。

 だが、これも今日一日の辛抱だと思って我慢することとしよう。

「すみません、支度が終わりました。向かいましょう」


 扉を開けると雨は降り止んでいた。地面にはところどころ水溜りが残っているものの、既に大半が乾いていた。

 リューヌの話によると、イルスァヴォン男爵邸に辿り着くまでに要する時間は、歩いて一時間半ほどだという。

 スベーニュの街は比較的道幅が狭く、楽器店周辺は一般市民が多く居住する郊外だ。貴族の邸宅が建ち並ぶ街の中心部まで行くには、想像より時間を要すると見積もっておくべきだろう。


 クレイドは楽器と職人道具を持ち、慣れない靴に足を少し痛めながら歩いていた。女性であるリューヌが前方をきびきびと歩いている姿を見ると、途中で休む事はできそうになかった。


 道中、クレイドは周囲の景色を見る余裕がなくなり、歩くことだけに集中していた。仕事は目的地に着いてからが本番だが、今は到底そこまで考えられそうにない。

 あと到着までどれくらいか――と尋ねようか迷っていた時、リューヌが口を開いた。

「クレイドさん、到着しました。さすがにお疲れになったでしょう……。歩かせてしまって、本当にすみませんでした」

 二日でこの道を往復しているリューヌにそう言われては、そう簡単に「疲れました」とは言いづらい。

「……いえ、何とか」

 クレイドは顔を上げると、やっとの思いで周囲の景色に視線を移した。

 眼前には大きな邸宅が立ちはだかっていた。さらには、その邸宅を取り囲むように、見たことないほど広大な敷地の庭園があった。

「なるほど、やはり貴族は違いますね」

 クレイドは淡白に感想を述べた。

 貴族の生活を羨ましいとは思わないが、間近でこの光景を見せられては格差を感じずにはいられない。



 敷地内に入ると、クレイドは一休みする間もなく例のヴァイオリンが保管されている部屋へと案内された。

 扉は非常に厳重になっているらしく、リューヌは他の使用人に部屋の鍵を持って来るよう頼んだ。


「部屋に入られたら、椅子に座って少し休憩してください。何だか仰々しくてすみません」

「分かりました」

 ここで少し座ることができるのなら、ありがたい。運動不足もあってか、既に足が棒になりそうである。


 その後、鍵を持って戻って来た使用人の男性が、緊張した面持ちで扉を開けた。その手元は小さく震えていた。


 ――部屋を開けることすら通常の精神状態ではままならないとは……。


 これから中に入って楽器本体とご対面し、それを演奏する側の立ち場としては肩を竦めるばかりである。


 この部屋の中は、広々としたホールのような空間が広がっていた。人の手が届かないであろう天井近くに窓が複数並んでいるだけで、ほぼ密室に近い状態だ。内装の壁は全て白塗りで、昼間だからなのか想像していたよりも明るい。部屋の中心部には一メートル四方の台があり、その上に直方体の箱が置かれていた。

 クレイドは、その箱の正体が楽器ケースであることにすぐに気がついた。使用人たちには椅子に座って休憩するように勧められたが、クレイドは無言のまま、引き寄せられるように箱へと近付いていった。

 台の下に手荷物を寄せて置き、楽器ケースの蓋を静かに開けてみる。ヴァイオリン本体に手を触れることはなかったが、あらゆる角度から凝視するように観察した。


 例のヴァイオリンは、クレイドが想像していた何十倍も美しい姿をしていた。本体の板の色味はやや黒ずんでいて趣が深く、本体の形状も今とは少し異なるところにヴァイオリンの歴史を感じる。この四本の弦がもしも当時のままだとしたら、丁重に扱わなければいつ切れてもおかしくないはずなのだ。

 この楽器を作った職人に一度で良いから会ってみたい、クレイドはそう思った。


 だが、これはどこをどう見ても普通のヴァイオリンだった。楽器ケースの中には、羊皮紙に記された楽譜も入っている。

 クレイドは許可なくそのヴァイオリンに触れても良いのかと迷いながら、部屋の中にいる使用人たちの方を見たが、彼らは無言のまま何も言わなかった。

 クレイドは小さなため息をついたあと、独自の判断でヴァイオリンを手に取った。


「お待ちくだされ!!」


 男性の太いテノールの声が飛んでくると同時に、急に扉が開いた。年齢は六十歳前後で、服装を見る限り貴族であることには間違いないが、車椅子に乗っていた。

 そして、その車椅子を押している使用人こそ、クレイドも知る人物リューヌであった。

 クレイドは構えかけていたヴァイオリンを下ろしてケースに一旦戻すと、その男性に向き直った。


「わ、私がイルスァヴォンだ。忙しいところすまなかった。ありがとう。本当に来てくださるとは思っていなかったのだ。依頼内容はリューヌから聞いているだろうが、君自身の安全のためにも、本当に気をつけてもらいたい……」

 車椅子の男性は、自らがイルスァヴォン男爵本人であることを名乗り、クレイドに向けて忠告した。

 心配してもらえることはありがたいが、そもそも依頼してきたのは男爵側ではないのか、と心の中でそんな突っ込みを入れつつも、クレイドは少し前に歩み寄って男爵に頭を下げた。

「申し遅れました。私は弦楽器職人のクレイド・ルギューフェです。ご忠告痛み入ります。ご依頼の内容は伺っておりますので、早速始めさせていただいてもよろしいでしょうか」

 そう挨拶をしてみたものの、どうにも男爵の様子がおかしい。緊張しているのか、表情も硬くて震えているように見える。


 そもそもこの依頼の真の目的は、男爵を呪いという不安から救い、安心してもらうことである。クレイドは男爵に何か言葉をかけなければならないと思い、咄嗟に言葉を発した。


「イルスァヴォン様、ご安心ください。呪いなど、あるはずがありません。信じることは良いことですが、それも事によりけりです。呪いだと信じ込めば余計に恐ろしく感じます。これから私が演奏することで、呪いなどなかったと証明することができるでしょう」


 男爵に向けた言葉でありながら、無意識のうちに自分自身に言い聞かせているようでもあった。

 しかしながら、男爵は何か恐ろしいものでも見るような、そんな恐怖心が表情に現れていた。


「証明できるのだろうか……」


 クレイドはこれ以上深く考えることはよそうと思った。今これから演奏するというのに、呪いのことを考えすぎるは宜しくない。


「イルスァヴォン様は、このヴァイオリンに呪いがない事を証明して欲しいのですよね? それなら、まず私がこの楽器で曲を演奏すれば良いのです。きっと弾かなければ分からないことがあるはずです」

 クレイドは本心でそう述べた。楽器のことを知るためには、まず楽器に触れて弾いてみなければ分からない。

「それもそうか……」

 男爵には何か思い当たる節があるのか、納得したように頷いた。


 クレイドは再び楽器を手に取る。

「私は演奏家ではありませんので、私の演奏技術に不快な思いをさせてしまうことがあるかもしれません。その点、ご了承願います」

 そして、ヴァイオリンを構えて深く息を吸った。


 呼吸するように演奏が始まった。


 部屋の中に響き渡るヴァイオリンの音を、周りの人々は緊張した面持ちで聴いていた。


 クレイドは演奏するなかで特に異変は感じられなかったが、何かがとても重く感じられた。これは楽器の重さなのか、それとも何か別のものなのか。

 まるで人の感情のような、とても複雑なもののような気がした。


 暫く演奏していると、途中から心が締め付けられるような苦しさが襲ってきた。

 もしかすると、この重さと痛みは、殺されたイルスァヴォン男爵のものなのではないだろうか。普通の感覚ではないが、ここで演奏をやめれば自分が来た意味がない。


 ――男爵、あなたの代わりに曲を最後まで弾きますから、どうか……。


 演奏してこんなにも気分が悪く、痛く、苦しい気持ちになったのは初めてだ。

 ただ、これは呪いというよりも、イルスァヴォン男爵の悔しい想いがヴァイオリンに染み付いてしまったように感じる。


 殺された日、彼はどんな気持ちで曲を奏でていたのだろう。


 後にこの楽器を演奏した者は亡くなったと聞いたが、おそらく精神的な負担を抱え込んだのだろう。これだけの重さを受け止めるには、生半端な気持ちで弾いてはならなかったのだ。この楽器を弾いた先人たちが中途半端な気持ちで演奏したと言うつもりはないが、当時の男爵のように、演奏に命を懸けるくらいの覚悟が必要だったのかもしれない。


 クレイド自身がこの演奏に命を懸けているとは言えないものの、当時の男爵や今の男爵を救いたいと思う一方で、このヴァイオリンを絶対に救わなければならないと思っていた。

 そのためなら、力を全て出し切ってこの身が尽きようとも、これが宿命だと受け入れることができる。


 亡くなった男爵はヴァイオリン演奏が好きで、純粋に音楽を愛していたのだろう。そんな人間に演奏をしてもらえた楽器は本当に幸せだっただろう。


 自分もそんな楽器を作っていきたい――そうクレイドは心の中で決意した。


 ――イルスァヴォン男爵、あなたは本当に素晴らしい演奏家です。


 そうして、クレイドは曲を弾き終えた。ヴァイオリンを肩から下ろし、ひとまずケースの中に置く。たった一曲しか弾いていないはずなのに、休憩を入れずに何曲も弾き続けたかのような疲労感だ。


 現在の当主であるイルスァヴォン男爵は、車椅子の補助を受けながら、クレイドの近くまでやって来た。


「だ、大丈夫か……?! 曲を弾き終えたのは、君が初めてだ……!」


 男爵以外の人々も含め、周りの空気は興奮状態に包まれていた。演奏会をしていたわけでもないのに、慣れない歓声や拍手が響いている。

 この雰囲気はどうにも変な感じだ。

「私は大丈夫です」

 クレイドはそれだけ答えた。

「我々には、君が普通に演奏しているようにしか見えなかった。そ、それで呪いは……?」

 やけに呪いが気になるらしい。

「呪いなんてありません。ただ、時々で良いので、このヴァイオリンで何か弾いてあげてください。もう問題ありません」

 このクレイドの言葉を聞いた男爵は、気が抜けたように車椅子の背にもたれかかった。

「そうか、分かった。そうしよう。ありがとう、君に依頼して本当に良かった……」

「そんな、もったいないお言葉です。ですが、なぜ私に頼まれたのでしょうか。もっと立派な楽器店もあるでしょうし、演奏ならプロの方が良かったと思うのですが……」


 クレイドは失礼だとは分かっていながらも、どうしても気になっていた事を直接尋ねた。もう全て終わったのだから、少しぐらいは構わないだろうという安心感からだ。


 男爵は嫌な顔をすることなく、むしろ微笑みを見せた。

「我々は、以前から君の楽器店の噂を耳にしていた。どれほど優れた職人なのだろうかと思って頼んでみたのだが、大正解だったようだ。はっきり言って、君の演奏も非常に素晴らしかった」


 男爵からお誉めの言葉を受けたにもかかわらず、クレイドは心の中では納得することができなかった。一体、自分のどこが優れた職人なのだろうか。まだまだ未熟者なのに、と思いながら、あえて話題を深く掘り下げることをしなかった。


「ありがとうございます」

「それはそうと、代金をお支払いしなければ。これでいかがだろうか?」

 男爵は服の内ポケットから布袋を取り出すと、クレイドに中を広げて見せた。そこには大量の金貨が詰め込まれていた。

「さ、さすがにこれほどの額はいただけません。そもそも貴方から代金をいたただくことはできないのです。演奏家でない人間が演奏をしただけで、職人としての仕事はしておりません」

 代金を受け取ろうとしないクレイドに、男爵は初めて渋い顔をした。だが、ゆっくりと頷いた。

「そうか。何となく思ってはいたが、君は自分の意志を曲げない性格なんだろう。しかし、今回は貰ってくれないだろうか。代金ではなく、私からの感謝の気持ちとして。あと、帰りは私の方で用意した馬車に乗って帰ってくれ」


 男爵は手を伸ばして、大量の金貨が入った布袋をクレイドに手渡そうとした。

 この状況で受け取らなければ、男爵の感謝の気持ちを拒否したことになってしまう。さすがにそれは失礼なことだと思い、クレイドは申し訳ない気持ちでそれを受け取ることを選んだ。


「ありがとうございます、こんなにたくさん……。馬車まで出していただいては申し訳ありませんので、帰りは歩こうかと……」

「いや、ここは私も譲れない。リューヌ、馬車の用意を頼むぞ。君は彼を送ってあげてくれ」

「はい、分かりました」


 話を勝手に進めていく男爵に、クレイドが反論する余地はなかった。

 クレイドは金貨を鞄の中に入れて、他に忘れ物がないことを確認した。

 最後にもう一度だけ例のヴァイオリンを見る許可をもらうと、それに敬意を表して一礼した。



 ***



 屋敷の外には既に馬車が用意されていた。クレイドにとっては人生初の乗り物である。

「では、失礼致します。ありがとうございました」

 男爵たちに見送りをされながら、馬車が動き始めた。

 彼らの姿が見えなくなったところで、クレイドは車内を見回した。

 想像よりも広々としており、椅子はなかなかに座り心地が良かった。この世にこんな乗り物が存在しているとは、本当に驚きである。

「男爵様を救っていただき、本当にありがとうございました」

「いえ、私も救えたようで良かったと思っています。男爵は素敵な方ですね。それに、私自身の勉強にもなりました」

 今回の件は、帰ったあとに入念に振り返りを行うとしよう。


 ――それにしても、慣れない靴や服を身に着けたせいで、全身強張ってしまいそうだ。ゆっくりと休みたいところだが、店が連日『closed』となっていては困る客がいるかもしれない。

 さて、帰ってからは営業再開だ。

 

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