第5話 演奏会と告示(2)

 ウェリックス公爵の話は続いていた。


「――姉上は街で静かに暮らしていたが、罪の分別がつかなくなるほどに精神を病んでいるのだ! 嘘をつき、この私までもを騙した! そこで、この私が――」


 この瞬間、声が途切れた。


 クレイドが指示していた演奏が、中途半端な余韻とともに鳴り止んだのだ。


 突如、広場が無音に包まれたことで、公爵は不本意にも演奏集団のいる方向に視線を向けざるを得なくなっていた。

 無関心を貫こうにも、大衆の目がそうはさせてくれないのだ。



 クレイドはベンチの上に立ったままヴァイオリンを構えると、弦の上に弓をそっと添えた。


 ゆっくりと一度だけ深呼吸をして、全身の力を抜く。


 再び息を吸い込み、深く息を吐くと同時に、全ての力を右腕の重みだけに委ねて弓を下ろした。


 無音となった広場に、深い低音が響いた。


 音楽が始まったのだ。



 クレイドは両眼をしっかりと開けたまま、まっすぐに公爵の姿を捉えていた。


 ――ウェリックス公爵ほどの音楽家なら、この音を聞いて俺が弾いていることくらいわかるはずだ。間違いなく、奴はこっちへ来る。



 一挺のヴァイオリンが奏でる音の方向へ、公爵は身体を向ける。

 クレイドの思惑どおり、彼は大衆の間を縫うようにこちらへ向かって歩き始めていた。


 人々はどこか迷惑そうに身体を避けながら、公爵を見やっている。

 演説者が自らの演説を放棄してどこかへ行こうとしているのだから、置いてきぼりを受けた大衆が放つ眼光は冷ややかであった。


 だが、そんなことは気にしないとでも言わんばかりに、公爵は目を釣り上げながら、反公爵派の演奏集団の前に向かってくる。


 演奏集団の後方でヴァイオリンを演奏していたクレイドは、手を止めた。


 楽器を下ろして公爵を見ると、初めて視線が合った。


「クレイド・ルギューフェ……! 貴様は、どこまで私の機嫌を損ねれば気が済むのだ?」


 公爵は過剰なまでに神経を尖らせていた。

 彼は既に狂気じみており、全くいわれのない言葉を吐かれたクレイドは、馬鹿らしさに半分呆れていた。

 正面きって話をすることに緊張しなかったわけではない。ただ、それ以上に、今ここに多数の味方がいることがクレイドの心を支えていたのである。


 クレイドはベンチから降り立つと、楽器を置いて前方に歩み出ていった。

 この男が、リェティーやミセス・ヴェルセーノに対して、どれほどの狂気を振るってきたのか――考えれば考えるほど、怒りが込み上げてくる。


 クレイドは二メートルほどの距離まで詰め寄ると、渾身の睨みをきかせて口を開いた。


「ウェリックス公爵。あなたは嘘つきです。少女を誘拐しようとして、無罪のイゼルダ・ヴェルセーノに罪をなすりつけようととしましたよね。……何でも自分の思いどおりになると、思わないほうがいいですよ」


 ウェリックス公爵は驚きに目を見開いたかと思うと、怒りまかせに眉を吊り上げた。


「言わせておけば……!」


「――公爵。もうそろそろ素直になられてはいかがですか」


 そう言ったのは、ウェリックス公爵夫人のマリアムだ。

 彼女は演奏集団の中からゆっくりと前へ歩いてくると、冷淡な眼差しで公爵を見た。


「な、なぜここに……?」


 公爵が動揺していることは明らかで、ここまではクレイドの想定どおりだった。

 そして、母の背中について歩いてきたティフェーナの姿に気がつくと、公爵は恐ろしいものでも見たかのように血相を変えて後ずさりした。


「なぜ、ティフェーナまでいる……⁈」


「アシル・ウェリックス。この状況を見てもお分かりになりませんか? これが公爵家に嫁いでから今日までに出した、私の答えです」


 公爵は現実を直視する余裕もなかったのか、マリアムの言葉を噛み砕いて頭で理解しようともせず、全てを振り切って背後の大衆を睨むように見た。


「いいか! これが真実ではない! 私の援護をしろ……!」


 誰の援護を求めて声を発したのかクレイドには分からなかったが、騎士らが慌てて駆け寄り、公爵の護りを固め始めた。


 冷静さを欠いた公爵の姿を見たクレイドは、落ち着いた表情でミセス・ヴェルセーノがいる方向を見つめる。



「――失礼! 道を開けてください!」



 少し遅れて、ミセス・ヴェルセーノの見張りを任されていた青年騎士が公爵の元へ駆けつけてきた。

 明らかに、他の騎士とは様相が違っていた。


「なんだ騒々しい! 姉上を監視するように任せたはずだろう!」


「しかし、それどころでは……」


 公爵はこの騎士に軽蔑の目を向けた。


? その言葉は私の姉上に対して失礼だと思わないのか。一体なんだ?」


「うっ……。こ、公爵宛てに伝書鳩で文書が届いたと……」


 萎縮した騎士が控えめに言葉を述べると、公爵は目を細めた。


「そんなもの、よくあることではないか。緊急性があるとでも? そんなもの後で――」


「し、失礼ながら、差出人はアルマンのブレモン公爵でございます……!」


 公爵が両目をカッと見開くと、正面の騎士の肩を鷲掴みにした。


「ブレモン⁈ なぜ、今ここにあの男から文書が届くのだ?!」


「そ、それは、私にも分かりかねますが……」


 公爵は騎士が持っていた文書を乱雑に取り上げると、差出人を確認した。

「確かに、ブレモン公爵からだ。こんなもの、お前が内容を読むのだ」

 取り上げられたばかりの文書を胸元に押しつけられた騎士は、少し弱気に封を開けた。


 なぜこの場にブレモン公爵から文書が届くのか、とクレイドにもその理由が分からなかった。

 ただ一つ考え得ることは、これこそがレオンスのなのではないか、ということであった。



 ほんの少しの間、クレイドがミセス・ヴェルセーノから目を離して再び視線を戻すと、そこには彼女の姿がなかった。


 ウェリックス公爵がこちらへ向かってくる直前、クレイドはロディールをミセス・ヴェルセーノの元へ向かわせたのだが、ちょうど良く文書が届けられたことで騎士の目が外れたのである。 

 大衆の関心もウェリックス公爵本人に向けられていることから、タイミングよくミセス・ヴェルセーノの救出に成功したのだろう。


 公爵側には楽師や使用人らが数十名ほどいたが、もともと一般人である彼らの関心は、初めからミセス・ヴェルセーノには向けられていなかった。

 彼らの雇用主アシル・ウェリックスは危機的状況におかれているため、契約不履行や賃金未払いという現実的問題を恐れて、彼らは大衆と一体となって公爵の方を見ていた。


 ミセス・ヴェルセーノを護る役割を担っていたのは騎士であったが、これは公爵との契約というよりも忠誠に基づくものであった。

 彼らもまた、その忠誠を向ける対象がアシル・ウェリックスで良いのか疑念を抱き始めていたのである。

 人々の反発の視線を全身で浴びながら、今、騎士らはただ公爵の人形として指示を受けることしかできずにいた。



 ブレモン公爵からの文書を黙読した青年騎士は、ためらいがちに俯くと、腹を括ったかのように公爵に向き直った。


「ブレモン公爵からの文書の内容をお伝えして宜しいでしょうか」


「うむ」


「――これからしばらくの間、ウェリックス公爵家が安定するまで資金面で援助したい。これは、アルマンから嫁がれたマリアム公爵夫人など、ウェリックス家が没落させたフェネット家に向けた援助でもある。スベーニュの発展に寄与することもお約束する。ゆえに、これら申し出を全て受理願いたい。今後、対等な関係を築くにあたり、ウェリックス公爵家アンドレ様の襲爵を強く望む」


 ウェリックス公爵は石のように身体を硬直させていた。



 演奏集団の中にいたイルスァヴォン男爵が、隣のアンドレに声をかける。


「どうやら、ブレモン公爵は君をご指名しているようだ」

 アンドレはあからさまに顔を曇らせた。

「私には、あなたにお仕えすること以外にできることなど……」

「だが、君を求める声は多そうだがな?」

「急すぎて、私にはまだ受け止めきれません。……ですが、後始末は必要でしょうから、身内としてやるだけのことは当然いたします」


 アンドレが浮かない顔で兄アシル・ウェリックスの面前に歩み出てきた。


「ア、アンドレ……⁈」


 弟の存在に気がついていなかった公爵は、その姿を見て一歩後ずさった。


「兄上。これ以上、罪を増やしてはなりません」


「……ああ、その通りさね」


 突然、クレイドの背後から聞き慣れた女性の低音声が響いた。

 振り返ると、ロディールの隣にミセス・ヴェルセーノが険しい表情で立っていた。


「あ、姉上……! どうして勝手に……!」


「勝手? そりゃ、あんたほどじゃないさ」


 公爵は怒りを言葉に出すことをせず、ただの弟アシルとして悔しそうな顔で姉を見ていた。


「アシルが私を慕ってくれていたことは事実だろう。あんたのおかげで、救われたこともあったのは本当さ。だけど、そのやり方はまずかったね。それが自分で分からないのなら、今の立場はあんたが持つべきものじゃない」


「姉上! 私は、昔から姉上のことが、誰よりも大事だったのだ。私が姉上を平凡な生活から救うことができると思っていた。そのためには、どんな手段を使っても私が姉上を守らなければと――」


「だが、その私に嘘をついたのはあんただろう? ようやく私に代わる対象を音楽に見出したんだと思っていたが、結局あんたは何も変わっていなかったということだね」


 公爵は言い返す言葉もなく、ただ無言で口を結んでいた。ミセス・ヴェルセーノの言葉どおりであると意を示したも同然であった。

 クレイドを含めて、この場にいた誰もが黙ってその光景を見ていた。

 ここまで気圧されるアシル・ウェリックスの姿はこの先二度と見られるものではないかもしれない。夫人マリアムや娘のティフェーナも、この状況に身動きひとつできずにいた。


「アシル・ウェリックス。残念だが、今のあんたには同情の余地がない。……罪を犯しすぎたね」


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