第4話 船上の音楽
満点の星が小さな輝きを放つ夜空の下、一隻のガレオン船が緩やかな航行を続けていた。
人々が就寝し始めた頃となり、イルスァヴォン男爵は使用人を二人連れて、夜風を浴びに船の甲板に出ていた。
外套を羽織っているが、冷たい風を受けて少しだけ身震いする。
「お身体に触ります。そろそろ戻りませんか?」
右隣に立つ長身の使用人アンドレが男爵をいたわるように、その背に左手を添えた。
「お気遣いありがとう。この船の中は、どうも落ち着かなくてね……」
男爵は困ったように笑うと、どこか遠くを見つめた。
すると、反対側に立つ小柄な使用人サリムが続けて淡々と言葉を発した。
「そういえば他の乗船者に聞いたのですが、この船はスベーニュに停泊した後、西廻り航路で大国へ向かうようですね」
男爵の眉が少しずつ垂れ下がり、悲しそうな表情に変わった。
「そうか、船賃がいつもより安く感じたのはこのためか。この船には大富豪の商人も乗っているのかな」
言葉には出さなかったものの、商人が西廻り航路で大国へ向かう理由として、いわゆる奴隷の移送がある。つまり、この船には労働力としての奴隷が同乗している可能性があるということだった。
「何となく、気が滅入るような、瘴気に当てられた感覚がありますね。商人のやることを批判もできず、もどかしいです……」
アンドレの真剣な言葉に、サリムが鼻を鳴らした。
「お人好しなやつめ」
「……サリム。一つ頼みたいことがあるんだが、クレイド君を呼んではもらえないだろうか?」
サリムの背伸びしたような大人びた表情は、一転して不満が露わになった。
「あの職人を? 男爵ともあろうお方が、なぜあんな一般人に肩入れなさるのです?」
アンドレは気が気でなく、胃が痛くなる思いで眉間を押さえた。
男爵は自分と身長がさほど変わらないサリムの肩に手を置いて、静かに微笑んだ。
「彼は恩人なんだ。人間としても信頼できる」
「事情は存じています。ですが、少し不自然ではありませんか? あれから一度も外に出てきませんし、貴方のおかげで乗船できたというのに、一体何をしているのか……」
「そうなのだ。彼が全然出てこないので、私も心配していてね。それで、呼んできてほしいんだ。……差し支えなければ、楽器も一緒に持ってくるように頼んでくれないか」
「もしかして、今から?」
「まさかこんな夜分に?」
サリムとアンドレの声が重なった。
「ここなら問題ないだろう。……そうだ、サリムがクレイド君を呼ぶ間、アンドレにはリューヌとヴィルナを呼んできてもらおう」
そうだそれがいい、と呟きながら、音楽好きのイルスァヴォン男爵は胸を小躍りさせた。
✳︎✳︎✳︎
クレイドが寝台の上でヴァイオリンの手入れをしていた時、静寂から一転、扉をドンドンと叩く鈍い音が響いた。
クレイドは少し身構えて、自然と楽器を守るように自身の背後に隠す。
返事を躊躇っていると、勝手に扉が開けられた。
暗闇の背景に浮かび上がったのは、男爵の使用人サリムの姿。ランタンを持った右手を突き出すと、不機嫌そうな顔をクレイドに向けた。
「男爵がお呼びだ。楽器を持って船の甲板に出てくるように」
「君は……?」
「自分から名乗るのが礼儀じゃないのか?」
確かにそうだと思いながらも、高圧的な態度にクレイドは首を傾げた。使用人にしては主張がやや強すぎるように思う。
「……悪かった。クレイドだ」
「そうか、僕はサリムだ。僕は男爵の使用人だが、ラロック伯爵家の長男。教育のために一時的に男爵に仕えている。長身男のアンドレも、片言女のヴィルナも似たようなものだ。念のために言っておくが、言葉には気をつけろよ」
態度はともかく、彼の家柄を聞いたクレイドは驚いた。伯爵家の長男が、より爵位の低い男爵家で仕えている――そんなことがあるのだろうか。
「君は、なぜ男爵に?」
「あのお方の近くにいると、勉強になることばかりだからな。……それより、早く支度しろ」
クレイドはウェリックス公爵の屋敷から逃亡した手前、貴族が多く乗船する船内をうろつくことには抵抗があった。ただ、男爵の頼みならばと個室を一歩出たところ、そこから先はランタンの灯りが船内にぼんやり浮かぶ程度の真っ暗闇だった。
甲板に出ると、心地よい波風の音がクレイドの鼓膜を振動させた。
サリムが促した先には、イルスァヴォン男爵とリューヌら使用人が集まっていた。気後れしそうになる反面、クレイドはせっかくの機会を逃すまいと、男爵に払うための船賃を懐に潜り込ませていた。
「来てくれたか! ありがとう、クレイド君!」
男爵の歓喜の声に、クレイドは少しだけ頬を緩めた。
「お声をかけていただき、ありがとうございます。先に、立替えていただいた船賃をお支払いしてもよろしいでしょうか」
男爵は少しだけ悲しそうに眉を下げた。
「そのために君を呼んだのではない。……どうしてもと言うのなら、演奏で対価を払ってくれないだろうか」
――それを知っていて、男爵はこの状況を作り出したのか?
クレイドは冷静な頭で、さてどうしたものかと考えた。
すると、男爵が慌てたように首を横に振った。
「誤解はしないでおくれ。私は、ただ君の演奏を聴きたかったのだ」
サリムが男爵を庇うように、クレイドの前に立ち塞がる。
「変な気を起こせば、僕がただじゃ――」
「よせ、サリム!」
アンドレが血の気が多いサリムの背後に回り、両腕を掴んで動きを封じた。
「サリム、失礼ですよ〜? さあ、仲良く歌いましょ」
天真爛漫なヴィルナが、サリムの前にぴょんと飛び入った。
クレイドはやや気圧されながら、誰かこの感情を共有してくれる人を……とキョロキョロしていると、リューヌと目が合った。
リューヌが肩を竦めて笑みを浮かべたため、クレイドは少し安堵した。
リューヌが空気を割るように両手を叩き合わせて合図を出した。
「さあ、皆さん。クレイドさんの演奏、ヴィルナの歌を聴きましょう」
クレイドは深く一礼した。
自分のことを疑わず、事情を一切聞かずして、この場に及んでもなお気にかけてくれる彼らの厚意に感謝して――。
スベーニュの街に残してきたリェティーやロディールたちにも想いを馳せながら、クレイドはヴァイオリンの音色を夜空に響かせた。
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