第1話 花売りと職人(2)
街から明かりが完全に消えた真夜中。
青年は迷わずに入り組んだ路地を進んだ。
レンガ造りの家が建ち並ぶ場所へ出ると、慣れた足取りで目的地へ向かう。
ある建物の前で立ち止まると、外壁に沿った階段をゆっくりと上り始めた。暗闇でよく見えない足元に注意を払いながら、慎重に。
既に多くの人々が就寝している時間帯ということもあり、大きな物音を立てないよう気を配らなければならなかった。
辿り着いた家の前で、青年は一度大きく深呼吸した。
二回だけ扉を叩いてみるが、すぐに返事はなかった。
気を取り直して、もう一度同じことを繰り返してみたが、それでも反応がなく、青年は諦めて引き返そうかと迷い始めていた。
その時、扉が開いた。
「おぉ、クレイド……! お前、夜中に珍しいなぁ。一体どうした? とにかく中に入れ」
青年クレイドを包容力全開で家の中に招き入れたのはロディールだった。
やや眠たそうな目をしているため、就寝していたのだろう。当然、クレイドには申し訳ない気持ちもあったが、ロディールが嫌な顔をすることは一切なかった。
「あ、ありがとう。遅くに悪いな。実はちょっと相談したいことがあって」
「恋愛相談か?」
「そんな訳あるか」
クレイドはテンポよく問答無用で跳ねのけた。
椅子に腰を下ろしたところで、クレイドは深刻そうに口を開いた。
「……実は今、わけあって女の子を二階に泊まらせているんだ。花の売り子をしていたようなんだが、売上金を失くして家に帰れずにいるらしい。家でも酷い扱いを受けているようで、俺はその子をこのまま家に帰して良いのか迷ってるんだ……」
クレイドは経緯を端的に説明したが、ロディールは不審そうに首をかしげた。
「お前、知らない子を家に連れ込んだのか? 名前は?」
クレイドはぐっと顔を引きつらせる。
「そ、それは語弊がある。放っておけなかったから、一時避難場所として招いただけだ。名前は聞きそびれたけど……」
「お前がそう言うなら信用するが、名前も聞かないのはどうかと思うぞ? お前がその子に騙されている可能性はないのか?」
クレイドは拍子抜けしたようにロディールを見る。
「そ、その視点はなかった……。でも、あの子は大丈夫だと思う。俺たちより随分年下に見えるし、姿を見ても嘘をついているとは思えない。とにかく今は助けなきゃいけないと思った」
ロディールは顎に手を当てて小さく唸った。
「うーむ、何だか少し厄介だな。お前の意思だけで、その子を家に返す返さないの判断はできないだろう。悪いが、俺から幾つか質問していいか?」
「な、何だ?」
「もしも、その子が家に帰りたくないと言ったらお前はどうするんだ? その子と暮らすのか?」
――そ、そこまでは考えていなかった……。
「もちろん、その子が家に帰りたいと言うなら帰らせるべきだ。だが、もし帰りたくないと言ったらどうするのか、今のうちに結論を出しておいた方がいいぞ」
ロディールの言い分はもっともだった。
少女のためを思って家に招いたつもりだが、一般的に考えれば安易な行動だったかもしれない、とクレイドは内心で反省する。
しかし、もしあの場で声をかけていなければ、あの子はどうなっていただろうか。きっと、その方がひどく後悔していたに違いない。
「俺は、失くした売上金くらい何とか捻出してあげられると思ってる。だが、おそらくあの子は家に帰ることを望まないと思う」
「そうか。もしも彼女の意思に任せるなら、家に居候させる事も念頭に置いた方がいい。だが、それはそれで親御さんをどうするか……」
「あの子は養子として引き取られたらしい。酷い扱いを受けているように見えたよ。できることなら、あの子の望み通りにしてあげたい」
ロディールは神妙な面持ちで、クレイドをじっと見据えた。
「養子って、本当か……?」
クレイドは深くゆっくりと頷いた。
二人の間に、やや重たい空気が流れる。
若干の間をおいて、ロディールが大きな溜め息をついた。
「なるほど。それはお前が気にかけて当然か。どうだ、やっぱり妹から連絡は全く来ないのか……?」
クレイドは困ったように小さく笑った。
「まぁね。楽しくやれているなら、それでいいんだ。ただ、もしあの子と同じような扱いを受けていたらと思うと、やっぱり心配で。たまに考えちゃうんだよ、俺が店を継いでいなければ今頃は一緒に暮らしていただろうに、って。俺が我が儘言ったせいなんだ」
そう弱気に話すクレイドを、ロディールははっきりと否定した。
「俺は、お前の選択は正解だったと思うぜ。妹とは一生の別れじゃないだろ? 生きてりゃ逢える。だが、親父さんの楽器店は別だ。あの時にお前が別の選択をしていたなら、今頃もう店はないと思うぞ」
クレイドの瞳がわずかに揺らいだ。
ロディールが本心で言っていると知っているからこそ、彼の言葉が心に刺さるのだ。
「ありがとう。でも、あの子を引き取る理由が、妹の姿と重なるからというのは、動機として少し不純だろうか……」
「お前が自分の行動に納得しているなら、動機は何だっていいと思う」
ロディールの言葉には説得力があった。
クレイドは口元にほんの僅かな笑みを携えると、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう。明日、俺はあの子に本心を確認してみるよ。夜中なのに家に押し寄せたりして悪かったな。そろそろ帰るよ」
クレイドは椅子から立ち上がると、強い意志を持った足取りで玄関へ向かった。
ロディールはその後方を無言でついて行く。
「俺も一緒に行こうか……?」
そう呟くように尋ねた彼の眼差しは、まるで弟を心配する兄のようである。
クレイドは逸らすことなく彼の瞳を見返した。
「いや、大丈夫だ。ありがとう。また後で必ず報告する」
***
翌朝、クレイドは玄関の扉が開閉するような音を聞いて目を覚ました。
相変わらず作業場の机に突っ伏した状態で眠ってしまっていたのだが、そのおかげで物音にすぐ気が付いたのだ。
こんな早朝から玄関先の物音がしたということは、理由は二つに一つ。不審者の侵入か、はたまた少女がこの家を出たか。
――おそらく後者だ。
クレイドは急いで椅子から立ち上がると、机上の脇に置いてあった一枚の布切れが手に触れた。布には黒いインクで書かれた文字が羅列されており、クレイドは、すぐにこれが置き手紙であると気がついた。加えて、銅貨が少しばかり置いてあった。
手紙に記載された流暢な言葉と美麗な字体は、多少インクが滲んでいてもはっきり読むことができた。これらの特徴は、彼女の出自を表しているかのようであった。
クレイドは心の中で手紙を読み始めた。
『昨夜はありがとうございました。何も言わずに出ていってしまい、申し訳ありません。迷惑をかける訳にはいかないので、急遽このような形のお別れになってしまいました。少しばかりですが、お礼として受け取ってください』
最後まで読んだ瞬間、クレイドは反射的に家を飛び出していた。
――まだあの子は遠くまで行っていないはず。
周囲を見回すと、一方の道の先に重い足取りで歩みを進める少女の姿があった。
クレイドはすぐに少女を追いかけた。
「待ってくれ……!」
少女は立ち止まった。
周囲には人が誰も出歩いておらず、この声は自分を呼び止める声であると判断せざるを得なかった。
少女なその場でゆっくりと後方を振り返った。この展開を全く想像していなかったのか、随分と驚いた表情をしていた。
クレイドはやや息を切らしながら、少女の近くまで来て足を止めた。
その距離、約一メートルほど。
「君は、これから一人で、一体どうするつもりだったんだ?」
少女はやや目を伏せた。
「それは、特に考えていません」
その反応を見て、クレイドは困ったように頭をかいた。
質問の仕方を変えて、率直に聞きたかったことを尋ねた。
「家には帰りたいと思う……?」
少女は静かに首を横に振った。
「帰りたくありません。売上金をなくしたので、帰ることができません……」
「そうじゃなくて、君の意思を教えて欲しいんだ」
クレイドがやや強い口調で言うと、少女の身体がびくりと反応した。
養子としてお世話になっている身として、普段は決して口に出してはいけないであろう言葉が、彼女の喉元に引っかかっていた。
少女は声を振り絞った。
「……か、帰りたく、ありません……」
その言葉を聞いたクレイドは、「よし」と言って微笑んだ。
「そうか。それなら戻っておいで。俺の家で良ければ歓迎するよ」
少女は顔を上げると、泣きそうな顔でクレイドをじっと見つめた。
「あの、ご迷惑じゃないんですか……?」
「大丈夫。一緒に帰ろう」
クレイドは妹に接するように少女の右手をそっと取った。
二人は“
中に入り、玄関の扉を閉めたその瞬間、少女はその場に膝をつくと、深々と頭を下げたのだ。
「えっ、あの、どうしたの?」
「私、しっかり働きます! ご迷惑をかけないように、精一杯頑張ります! この御恩は、一生忘れません!」
華奢で小柄な少女の風貌からこの言葉と態度がいの一番に出てくることに、違和感を覚えた。
そして、彼女の礼儀正しさゆえに、クレイドは居たたまれない気持ちになった。
「ち、ちょっと待って。頭を上げてくれないか? 君はそんなことしなくたって構わないんだよ。何も頑張る必要なんてないんだから」
少女は姿勢を崩さずに、頭だけを上げてクレイドを見た。
「で、ですが……」
「気にしなくていいんだよ。そうだ、まだ名前を聞いていなかったよね。自己紹介をしよう。立ってくれるかな?」
少女は、まるで命令でもされたかのように勢いよくスッと立ち上がった。
これでは何だか調子が狂う。
「えっと、俺はクレイド・ルギューフェ。ここで店を経営している。君の名前も教えてくれるかな?」
「はい、私はリェティー・フェネットと申します」
「リェティーだね。ちなみにだけど、年齢を聞いてもいい? もちろん、嫌なら言わなくていいよ」
「はい、13歳です」
リェティーの実年齢を聞いたクレイドは、悪気なく驚いてしまった。
外見年齢は13歳になっているようには見えなかったのだ。小柄で細身だからか、それとも服装のせいか。
だが、確かに、彼女の考え方や行動力は大人顔負けである。
手紙を読む限り文才もありそうで、良い家柄の出自である可能性が高い。
無言になるクレイドを見て、少女は不思議そうに首をかしげていた。
「あの、どうかされましたか?」
「あ……。いや、すまない。君は年齢も若いのに、随分としっかりしているなあと思って」
「そ、そんなことは……!」
リェティーは首を横に振り、慌てた様子で否定しようとした。
何でもないよ、と振り切ってしまっても良かったが、それではあまりにも不親切だろう。
「いいじゃないか。それじゃあ、これから朝食にしよう。あと、お金は君に返しておくよ。受け取ってね」
クレイドはポケットに入れておいた銅貨を取り出すと、リェティーへ手渡した。
そして、クレイドは普段と変わらず朝食の準備から後片付けまで一人で行った。
リェティーは「手伝わせて欲しい」と言ったが、それに関しては全てを断った。
むろん手伝ってもらうことが嫌なのではない。今ここで仕事を手伝わせてしまえば、彼女がこの家に来た意味がなくなってしまう――そう思ったのである。
「ここは見ての通りお店だから、君には少し不便な生活をさせてしまうかもしれない。店の中は自分の家だと思って自由に使ってもらって構わないんだが、客をこの場所に通すこともあるから、その時は二階にいてもらいたい」
クレイドの説明をリェティーは真剣に聞きながら、何度も頷いた。
「君の部屋は二階に用意している。俺が仕事中でも、もちろん用事があるときは作業場に来て構わないからね」
「はい、ありがとうございます」
リェティーは照れたように控えめに笑った。
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