第2話 始まり

 クレイドは護衛の目を抜けて屋敷を後にした。

 とにかく今はこの場所を早急に離れることが先決であった。楽器に振動がなるべく伝わらないよう、ケースを両腕で抱えるように持ちながら、急ぎ足でスベーニュの港に向かっていた。

 配達員アルディスに感謝しなければ、とクレイドはふと心の中で思った。彼から譲り受けた古地図がなければ、これほどスムーズに進めなかっただろう。自分の店から港までならまだしも、他人の屋敷から迷わずに港まで辿り着くことは、正直なところ地図なしでは困難である。


 現時点ではロディールとの作戦どおり進んでいるが、恐ろしいほど上手くいっていることに不安も感じた。これから最悪の事態が待ち受けている可能性も否めない。


 ――とにかく、今は無心で先に進もう。 



 クレイドが暗い路地裏に入ったとき、突如何かに躓いた。

 危うく前のめりに転びそうになり、全神経に緊張が走る。

 クレイドが振り返って足下を見ると、路地の壁に寄りかかり、足を伸ばして倒れるように座り込む男性の姿があった。髪は乱れ、頭を垂れたままびくとも動かない。痩せ細った身体には、茶色いボロ着を纏っていた。

 クレイドの頭の中に一瞬だけ嫌な予感が過ぎった。


 ――もしかして、死んでいるのか?


 クレイドは先に進むべきか、声をかけるべきかを迷い、その場で少し立ち止まっていると、幸か不幸か男性がもぞもぞと身体を動かした。息があることが分かり、クレイドはほっと息を吐いて先に進もうとする。


 すると突然、右足首を骨張った手で掴まれたのだ。

「良い服着てるじゃねえか。手に持ってる、その大きな箱は何だ? 金があるなら分けてくれねえか?」


 ――しまった、またやってしまった。


 ハープ奏者マリエルの時と同じく、罪悪感や同情心で迷いが生じたときに足元をすくわれる。


 クレイドは男性の手を振り解こうと、左足に重心を置いて右足を力いっぱい引き抜こうとした。

「急いで、いるん、です!」

 幸いなことに、男性の腕力と握力は弱かった。クレイドは右足を引き抜くと、振り返らずに駆け足で路地を抜けるべく進んだ。


「ああ、痛い、痛い……!」


 背後から、同情を誘うような、男性の悲痛な声が聞こえた。乱暴な態度をとった覚えはないが、これ以上は首を突っ込むべきではないたろう。

「助けられなくて、申し訳ない……」

 クレイドはひと言つぶやいて、この場を後にした。



 何となく潮の匂いが空気に交じり始めてきた頃、クレイドは海が近いことを知った。

 ふと空を見上げた時、スベーニュの教会の鐘の音が潮風に乗って響き渡った。今日も人々の一日の活動が始まったのだ。


 前方から陽光が差し込み、クレイドは目が眩んで片手をかざした。


 リェティーは、ミセス・ヴェルセーノの家でうまく馴染めているだろうか。ロディールのことは最終的にフィナーシェに任せてしまったが、大丈夫だったろうか。クレイドはスベーニュの人々の顔が頭に思い浮かんだ。身近な者たちを大々的に巻き込んでしまったことに、不安がないわけではない。


 ――どうかこの先、悪いことは起こらないでくれ。



 路地を抜けるとそこは港で、海が陽光を浴びて輝いていた。乗船場には巨大なガレオン船が停泊している。戦時下ならば戦闘用として活躍するガレオン船だが、平時では定期船として人の移送で利用されていた。

 ただ、貴族の移動手段として多く利用されることから、商船の乗り合わせに比べると多額の料金を支払う必要がある。

 クレイドは乗船する方法を誰かに尋ねようと、周辺をうろうろと歩き始めた。


「あの、すみません。この船、ルーバン地方へ行きますか?」

 クレイドが訊ねた相手は、ガレオン船の乗組員である。

「ルーバンには行くが、この定期船に一般人を乗せることはできない。貴族限定だ」

「お金は払います」

 クレイドは頼み込むが、男性は首を横に振った。

「この辺なら商船も出ているから、それに乗ってくれ」

「……商船はいつですか?」

「さあな。スベーニュの大市場も終わり、頻繁に出入りしていた行商人も既にここを発っている。あとは、不定期に動く船に乗せてもらうしかないだろう」

 男性の言葉を聞いて、クレイドはがっくりと肩を落とした。一般人として、これ以上は成す術なしかと思われた。


 港には続々と人が集まっている。馬車から降りて船に向かう者、従者が背中にぴったりとついている者など、貴族の姿ばかりが目についた。

 先程の乗組員は、次々とやって来る貴族たちを船の中へ誘導し始めて、その対応はクレイドに対するものと全く異なっていた。まさに貴族優位の社会が垣間見えたのであった。

 貴族が船に入っていく様子を眺めながら、クレイドは静かにため息をついた。


「……クレイドさん?」


 そう呼ぶ声がどこからか聞こえた。

「クレイドさん!」

 再び名前を呼ぶ声がして、クレイドが振り返るとそこには一人の女性が立っていた。貴族とは服装がやや異なる、見覚えのある女性であった。

「覚えていらっしゃいますか? リューヌです」

 女性が微笑みながら挨拶をした。

 それを聞いたクレイドは驚いて目を丸くした。

「あなたは、イルスァヴォン男爵邸の……!」


 クレイドがリェティーと出会う前、呪いのヴァイオリンの一件で店を訪れた客人リューヌであった。


「このような所でお会いするとは思いませんでした」

「ええ。……私は船に乗りたかったのですが、断られてしまって」

 クレイドは正直に話して苦笑する。

「そうだったのね。私はイルスァヴォン様の付き添いなんです。ほら、あそこに……」

 クレイドはリューヌの視線の先を見ると、車椅子に座っていたはずの男爵が自らの足で立っていた。その姿を見て、クレイドの表情が自然と和らいだ。

「ご自身で歩けるようになられたのですね!」

「えぇ、練習をしたの。あれからヴァイオリンも弾いているのよ。――あの時は本当にありがとう。少し待ってね、あなたがこの船に乗れるように頼んでみるから」

 クレイドは慌てて首を横に振る。

「嬉しいお言葉ですが、ご迷惑をお掛けするわけには……」

「何を言っているの。私に任せてごらんなさい」

 リューヌはそう言ってクレイドにそっとウインクをすると、男爵の元へ駆けていった。


 男爵との会話を終えたリューヌは、クレイドの元へ微笑みながら戻ってきた。

「大丈夫ですって。さあ、イルスァヴォン様の元へ行きましょう」

 クレイドは言葉を返す間もなく、男爵の元へと向かった。


「久しぶりだね、クレイド君。話は聞かせてもらったよ。もし良ければ、私の専属楽師として船に乗らないか?」

 ――専属楽師。その言葉にしがみつきたい気持ちを、クレイドは心の中で振り切った。

「ありがたいお言葉ですが、イルスァヴォン様にご迷惑をかけるなど……」

「構わんよ、君のためなら一肌脱ごうと決めていた。私たちもルーバンまで行く用事があるから、一緒に乗船しよう」

 男爵は柔らかな笑みをクレイドに向けた。



 一方的な権力で人を動かそうとする人間がいれば、温かな心で人を救ってくれる人間がいる。クレイドは対照的な二人の貴族を思い浮かべた。

 生きている限り、どう足掻いて努力しても克服できない身分の差というものが、必ず付いて回る。それゆえに、誰かに頼らなければならないこともある。


 クレイドは感謝の意を込めて、男爵に深く頭を下げた。

 いつか必ず恩を返す――そう心に誓った。



 イルスァヴォン男爵がクレイドを含めた全員分の船賃を支払おうとした時、慌ててクレイドが割り込んだ。

「少しお待ちくださ――」

 言い終える前に、男爵の両脇を歩く二人の使用人に肩を掴まれた。左側にはクレイドよりも数歳若いであろう低身長の少年、右側には細身で高身長の凛々しい佇まいをした男性の姿があった。


「図々しいぞ」

 左に立つ少年が偉ぶった声でクレイドを制した。続けて、右に立つ男性がクレイドをフォローしながらも丁重な断りを入れた。

「失礼な態度を、申し訳ありません。ですが、ここは我々の一員として男爵を立てていただきたいのです」

 クレイドは二人の使用人に言われるがまま、身を縮めて一歩引いた。若い使用人には物申したい気持ちもあったが、郷に入れば郷に従えという言葉どおり、今はただ納得するしかなかった。

 そうはいっても、船賃くらい支払わなければクレイドの気も収まらない。タイミングを見計らって男爵に申立てることにしよう――そう考えることにした。



 ***



 ガレオン船が出航した。


 男爵の計らいで船内の部屋を追加でひと部屋分取り押さえてもらい、そこがクレイドに割り当てられた。

 クレイドは部屋の隅に荷物と楽器ケースを置くと、簡素な寝台に腰掛けた。個室は窓のない密室空間だが、時々身に感じる波打つような感覚こそが、順調な航海の証しであった。


 一方で、不安もあった。ウェリックス公爵の屋敷を無断で出たこと――ティフェーナの承諾を得たとはいえ、そろそろ公爵本人にも伝わっている頃だろう。ロディールのどおり事が進めば、おそらく公爵が向かう場所は“avecアヴェク des cordesコード”のはずだ。


「大丈夫、だよな……?」

 

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