第6話 真意(2)
クレイドは手紙を持つ手に力を込めた。
「ウェリックス公爵と交渉するまでの間、俺を危険から遠ざけようとして、ここに引き留めようとしているのかも……」
「へえ、なかなかの大物だね。ぜひ名前も教えてほしいな。……もちろん、情報屋としてこの件を利用することはないから、そこは信用してくれていいよ」
クレイドも今さら拒否するつもりはなかった。それどころか、この話を信頼できる誰かに聞いてほしいくらいだった。
迷うことなく、その名を口にする。
「イゼルダ・ヴェルセーノ。……俺の親代わりみたいな人です」
その瞬間、レオンスとアルディスが同時にその名をぼそりと復唱した。
二人の意外な反応に、クレイドは眉をひそめる。
配達員としてスベーニュの街を知り尽くしているアルディスなら、イゼルダ・ヴェルセーノの名前を聞いたことがあっても、なんら不思議ではないだろう。
その一方で気になったのは、レオンスの反応だ。
彼は顎に手を当てて、目をすっと細めたまま下を向いていた。
数秒間身動き一つせずにいたかと思うと、突然、視線だけをクレイドに向ける。
「……昔、俺が入手した情報があるんだけど。今から話していい?」
小さな声で前置きするレオンスに、何かとんでもないことが明かされてしまうのではないか――と思わずにはいられなかった。
正直なところ、聞きたくないとすら思ったが、その情報とやらが今後誰からも語られることがない可能性を考えると、今ここで聞いておかなければならないような気がした。
クレイドは無言で頷いた。
「数年前、俺がシトールを持って街を渡り歩いていた頃に入手した情報だ。あのウェリックス野郎には姉がいるんだよ。姉は家を出て長いし、今は公爵家の関与もないとされているが、奴は一方的に姉を慕っている。だから、今でも姉弟の関係は切れていないと考えるべきだと思う」
今この姉弟の話が持ち出されたことで、クレイドはある推論が浮かんだ。
だが、自分を納得させるだけの根拠を持ち合わせてはいなかった。
レオンスは乾いた笑みを浮かべる。
「ウェリックス野郎の姉がイゼルダ・ヴェルセーノさんだよ」
予想が外れてほしいと願っていたが、それは叶わなかった。
現実を突きつけられたクレイドは、すぐに返す言葉が出てこなかった。
レオンスはどこか気まずそうに視線を横に逸らす。
「まあ、気にしなくていいと思うよ。彼女にとっては自ら捨てた家だし、公爵家の人間が嫌で一般人になったんだから。クレイドには話す必要を感じなかったのかも」
レオンスはどこか弁解するように話を続けるものの、よく考えてみればあり得ない話ではなかった。
ミセス・ヴェルセーノのことは、クレイドが物心ついたときには既に『気前の良い親戚のおばさん』という印象だったが、子供ながらにお金持ちなのだろうと察していたのも事実である。
なぜなら、彼女の家の中には他人の家では滅多に見ない代物が多く存在していたからだ。真っ先に思い浮かんだのは、クレイドもお馴染みのコーヒーであった。
レオンスが言うように、ミセス・ヴェルセーノがウェリックス公爵の姉であることが真実ならば、彼女があえて黙っていたこともうなずける。
積み重ねてきた人間関係が壊れることを危惧した可能性だってあるのだ。
「……どうして、そんな情報を?」
「いつか
レオンスはさも当然のように言った。
ウェリックス公爵に対する敵意は、相変わらず隠そうともしていないことに、清々しさすら感じる。
突如、アルディスがクレイドの名をそっと呼んだ。
その顔は不安げに揺らいでいる。
「今の話が本当なら、このイゼルダさんという女性、本当に大丈夫かな……?」
クレイドは首を傾げた。
「……あ、いや。勝手な思い込みかもしれないんだけどさ。イゼルダさんがウェリックス公爵と交渉ってことは、何か交換条件みたいなものがあったのかな、なんて……」
アルディスは表情こそ自信なさげであったが、驚くほどに平静としていた。
これは当事者ではない彼だからこそ気づけた視点であり、この言葉がクレイドの判断を一転させるに至った。
突然、頭にズキンと痛みが走り、クレイドは慌てて手で押さえる。
続けて心臓の音が勝手にドクンドクンと激しく鳴り始めた。
頭の中に黒い渦が巻いていくようで、脳が危険信号を察知する。
「……やっぱり今からスベーニュに帰ります」
クレイドはすっと立ち上がると、二人の反応を待たずに荷物をまとめようとした。
「待って。何のために? 君が帰るとイゼルダさんの交渉が失敗するかもしれないんじゃないの?」
レオンスが引き留めようとする理由も分からないわけではない。
それでも、クレイドは頷くことができなかった。
「勝手なことを、すみません。でも、ミセス・ヴェルセーノは交渉が失敗する可能性も考えて、あえて俺をこの場に引き留めようとしているのかもしれません……。それなら彼女のリスクを減らすためにも、交渉そのものを一旦中止させるべきだと――」
「君を危険な目に合わせたくないから、この手紙を急いで届けたかったんでしょ? これはイゼルダさんの親心だよ。それを無下にするわけ? 交渉の規模が大きいほどリスクが高くなるのは当然。それくらい彼女も分かってるはずでしょ?」
クレイドは手を止めて、レオンスを睨むように見た。
もちろん、冷静になれていないのは自分の方だということはよく分かっている。
だけど――。
「あの人は俺にとって親も同然なんです。もし交渉が決裂してしまったら、公爵が何をしてくるか……」
「唯一慕ってる実姉なんだから、手荒なことはしないでしょ。……それとも、イゼルダさんは他に握られたら困る弱みでも何か抱えてるわけ?」
レオンスのめったに見ない厳しい表情は、どう考えても冗談を言っているようには見えなかった。
それゆえに、クレイドは言葉を詰まらせた。
――ミセス・ヴェルセーノの弱み……。
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