第4部 日常と非日常

 第1話 老夫

 厚い雲に覆われた薄暗いこの街に、大きな荷物を抱えて歩く老夫がいた。


 今が昼下がりであることを忘れてしまいそうな曇天下、いつ雨が降り始めてもおかしくない状況であった。

 彼はゆっくりとした足取りで、目的地へ向かっていた。


 十数年ぶりのスベーニュの街の姿に懐かしさを感じながら、変わらぬ道を迷うことなく進み続けた。


 ――あぁそうだ、この店だった。


 老夫はある店の前で足を止めると、一度大きく深呼吸した。


 ***


 天候悪化により本日閉店中の店内では、クレイドとリェティーが一階奥の部屋で休憩していた。

 いつものように温めたミルクを二人で飲みながら、向かい合って椅子に座っていた。


「リェティー、この家にはもう慣れただろうか?」

 ふとクレイドが何気なく尋ねた。

 リェティーは頷くとともに、柔らかな笑みをこぼした。

「はい! それに、お兄さまが一緒なので楽しいです」

「……良かった。リェティーのおかげで生活が明るくなったよ。まるで本当の妹みたいだ」

「お兄さまの妹なら、この上ない幸せです!」

「それは嬉しいな。こんな俺を兄だと思ってくれるなら、どれだけ嬉しいことか……」

「お兄さまは優しい人ですね。ロディールさんにはちょっと冷たいですけど、やっぱり優しいです」


 クレイドは無意識のうちにリェティーを実の妹と重ねていた。信頼できるリェティーには、そろそろ自分に本当の妹がいるという事実を話しても良い頃かもしれないと思い始めていた。隠しているわけでもないのに、言わずにいることにどこか罪悪感を感じていたのである。


「あ、あのさ……」


 コンコン、コンコン。


 突然、店の外から扉を叩く音が響いた。

「ちょっとここで待っていてね」

 クレイドは席を立つと、一人で店の扉へ向かった。

「あ、お兄さま! 私はここにいても……?」

「いいよ、今は閉店中だしね。場合によっては二階に移動してもらうことになるかもしれないけど、その時は伝えるから」

「分かりました……!」


 そう、扉の向こう側には閉店中と知りつつ扉を叩いている"誰か"がいるのだ。クレイドには、この状況を無視をすることはできなかった。

 あのイルスァヴォン男爵邸の『呪いのヴァイオリン』の一件の再来かと思われる状況が、今まさに起きているのである。

 今はただ、そんな厄介なものではないことを祈るばかりである。


「お待たせしました」

 クレイドは扉を開けて、来客者の姿を見た。



 そこに立っていたのは、穏やかな笑顔に豊かな白髭をたくわえた老齢男性だった。貴族ではないだろうが、小綺麗な身なりで背筋はピンと張っている。庶民の中でも裕福な生活をしていることは想像に難くない。


「やあ、こんにちは。閉店中にすまないね、わざわざありがとう。実は楽器を持って来たのだがね……」


 クレイドは老夫が持つ楽器を見る。


 ――ヴィオラダガンバ……?


「どうぞお入りください。先にご用件をお伺いしても……?」

 クレイドの問いかけに、老夫は自分の髭を片手で丁寧に撫でた。

「ふむ……。ここの店の職人さんは、君だけなのかな?」

 クレイドはやや首を傾げた。不思議なことを尋ねる客人である。

「ええ、私だけですが……」

「ルージェンは、いないのかね?」

 突然、別の男の名が出てきたことにクレイドは耳を疑った。

 は、クレイドにとって知らぬ名ではない。それもそのはず、自分の父親の名前こそがルージェン・ルギューフェだった。

 そして、父ルージェンもまた、楽器職人でありながらヴィオラダガンバ演奏の名手だったのである。


「申し訳ありませんが、お名前をお尋ねしても宜しいでしょうか。……事情によってはお答え致し兼ねます」


「分かった、全て話そう。私は二十年ほど前にルージェンの楽器を購入した者だ。名は、ルオント・ヴォアーフと言う。彼は私より随分と年下だったが、楽器を購入して以来、友のように仲良くなった。それからこの店によく通ったものだ。一緒に楽器を弾いたりしたんだ」

 ルオントは懐かしむように笑みを浮かべながら、一言ひと言を紡ぎ出していた。

「しかし、私はある事情によりこの国を出なければならなくなった。ようやく戻って来れたから、真っ先に彼に会いたいと思ってここまで来たんだ」


 クレイドは、ルオントと名乗る男性が話す言葉の節々で頷きながら、真剣に聞いていた。

 しかし、彼の事情を知ったがゆえに、クレイドは切り出す言葉に詰まったのである。

 

 ――この人は、父が他界していることを知らないのか……。



 クレイドは少しの間沈黙した。

 本当のことを話したら、この客人はどのような顔をするだろう。友人だったのなら、やはり悲しませてしまうだろうか。こんな時、相手にどのように伝えることが正しいのだろうか。


「そういえば、君はここで一人だと言ったね。君の名前は?」


 ルオントは包み込むような笑顔で訊いた。

「わ、私はルージェンの息子で、クレイド・ルギューフェと申します」

「そうか。君がクレイドくんだったか」

 ルオントはゆっくりと噛みしめるように頷いた。

 ルオントは楽器ケースを壁に立てかけると、再び話し始めた。

「どうりで、君にはルージェンと似た雰囲気があるのを感じるわけだ。君が一人で営業しているということは、ルージェンはいないんだね……?」

 ルオントの言葉に、クレイドは視線を下に落とした。

「は、はい。実は、四年ほど前に――」


 ――亡くなった。そして、妹エリスも養子に出された。


 そして、それを知ってからはロディールが心配してよく店へと遊びに来るようになったのだ。

 一時は悲しむ暇もないほど、仕事とロディールへの対応で忙しい毎日を繰り返していたが、今ではそれが案外良かったのかもしれないと思う。


 ルオントは悲しみに表情を歪ませながらも、かすれる声を絞り出した。

「……そうか、そうだったか。まだ若かったのにな。君も大変だっただろうに、よくこの店を続けてくれたね。私の大好きな店を……、ありがとう」


 クレイドは驚きの感情に目を見開いた。

 初めてだった。自分が店を継いだことを全肯定して喜んでくれた人は。

 たった今、己の今までの人生が肯定され、救われた気がした。


 クレイドは自身の感情が揺らぎ始めたことを敏感に察知したが、のみ込まれまいとぐっと堪えた。悲しみに暮れる客人を前に、いま自分が為すべき使命は彼に寄り添うことなのだ。


「クレイド、一緒に楽器を弾いてくれないかい?」

 ルオントの優しく包み込むような微笑みに、クレイドは胸が熱くなるのを感じた。

「はい、ぜひ……」

 クレイドは曇りのない笑顔を返した。


 クレイドはリェティーのことを自分の妹だとルオントに紹介した。リェティーの名前は身元が漏洩するリスクを考慮して伝えなかったものの、彼は二人の関係を見て何も疑わなかった。


 クレイドはルオントに合わせて、自らもヴィオラダガンバの準備を始めた。


「クレイド、この曲は弾いたことがあるかな? 昔、ルージェンとよく弾いていた曲なんだが……」


 ルオントはそう言って簡単なメロディーを弾いた。

 年齢を全く思わせない自由自在で滑らかな弓の動きに、柔らかな指。

 クレイドはその圧巻の光景に息を呑んだ。


「……す、素晴らしいです。私はあなたには到底及びませんが、この曲は父と弾いたことがあります」

「そうかそうか、良かった。では、そこの可愛らしいお客さんに楽しんでいただこう」


 リェティーは椅子に座ったまま身体をビシッと引き締めた。



 クレイドとルオントによるヴィオラダガンバ演奏が始まった。



 深く柔らかな音色で、優しくて哀愁漂うメロディー。


 この二人を繋いだものは、紛れもなくクレイドの父ルージェンだった。

 この一時が、クレイドとルオントの双方にとって、思い出や懐かしさを呼び起こす貴重な時間となった。



 リェティーは今この場に居合わせられたことに感謝しながら、両目をしっかりと開けて、二人が演奏する姿を脳裏に焼き付けていた。



 ***



 ルオントは、また来ると言って店を出た。


 クレイドは店の外に出て、去り行くその姿を最後まで見つめていた。



 ――父さん。父さんもこんな気持ちで演奏していたんだろうか。ルオントさんと一緒に演奏する父さんの姿を見てみたかった。

 この楽器店は俺にとって最高の店だ。こんな店を残してくれて、ありがとう……。









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