エピローグ
エピローグ
日が暮れ始めたスベーニュの街で、弦楽器店“
そのタイミングを見極めていたかのように扉が開いた。
「今日もお疲れ!」
ロディールの明るい声が店内に響き渡った。後方にはフィナーシェが微笑みを携えて立っている。
店の奥から駆け足で出てきたリェティーが、二人に頭を下げて挨拶をした。
「こんばんは、ロディールさん。フィナーシェさん。お兄さまは手紙を読んでいるので、少し待っていてもらえますか?」
「手紙? 誰からだ?」
「エリスさんからです」
ロディールは目を丸くすると、リェティーがにっこりと笑顔を見せた。
「少しだけお待ちいただけますか?」
「そりゃあ構わないけど。な?」
ロディールに視線を向けられたフィナーシェは「もちろん」と言って頷いた。
そのあと店の扉を叩いたのはミセス・ヴェルセーノであった。
後方にはマリアムとその娘ティフェーナが木編みの籠を持って立っている。マリアムは公爵家を出てミセス・ヴェルセーノの店で働くことになり、ティフェーナと二人暮らしを始めたばかりだった。
「やあ、リェティー」
ミセス・ヴェルセーノの顔を見た瞬間、リェティーは満面の笑みを向けた。
「イゼルダおばさま、マリアム叔母さま、ティフェーナさん、お待ちしておりました!」
ミセス・ヴェルセーノはマリアムと顔を見合わせて微笑んだ。
「いい子だ。今日は美味しい料理を作るからね。奥の部屋に荷物を置かせてもらってもいいかい?」
「あっ……、すみません! 今、お兄さまがエリスさんからの手紙を読んでいて……!」
「おや、エリスから手紙が来たのかい? ……なるほど、それでロディールたちもまだ中に入れずにいるわけかい。だが、ロディールも中に入れないだなんて、どうにもクレイドらしくないじゃないか。本当にエリスからの手紙だけが理由なのかねえ?」
ミセス・ヴェルセーノの視線から逃げるようにリェティーがそろりと目を横にそらした。
ミセス・ヴェルセーノは肩をすくめて笑みを向ける。
「まあ、どっちでもいいさ。――だが、少し心配だね。クレイドが客人を待たせるなんてさ」
リェティーがミセス・ヴェルセーノと話をしている途中で、今度は扉を律儀に三回ノックする音が聞こえた。
「失礼いたします。アンドレです。クレイドさんはおられますか?」
扉の外から声が聞こえて、リェティーは心の声が漏れ出てしまい、「どうしよう」と呟く。
慌ててその場でぐるりと一周まわってから、扉を開けに行く。
「……ア、アンドレさん。ようこそお越しくださいました」
アンドレは頭を下げて居心地悪そうに苦笑すると、横に立つイルスァヴォン男爵を見た。
男爵の穏やかな眼差しが、困ったように元使用人を見つめ返している。
「アンドレ、そんな目で私を見てはならないよ。君はもう公爵の立場なのだからね」
「そうは言われましても、私はまだ爵位を継いだばかりです。あなたといるときは、せめてもの従者のアンドレで居させてください」
イルスァヴォン男爵は陽気に笑った。
「ははは、これはまた随分と平和な世の中になりそうだな。……おっと、目の前の君を困らせてはならないね、リェティーさん。申し訳ない。クレイド君はいるかな?」
さすがに、これ以上客人を待たせるわけにはいかない――そう考えて、リェティーは決心して頷いた。
「い、今、呼んでまいります」
「お兄さま? もう皆さん集まっていますよ……!」
リェティーがカーテンから少しだけ顔を覗かせる。
「分かった、ごめん」
クレイドはどこか浮かない顔をして、椅子から立ち上がった。
「手紙に問題がありましたか?」
「いいや、エリスの手紙はとても良かったよ。今度会いに来るってさ」
リェティーが驚きと喜びに身体を小さく跳ね上がらせた。
「わあ、良かったですね!!」
「うん。ありがとう。ただ――」
言葉の途中で、部屋を仕切っていたカーテンが反対側から強制的に開けられた。
ロディールが興味津々の様子でにやにやとこちらを見ている。
「何が良かったんだ?」
「……エリスが、今度会いに来るって」
ロディールは表情を綻ばしながらも、澄ましたように腕を組んで「そうか、そうか」と呟く。
「そりゃあ英雄クレイドくんも、俺たちどころじゃないってわけだ」
「おい、誰が英雄だ。弦楽器職人をなめるなよ」
この二人の会話を聞いていたミセス・ヴェルセーノは、大声で笑いながら、こちらへやって来た。
「はっはっはっ。演奏でクレイドの右に出るものはいないってことさね。……まあ、エリスが来るならクレイドが嬉しいのも当然だ。それなら、今日はもう一つお祝いができたわけだね?」
イルスァヴォン男爵とアンドレ・ウェリックス公爵が顔を見合わせる。
「ならば、そのお祝いに私もヴァイオリンで演奏参加させていただこう。楽器をお借りしても良いかな?」
「せ、僭越ながら、私も……」
クレイドは慌てて「ご挨拶が遅れてすみませんでした」とひと言謝ると、困ったようにアンドレを見た。
「アンドレさん。今日の目的は、アンドレさんの爵位授与のお祝いなんですよ? そもそも、こんな小さな店で良いのか、という不安はあるのですが……」
「これが私の望みなので。おかげさまで気が休まりそうです」
二人の貴族の客人には店内の楽器を自由に見て選んでもらうことにして、クレイドは手紙を片付け始めた。
「――で、おまえは何を気にしてる?」
ロディールがクレイドの耳元で訊ねた。
「……な、なんだ。気がついてたのか」
「当たり前だろうが」
クレイドは小さなため息とともに肩をすくめた。
「手紙が来たんだ」
「エリスからだろ?」
「それともう一通、レオンスさんからだ」
ロディールが大きく目を見開いた。
「いったい、何て?」
当然の反応だろう、とクレイドは思った。
あの演奏会の一件を終えて以降、レオンスからの音沙汰は一切なかったのだ。
彼の謎に満ちた奇策の真実はいまだ明かされていない。
「おや、そっちは誰からの手紙だい?」
ミセス・ヴェルセーノに気づかれてしまい、クレイドは苦笑する。
彼女にはレオンスのことを詳しく話しておらず、大人数が集まったこの場ではなおさら言いづらい。
「その、……オベールさんからの手紙で」
「ああ、この前言ってた、演奏会の作戦を考えて協力してくれたっていう、アルマンの情報屋だね?」
クレイドはロディールと顔を見合わせた。
ミセス・ヴェルセーノには、レオンスが情報屋であるという話をした記憶はない。
先日話をした際にはそれほど関心を示していなかったが、彼女らしさがようやく戻って来たのか、含みのある言い方が妙に気になってしまう。
「……ご存知だったのですか?」
「そりゃ、まあ少しなら知ってるさ。オベールを名乗ってるなら、これは言ってもいいことなんだろうし。……ほら、今の若主人はブレモン公爵のお孫さんだろ?」
「孫――?!」
驚きの反応を示したのはクレイドだけではなかった。
ロディールと、その話に耳を澄ませていたリェティーも仰天していた。
言われてみれば――と、ふとクレイドは気になることがあった。
それはレオンスとブレモン公爵の関係性についてである。ただの知り合いにしては、二人の間における情報伝達速度があまりに早すぎるのだ。真実はいつか本人に聞くとして、きっと何か特別な手段を行使したのだろう。
今回の手紙を読んだところ、レオンスはスベーニュの近況やこの小さな祝いの会の開催も把握しているらしく、その情報源はおそらくアンドレ・ウェリックス公爵かブレモン公爵といったところだろうか。
レオンスはブレモン公爵のことを知人と呼んでいたが、彼が『レオンス・B・オベール』と名乗っていたことからも、そのBがブレモンを指す言葉だと考えると、ミセス・ヴェルセーノの今の話も納得がいく。
これを隠したまま、レオンスが堂々とここまで行動を起こしたという事実は、もはや感心に値する。
「クレイド、手紙にはまたおかしなことが書かれてたのか?」
また、という言葉にクレイドは少しだけ笑みを浮かべる。
「あながち間違ってないよ。……ひと段落したことへの労いの言葉と、アンドレさんの爵位授与の祝いの言葉。そして、この店をスベーニュの情報拠点にしたいという要望が書かれていた」
「情報拠点って何だ?」
「さあ。正直、乗り気じゃないけどね。……でもまあ、今回はかなり協力してもらったし」
「まあな。ただ、手紙を寄越すくらいなら、この店に来そうだけどな」
「祝いの趣旨を考えると、さすがに気まずいんじゃ――」
「お兄さま、そろそろ始めましょう!」
リェティーの懸命な呼び声で、クレイドは再びハッと顔を上げて周囲を見回した。
待たせている面々を見て、クレイドはきまりが悪そうに謝る。
「大変お待たせして、すみません……」
「お兄さま。お兄さまに皆さんからお願いがあるそうですよ!」
リェティーの嬉しそうな顔が、早く早くと急かしている。
「皆さんが、お兄さまとロディールさんの息ぴったりのハーモニーを聴きたいって!」
――ハーモニーか。まあ、客人を待たせたお詫びはしなきゃならないよな。
「分かった」
「よし、やるか」
ロディールが店内に置いてある低音楽器ヴィオローネに近づくと、そのネック部分を右手で掴む。
「クレイドは何の楽器を弾く?」
「ヴィオラダガンバにする」
クレイドは即答した。
低音楽器に低音楽器を重ねようとするクレイドに、ロディールは軽く頭をかいた。
少々華に欠けるだろうということは、クレイドも当然分かったうえで答えている。
「最近のクレイドならヴァイオリンを選ぶかもと思ったんだがな?」
「ここにはヴァイオリン弾きはたくさんいるだろ? それに、やっぱり俺にはこれが一番しっくりくるんだよ」
これは二人の間だけの、いつもの変わらぬやり取りである。心なしかリェティーの期待の眼差しが向けられている。
「まあ、俺は聴いてくれる人が楽しんでくれるならいいけどさ」
クレイドはロディールの不安をよそに、小さく笑った。
「絶対に楽しませるさ」
父が残した質素な弦楽器店にこれだけの人が集まっているという状況に、温かい気持ちになりながらも、どことなく可笑しさが込み上げてくる。
自分の選択を肯定してくれているかのようで、今この瞬間が、クレイドにはとてつもなく尊い大切なものであるかのように思えた。
日没を告げる教会の鐘の音が聞こえて、一瞬、この場にいた全員がその美しさに耳を傾ける。
鐘の音が途切れると同時に、クレイドは深呼吸した。
そして、ヴィオラダガンバの弦を静かに震わせて、温もりに包まれるような柔らかな音を奏で始めた。
モノクロの奏者 島文音 @celtic
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