第4話 奇策(1)

 ミセス・ヴェルセーノの家へ向かう途中、クレイドはリェティーとともに街の市場近くを通り過ぎようとしていた。付近は人々の活気で賑わいを見せていたが、聞こえてきた人々の会話の多くがウェリックス公爵を否定するものであった。


 クレイドは顔には出さず、内心で驚いていた。たったの一晩で、人々が公爵に対して疑念を抱き始めているのだ。

 これはレオンスとロディールによる印象操作を主体とした作戦が、想像以上の効果を得た証拠であることは、想像に難くない。


 ただ、中にはウェリックス公爵を擁護する者たちもいた。明らかに少数ではあったものの、それゆえに少人数のコミュニティのようなものを作っている者たちもいた。


「それでね、あの方のおかげで私は貧しい暮らしから一転したのさ。ちゃんと正当報酬はもらえたしね」

「あんた、公爵と取引したのかい?」

「偶然、利害が一致したのさ。あの子には悪いことしたけどね、きっと今頃は屋敷でのびのびと暮らしてるんだろうさ。もしかすると、今ごろは私に感謝してるかもしれないね」


 聞こえてきた会話の意味はクレイドには分からなかったが、自身の直感がこれ以上聞きたくないと拒否していた。

 生産性のない談義に花を咲かせる女性たちを一瞥すると、リェティーとともにその場を足早に通り過ぎた。


 不意に、リェティーが身を隠すように、クレイドの真横にぴたりとついた。彼女の様相は明らかに普通ではなく、少し進んだ先で立ち止まる。


「どうしたの?」


「あ、あの中に……」


 リェティーは頭を隠すように伏せていた。

 ここで話をするのは良くないと思い、まず先に人気ひとけの少ない場所まで向かうことにした。



 ミセス・ヴェルセーノの家まであと少しのところに来て、クレイドは周囲を見回した。

 元来、この周辺は人気ひとけの少ない場所であり、二人きりで話をするにはちょうどよい場所でもあった。


「……リェティー、さっきは何があったの?」

 クレイドを見上げたリェティーの顔は、恐怖に震えていた。

「私が前にお世話になっていた家のおばさまが、いたんです……」

 クレイドは疑るように眉をひそめた。

「それって、花を売っていたときの?」

「はい。おそらく、間違いないかと。先ほど、公爵と取引をしたって……」


 クレイドは足下の地面を睨むように見た。

 リェティーの養父母はウェリックス公爵と取引をして、金欲しさにリェティーを売ったということか――。それを提案したウェリックス公爵には救いの余地などないが、養父母の責任放棄も甚だしい。一人の少女の人生に、彼らは取り返しのつかないことをしたのだ。


「なんてひどいことを……」


 クレイドは冷静に頭を整理しようとしていると、リェティーの捜索願について、ふと新たな見解が過ぎった。


 彼女の元養父母が初めから捜索願の発出に関与していたことはほぼ間違いない。とすれば、ウェリックス公爵はリェティーがリェティー・フェネットを名乗っていることを知らなかったはずがないのだ。捜索願にリェティーの名前しか出さなかった理由は、単にその必要がなかったからという可能性もあり得る。

 これを前提に据えた場合、捜索願は単にリェティーを探していることを大衆に知らせるための手法にすぎなかったということではないか。

 さらに突き詰めるならば、公爵が楽器店“avecアヴェク des cordesコード”を最初に訪れた時点で、リェティーの居場所はと既に把握していた可能性だってあるのだ。

 考えれば考えるほど怒りが込み上げそうになり、クレイドは冷静を保つために頭を左右に振った。


「お兄さま……?」

 リェティーの声でクレイドは我に返った。

「あ、いや。ごめん……。リェティーには嫌な思いをさせてしまったね……」

 リェティーは慌てた様子で首をブンブンと横に振った。

「お兄さま、気にしないでください! 私は今が一番幸せですから! ただ、やっぱり見つかりたくなかったんです……」

 どう考えても、今が幸せといえる状況でないことくらいクレイドにも分かっていた。

 それでも、リェティーが幸せだと言うのなら――。


「これからは、今よりもっと幸せになるよ。リェティーにはその権利が誰よりもあるんだからね」



 ミセス・ヴェルセーノの家に帰ると、そこには深刻そうな表情で椅子に座るロディールの姿があった。

 願うように両手を顔の前で組んだその姿は、どこか思い詰めているようにも見えた。


 こちらに気づいていないかのようで、クレイドはごほんと軽く咳払いをすると、平然をよそおって声をかけた。


「ロディール、ただいま。こっちは無事にイルスァヴォン男爵に頼みを聞き入れてもらえたよ。……そっちはどうだった? 街ではウェリックス公爵の話題で持ちきりだったけど」


 ロディールは不安に満ちた顔をクレイドに向けた。


「そうか。それはよかったな。こっちは予想以上の反応で、上手くいってると言っていいと思う。……だが、朝に会ったきりレオンスさんが戻ってこないんだよ」

「まだどこか回っているんだろうか? 誰かに足止めされてるのかな」

 レオンスなら十分あり得るだろうと、クレイドは大して気にしていなかった。

 ただ、ロディールは不安に満ちた双眼で、すがるようにクレイドを見る。

「今更だけどさ、レオンスさんは本当に信用できると思うか? あの人の作戦は正直すごかったし、結果も上々だったとは思う。でも、やっぱり俺が近くで見た感想としては、腹の中何考えてるかわからないような人だと思った。味方に付いたらかなり心強いのは分かるが――」

「ロディール」

 クレイドはゆっくりとその名前を呼んだ。

 ロディールははっとして、口を噤む。

「いいか、ロディール。事前に話した通り、レオンスさんはウェリックス公爵の被害者だ。それに、俺がエリスと会うために協力してくれた人だ」

 ロディールは煮え切らない表情で頷いた。

「……でも、あの人が言ってた奇策って何なんだ? まだ俺たち何も聞かされてないんだぞ? もしこれが失敗したら――」

「反逆罪で主犯格の俺たちは首が飛ぶかもしれない。だけど何もしなかったら、すべてが終わる。誰も救われない」


 そこまで言うと、クレイドは一度言葉を止めてロディールを真っ直ぐに見た。

「……ただ、俺だってロディールを巻き込んでしまった自覚はある。もし本当に無理だと思ったら、今からでも――」

 その瞬間、ロディールは椅子から勢いよく立ち上がった。睨むようにクレイドを見る。

「やめろよ。今からでもやめていいってか? ここまで世話になっておきながら、やっぱりやめたなんて仇返しもいいとこだろ」

 ようやく彼らしい表情が戻ってきたことに安堵して、クレイドはふっと笑みを浮かべた。

「ありがとう、ロディール」

 ロディールは視線を逸らして小さく頭をかいた。

「いや、礼を言うのは俺の方だ」

 そして、彼は控えめにそろりとクレイドに視線を移す。

「……でさ、昨晩の作戦会議で話したとおり、俺は父親にも声をかけてきた。日没頃なら仕事はないからってトランペッターの役割を引き受けてくれることになったよ」


 クレイドはリェティーと顔を見合わせて、喜びをひそかに共有したあと、ロディールに向き直って安堵のため息をついた。

「それは良かった、ありがとう。トランペッターがいれば形式も整うし、素人の集まりだと変に勘違いされることもない。……こっちも、イルスァヴォン男爵、公爵の弟アンドレさん、ウェリックス公爵夫人の協力を得ることができたよ」


 それを聞いたロディールは、怪訝そうに眉をひそめた。

「ちょっと待て。公爵の弟も相当驚くが、ウェリックス公爵夫人って? どういうことだ?」


 リェティーが控えめに手を挙げた。同時に、二人の青年の視線が少女に向けられる。


「私の叔母なんです、公爵夫人。その叔母が協力してくれることになったんです」


 ロディールは何の話だろうかとでも言いたげに、ぽかんとしている。

「今の、聞き間違いじゃないよな? ウェリックス公爵の奥さんがリェティーの叔母……なのか? いつ、どこで知ったんだ? なんか頭の中が整理できないんだが」

 クレイドも苦笑して肩をすくめるしかなかった。

「正直、今でも嘘かと思うくらいに俺も驚いてるよ」

「そんな繋がりってあり得るのか?」

「あるんだよ。なあ、ロディール、そろそろ運が味方してくれてもいいと思わないか?」

「……まあ、随分やられたからな」

「だろ? きっと、ウェリックス公爵家はこの事案を機に色々と変わることになる」

「色々って……?」

「アシル・ウェリックスの時代は終わる――いや、終わらせる。公爵の弟のアンドレさんや公爵夫人のマリアムさんも、それくらいの覚悟を持ってるんだから」

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