第6部 鍛冶職人

 第1話 手紙

 クレイドは目が覚めると、仰向けで天井を見上げた。

 今日からしばらく、リェティーがいない生活が続く。まだあまり実感が湧かないが、それでも心に穴があいたようで、今は起き上がることすら億劫に思えた。

 リェティーを無事にミセス・ヴェルセーノの元へ送り届けて安心したはずなのに、クレイドは自分でも驚くほど元気がないことに気がついた。


 朝食の席についてパンを食べ始めたクレイドだったが、部屋の中には無音が続く。「おはよう」の一言すら交わす相手がいない。

 それが普通だったはずなのに、リェティーという妹ができたことにより、久しぶりに寂しいという感情が思い起こされた。会話する相手がいないぶん、頭の中で色々なことをぐるぐると考えてしまいそうになる。


 クレイドは父親の葬儀を終えた直後の記憶を思い出した。どれだけ悲しくても自分は一人きりで、ロディールやミセス・ヴェルセーノが気にかけてくれたとはいえ、この店を守ることができるのは自分しかいなかった。

 父親の職人技術は子供の頃から見て学んできたクレイドだったが、父親亡きあと、十五の歳で売り物になる楽器を一人で完成させることは困難を要した。

 夜遅くまで楽器製作を行い、あまりにもうまくいかないことが悔しく、泣きながらヴァイオリンを作り続けた日も少なくはなかった。ロディールが唐突にやって来たときは、慌てて机に突っ伏して死んだふりならぬ寝たふりをしたものだが、「隠さなくたっていいぞ」とよく慰められていた。



 今日もそろそろ店の看板を出すか。そう思い、クレイドは椅子を立ち上がる。


 クレイドは外扉に『open』の看板を掲げると、作業机に向かって腰を下ろした。作りかけのヴァイオリンに向き合う。



 木を削る音だけが虚しく店の中に響いた。


 ***


 太陽が西に傾き始めた頃も、クレイドは気を紛らすために休憩することなく作業を継続していた。


 ――リェティーはうまくやっているだろうか。



 クレイドは睡魔に襲われ始めていた。うつらうつらとしている状態で楽器に向き合うのは危険だと感じ、作業場を離れる。間違えて余計な傷跡を施してしまってはたまらない。

 これも二日間まともに睡眠をとっていなかったせいだと、クレイドは奥の部屋へ向かい、ゆっくりと腰を下ろした。

 閉店すれば良いのだろうが、クレイドの性格ゆえに連日閉店することはできないと、相変わらず自らに厳しさを強いていた。

 

 少しの間だけ、と思ってクレイドがテーブルの上に頭を伏せていたとき、耳鳴りのような無音を破る音が聞こえた。身体を起こして、ぼんやりとした意識で周囲を見回した。


 この音が店の扉を叩く音であると気がついたのは、十を数えるほどの時間が経過したときだった。

 クレイドはゆっくりと立ち上がり、店の扉の方へと歩いていく。しっかりしろと言い聞かせて、意識的にまばたきを何度も強く繰り返した。


「いらっしゃいませ」

 クレイドは扉を開けると同時に、作り上げた柔らかな表情で出迎えた。


 外に立っていたのは配達員の青年であった。背筋はキリッとまっすぐに伸びて、使い込まれた大きな革製鞄を腰に提げている。身体は鍛えられているせいか重心の揺らぎが一切なく、見事な出で立ちである。

 ところが、その表情は身体に似合わず柔和な印象で、クレイドに笑顔を向けると一枚の封筒をヒラヒラと見せた。


「お久しぶり、クレイド」


 クレイドは名前を呼ばれて、はっと気がつく。


「……アルディスか?」


「忘れられていたか? 最近は注文もめっきり減っているからね。お届け物が少なくて寂しいよ。発注ならいつでも承るからな?」


 アルディスは騎士の家系だが、一般庶民の中で生活している風変わりな青年であった。文などを届ける飛脚の仕事を請け負いながら、クレイドの店“avec アヴェク des cordesコード”の仲買人として、楽器の製作および修理にかかる部品の調達を度々行っていた。クレイドとは仕事上の付き合いではあったものの、年齢が同じということもあり、今では気軽に話せる仲となっていた。

 ところが、最後に見た彼の姿からだいぶ印象が変わり、クレイドはひと目見てアルディスだということに気が付かなかったのである。


「楽器の木材は足りているか? 最近、面白い木材を収集している人と知り合ったんだよ」

「俺は素材にはこだわりがあるからな。木材を買うならいつものマスターの店で、自分の目で見て購入したい。君は俺のこだわりを知ってて言ってるんだろう?」

 アルディスはいやはやと頭をかく仕草を見せて、悪びれた風もなく笑った。

「ばれたか」

「商売としては尊敬するよ」


 クレイドはアルディスから手紙を受け取ると、それには目もくれずに中へ入るよう促した。

「少し寄っていかないか? コーヒーはないんだが」

「ありがたいんだけど、仕事中だからさ。手紙の宛先と差出人、念の為確認してもらえるか?」

 アルディスに言われたとおり、クレイドは手紙の両面を確認する。

 宛名はクレイド・ルギューフェ様宛てとなっていた。続けて差出人を見た瞬間、クレイドは息をのんだ。


 ――エリス……?!


「大丈夫? 何か間違っていたか?」

 心配そうにアルディスがクレイドをじっと見る。

「……アルディス、君に少し聞きたいことがあるんだ」

 クレイドの表情は硬直していた。ただごとではないと察したアルディスは、すぐに快諾した。

「いいよ、中で話そう」

「仕事中なのに、いいのか……?」

「これも仕事のうちさ。お客様に納得してもらえる対応をするのも仕事の一つだからね」


 そして、クレイドは店の看板を『closed』に向けた。


 クレイドに続いてアルディスは奥の部屋に進み、二人は向かい合うように腰掛けた。

「今、飲み物を用意するよ」

 そう言ってクレイドが立ち上がると、慌ててアルディスが手で制した。

「あ、待って! そこまで気を遣わなくていいよ、それよりも聞きたいことがあるんだろ?」

「で、でも……」

「気にしなくていいって」

 アルディスはにっこり笑顔でそう言うので、クレイドは彼の善意を受け取ることにした。

「……ありがとう。実はこの手紙の送り主、どうやら俺の妹みたいなんだ。どうすれば手紙に返信できるのか、教えてくれないか?」

 クレイドが言うと、アルディスは自分のことのように嬉しそうな笑顔を見せた。彼もクレイドの家庭事情を知る、数少ない一人なのだ。

「そうなのか! ちょっと待ってね、その手紙もう一回見せてもらっていいか?」

 アルディスは手紙をもう一度受け取ると、表と裏を何度もひっくり返して見る。そして、不思議そうに小さく唸った。

「どうやら、送り主の住所が細かく書いてないみたいだ……。アルマンの街は分かるけど、送り主の居場所を突き止めるのは厳しいなぁ」


「誰かに尋ねたら良いだろうか?」

「アルマンまで行って、人を当たるのか? ルーバン地方はここから数日はかかるよ? 少なくとも一晩は海で夜を明かすことになる。ここから港までは歩ける距離だけど、渡航するには定期船か商船に乗らなきゃならない。……そうだ、もし良かったら地図をあげるよ」

 アルディスは大きな鞄に手を突っ込むと、ガサゴソと底まで探った。

「ありがとう。でも、アルディスは地図がなくても大丈夫なのか?」

 クレイドは差し出された手書きの古びた地図を受け取りながら尋ねた。

「うん、確かもう一枚入っていたはずだ。それに、この街やその周辺地域の地図ならもう頭に入ってるしね」

「……助かるよ」

「いいんだ。でも、ルーバン地方のアルマンにはお金持ちが多いよ。それに、ルーバンの港からアルマンへ行くには、旧市街か村のどちらかのルートを通る必要がある」

「どこであろうと、妹がいるなら俺は行くさ。まずは居場所を知りたいし、何よりもこの機を逃したくないんだ」

 クレイドの真剣な様相に、アルディスは小さく何度も相槌をうった。

「そうか。……あ、手紙の中には住所とか書いてないかな?」

「そうだ、まだ内容を見ていなかった。今確認してみるよ」

 クレイドは閉じられた手紙の封を、指で丁寧に開き始めた。

 すると、アルディスがぎこちなさそうに口を開く。

「俺はここにいても大丈夫? 席外そうか? やっぱり、こういう手紙って一人で読みたいものだろ……?」

 アルディスらしい気の遣い方であると感じて、クレイドは困ったように肩を竦めた。

「全然気にしないよ。……むしろ、今は誰か近くにいて欲しい気分なんだ」

 これをロディールに言えば茶化されるに違いない。

「……なんか珍しいね、クレイドがそんなこと言うの。でも分かった、ここにいるよ」


 クレイドは折りたたまれた手紙を取り出すと、途端に緊張し始めた。

 ゆっくりと深呼吸して、両手で丁寧に手紙を開いた。



『親愛なる クレイド・ルギューフェ 様


お久しぶりです。元気ですか?

手紙を書き始めたばかりだけど、もう懐かしい気持ちです。

お兄ちゃん、大丈夫ですか?

お店は忙しいですか?

楽器は弾いていますか?

私はお兄ちゃんの演奏が大好きなので、また聴きたいです。

あと、私にも弾き方をたくさん教えてほしいです。


お兄ちゃんに会いたいけれど、今は身体の調子があまり良くないので、自由に動くことができません。

でも、心配しないでください。

優しい人たちがいて、私はいつも笑っています。


私が元気になれたら、必ず遊びに行きます。

その時、またお手紙書きます。


お兄ちゃん大好きです!


エリス・ルギューフェ』



 クレイドは黙読した。気になる点をいくつか見つけたが、手紙の内容に思い耽るのはアルディスが帰ってからだ。

「住所は書いていないみたいだ。やっぱり俺は行くよ。……気になることが色々あるんだ」

 クレイドの瞳に一切迷いはなかった。その意志を感じ取ったアルディスは、納得したように頷いた。

「わかったよ。……でも、くれぐれも気をつけて」

「あぁ、ありがとう。本当にいい仕事をしているな、アルディスは」

 クレイドが笑顔で言うと、アルディスも優しく微笑み返した。

「君の仕事もね。……それじゃあ、また来るよ」


 そして、アルディスは挨拶代わりに右手を軽く上げると、店の扉の方向へ向かって歩き始めた。その背中をクレイドがゆっくりと追った。


「今日は届けてくれてありがとう。今度は仕事がないときに来てくれ。友人として迎え入れるから」

「ありがとう、また来る」


 クレイドは店の外に一歩出て、玄関先でアルディスを見送った。



 ――身体の調子があまり良くない、か……。






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