第3話 客引き
クレイドはレオンスと別れたあと、ベンチに腰を下ろした。
隣にヴァイオリンを置くと、ゆっくりと深呼吸して辺りを見回した。
唐突に腹の音が鳴り、今が昼時であることに気がつく。
広場の一角で露店がこじんまりと開かれているのを見つけて、クレイドはその場所へ向かうことにした。
ほのかに漂う小麦の香りに吸い寄せられながら。
***
ある露店の男は、店舗後方のベンチに座って居眠りをしていた。
商品が盗まれることを想定していないのか、どこか危機意識が足りていないようである。
「……あの、パンを少し売っていただきたいのですが」
「ん? おお、お客さんか。もちろんだ」
四角い顔をした無精髭の男は、特別気を悪くした様子もなく、ただただ眠たそうに薄目を開けた。
客が持つ大きな荷物にちらりと目を向ける。
「……そいつは楽器か?」
「え? えぇ、そうですが」
「良かったら、弾いてくれねえか?」
突然の男性の言葉に、客人クレイドは驚いて二、三歩後ずさった。
「パンを食ってからでいいからさ」
「その、申し訳ないのですが……」
クレイドが断ろうとした瞬間、男性はパチンと両手を叩き合わせた。
「よし、俺はパンを幾つでも好きなもの奢る! その代わり、兄さんには客引きを頼む!」
「そ、そんな急に……」
早々に断ってこの店を離れれば良かった、とクレイドは今更ながらに思った。
「悪い話じゃないだろ? 音楽を聴きに寄ってくる人たちに商品を買ってもらいたいだけさ」
クレイドは男性の口車に乗せられて、ついに断るタイミングを逃してしまった。
仕方がなく、男性の隣にゆっくりと腰を下ろす。
「さあ、たくさん持っていけよ!」
男性は露店に陳列したパンを惜しみなく次から次へと差し出した。クレイドは軽く頭を下げながら、行き場のなくしたパンを受け取っていく。
今は一つだけ食べて、残りは明日の分に取っておこう。
「そういえば、兄さんは何しにここに来たんだ? この街の人じゃなさそうだが?」
突然の質問に、クレイドは数秒間沈黙した。
「……ええ。ちょっと人を探していて」
「ほう、そりゃ辛抱強さが大事だな」
「そうですね。そう言うあなたは、なぜここでお店を?」
男性の表情が唐突に重々しくなり、眉間にしわを寄せたままクレイドに顔を近付けた。
「あんまり大きい声じゃ言えねえけどよ、そりゃ金のためさ。別の所に移動して店を出すこともある。たくさん稼がないと家族も養えないしな。前に嫌な病が流行って引っ越してきたんだが、稼ぐのは楽じゃない。食うための金を得るのもやっとだよ」
男性の言葉を聞き、クレイドは視線を落としたまま深く頷いた。
「確かに、稼ぐのは楽じゃありませんね。苦労されているんですね」
「いやあ、兄さんだって同じだと思うがな?」
「そう見えますか?」
「ああ、立ち振る舞いを見れば分かる」
「そんなものでしょうか……」
男性は体勢を元に戻すと、背もたれに寄り掛かって空を見上げた。
「――そんなものさ。……君は一体どんな家で育ったんだ?」
突拍子もない質問に、クレイドは少々驚いた顔で隣に座る男性を見た。
「私は普通の家で育ちましたが……」
「そうかい。じゃあ、誰を探している?」
男性の話す言葉の節々から、クレイドはどこか追及されているような感覚になり、この男性に対して警戒心を抱き始めた。
「身内の人間です」
この男性に詳細を話す義理はない、とクレイドは直感で判断した。
「どうして?」
「生き別れみたいなものですよ」
クレイドの言葉は、自分でも驚くほどに淡々としていた。
「……兄さんも苦労してるじゃないか。ご両親は?」
「両親ともに他界している……かと」
「ん? 何かあったのか?」
余計な語尾を口走ったことに、クレイドは後悔した。答えるしかないだろう。
「……母は行方不明になって長いので、既に亡くなっていると思っています。昔のことですからいいんです」
男性は眉を寄せて、しかめっ面をクレイドに向けた。
「なぜそう思うんだ?」
そんなことまで聞いてくるのか、とクレイドは男性を横目で見た。
ただ早くこの男性との会話を終わらせたい――そう思っていた。
「病が流行していた時期なので」
「大流行のあの病か。受けちまったんだな……」
「ええ。外出したきり、帰って来ませんでした」
その『病』とは、『ペスト』のことだ。これは、流行すると大多数の人間が死に至るという『死の病』である。
クレイドは、自分の母親もこの病の犠牲者なったのだろうと推測していた。母の話題が今ここで掘り返されることになるとは思ってもいなかったが、悲しみよりも、母親は一体どこでどのように亡くなったのだろうという、真実を知りたい気持ちのほうが強い。
男性は深刻そうな顔で何度も頷いていた。
「……そうか、それは大変だったろう」
会話に終止を打つなら今しかない、とクレイドはベンチから立ち上がった。
「では、そろそろ演奏しましょう。お礼を込めて二曲弾きます」
クレイドはヴァイオリンを持って店の横に立った。
――どれだけの人が集まってくれるのかは分からないけど……。
楽器本体を左肩に乗せて、弓を静かに弦の上へ乗せた。
そのまま呼吸に合わせて弓をゆっくりと下ろし、柔らかでどこか物悲しげな短調の曲を演奏し始めた。
広場の雰囲気に馴染まないような曲調だったが、一部の人々は吸い寄せられるようにクレイドの周辺で足を止めていた。
一曲の演奏が終わる頃には観客に囲まれており、予想外の拍手が沸き起こった。クレイドは驚く暇もなく、その場で感謝の意を込めて頭を下げる。
想像し得なかった反響に、クレイドは少しだけ気持ちが晴れたような気がした。
いつのまにか、音楽を演奏することや楽器の存在自体が自らの心の拠り所になっていたことを、改めて自覚した瞬間だった。
二曲目を演奏した後、観客らの多くは店の商品に目を移していった。
クレイドは客引きという役割をある程度果たし終えて、ほっと胸を撫で下ろした。
そして、店主の男性と挨拶を交わしてその場を後にした。
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