第3話 職人のいない店

 昼時を迎えた、スベーニュの街。馬が蹄で地面を強く搔き鳴らし、往来する人の流れを二又に割りながら猛進していく。


 弦楽器店“avecアヴェク des cordesコード”の前で、蹄の音がぴたりと止んだ。


 男性が店の扉を開けて、不法侵入のように店内に足を踏み入れる。――ウェリックス公爵だ。


「裏切り者が出た」

 彼の第一声は抑揚がなく、その目に映ったものは、作業机に向かうロディールの姿だった。

 ロディールの右腕はがっしりと布で巻かれて身動きしづらそうだが、真剣な表情で木の板に工具を当てているところであった。全てはクレイドの模倣に過ぎないが、フリとしては十分にそれらしい演技である。


 ロディールは公爵の方へ顔を向けずに、ちらりと横目で見た。

「何のことですか?」

「君が知らないということは、ここには戻っていないのか。……クレイド・ルギューフェが勝手に屋敷を抜け出したのだ。護衛の目もすり抜けた。約束をこうも簡単に破るとは思わなかった」


 ロディールは内心で「よくやった」と思いながら、事前のどおりに素っ気ない対応をする。

「あいつは望んで宮廷楽師になったんです。出て行ったということは、そこが自分の居場所ではないと感じたのでは――?」

「だが、契約違反だ。店を明け渡せ」

 公爵は怒りも既に通り越したせいか、無表情で淡々としていた。

「ここは俺の店です。お断りします」

「君は、あの職人の友人だったろう? 出入りするところを何度も目撃した者がいる。談合して私を騙すつもりか?」

「確かに、昔は友人でした。でも、反りが合わなくなった。それでも、あいつは職人で俺は助手。だから技術を学ぶために、俺はこの店には何度も出入りしたし、演奏技術の向上にも精を出していました」

 公爵の表情に薄気味悪い笑みが浮かんだ。

「……そうか。ならば、私がクレイド・ルギューフェを追跡しても文句は言えまいな?」


 ロディールは心の動揺を悟られないように、工具を持つ手に全集中力を注ぎ込む。


 ――俺は何を焦っている? 公爵はクレイドの行き先を知らないんだから、追うことなんて不可能なはずだろ。


 ロディールは小さな声で、強い意志を持って言葉を発した。

として、一言だけ。……あいつはそんなにヤワじゃない」


 すると、ロディールを試すかのように、公爵は片方の口角を上げた。

「職人が逃げ切れると信じているのか? それとも、私の身を案じてくれているのか?」

 ロディールは反吐が出そうになりながら冷たく言い放った。

「ご想像のとおりに」



 ***



 閉店後、ロディールはミセス・ヴェルセーノの家へ向かっていた。昨晩もクレイドの近況を報告しに訪れたばかりであったが、身内以外で信頼できる人間といえば指折り数えるほどしかいない。その中でも、こののことを本音で話せる相手といえば、クレイドを除いてミセス・ヴェルセーノとリェティーくらいだった。


 ロディールは裏口の扉をノックした。

 中から「お入り」と声が聞こえて、ロディールは扉を開けて吸い込まれるように入っていった。


「イゼルダおばさま?」

 奥からリェティーがゆっくりと歩いてくる。

「あぁ、リェティー。ロディールが来たよ」

 ミセス・ヴェルセーノの声に反応して、リェティーがロディールに駆け寄った。笑顔で左手を挙げると、ロディールが真似て左手を出す。そして手のひらをパチンと合わせて、二人は独特な挨拶を交わした。

「ロディールさん、こんばんは。私は新しい包帯を用意してきますね!」

 リェティーが部屋の中へ早足で戻っていく姿を、ロディールとミセス・ヴェルセーノは穏やかに見ていた。

「すみません、世話してもらってばかりで……」

「何言ってるんだい。あの子の厚意だよ、本当に優しい子さ」

 ロディールは困ったように笑った。

「知ってますよ。でも、クレイドのことを心配しているでしょうね……」

「そうだね。クレイドには早く戻って来てもらわないと。私じゃリェティーの笑顔を存分に引き出してやれなくて、もどかしいよ」

 ミセス・ヴェルセーノの言葉には温かさが滲んでいた。

「クレイドもリェティーも、あなたには相当救われていると思いますよ」

「馬鹿言うんじゃないよ。それはそっくりあんたに返すさ」


 ロディールはリェティーに包帯を交換してもらった後、昨日に続いて夕食をご馳走になっていた。


 ウェリックス公爵が店にやって来たことを伝えると、途端にミセス・ヴェルセーノが血相を変えた。

「クレイドを追うだって?!」

 かつてないほどの大きな反応に、ロディールとリェティーは肩を小さく跳ね上がらせた。

「そ、そう言ってました。でも、公爵はクレイドの行き先を知らないので……」

「公爵だよ? そこまで調べるさ。かねがあるからね。それより怖いのは、そいつの執着心の方だ。簡単に人を切り捨てるような人間が、そこまでクレイドに執着することに随分と奇妙さを感じる」


 ロディールは眉間にしわを寄せた。ミセス・ヴェルセーノの言葉に嘘がないと分かるからこそ、不安な気持ちは増すばかりである。


「……作戦は、失敗だったでしょうか」

「いいや。あんたとクレイドの関係性が事実上破綻していることは証明できたんだ。つまり、あんたはクレイドの店を守ることに成功したんだよ」

 嬉しい言葉のはずが、ロディールは思いのほか気分が上がらなかった。

「クレイドが帰ってきた後は、どうすれば――」

「そのために私がいるんだろ?」

 ロディールは目を丸くすると、リェティーが嬉しそうな顔で横に座るミセス・ヴェルセーノを見た。

「ロディールさん、おばさまはすごいんですよ。今まで、何度か家の中に入り込もうとするお客様がいたのですが、全員がおばさまの言うことを聞いて諦めるんです!」

 ミセス・ヴェルセーノがリェティーを本気で守ってくれていることが分かるエピソードに、ロディールは表情を和らげた。

 

 ――この人なら何とかしてくれる。もし何か失敗があっても、きっとクレイドのことを守ってくれる。


にリスクがかかるようなことはしたくないからね」

 そう言って、ミセス・ヴェルセーノがリェティーに笑顔を向けると、リェティーもにっこり笑顔を返した。


 ロディールには二人が母子の姿に見えて、この心温まる光景に嬉しくもあり、どこか寂しくも感じた。目の前にいるのが自分ではなくクレイドだったなら、どれほど嬉しかったことだろう。


「そうだ、ロディール。これから私の家に来るとき、もう少し日が落ちてからにしてもらえるかい?」

「……何かあったんですか?」

「いいや。ただ、公爵に余計な情報を与えたくないだけさ。例えば、ロディールがこの店によく出入りしている、とかね?」

 ロディールの表情が一瞬で凍った。

「例えばの話さ。まあ、時々顔見せに来てくれないと、リェティーも寂しいだろうからね」

 ミセス・ヴェルセーノはリェティーの肩に優しく手を乗せた。

「はい。今の私は、お兄さまの無事と、お兄さまと妹さんが無事に再会できるように祈ることしかできませんから」

 ロディールは転じて笑顔をリェティーに向けた。

「なんか、ありがとうな。その祈り、クレイドには伝わってると思うぞ」


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