✾ 後編 楽師編 ✾

第1部 宮廷楽師

 第1話 宮廷楽師(1)

 群青の波が空を刻一刻と染め始めるころ、“avecアヴェク des cordesコード”をあとにしたクレイドは、真っ直ぐ前を向きながら、ウェリックス公爵の二、三歩後方を歩いていた。今ここで逃げようと変な気を起こせば、護衛の二人が後ろから自分を捕らえるのだろう――そう容易に想像できた。

 公爵の背を見ながら、彼はつくづく不思議な男であると思った。楽器の修理を依頼してきた時は、恨みがあるのかと思うほどに冷徹な態度を示してきたが、彼は対価として大量の金貨を寄越してきたのだ。

 挙げ句の果てに、今こうやって自らを楽師として半強制的に迎え入れようとするのだから、正直、かなりの狂人である。この男の奇怪な行動や思考回路は、自分の考えが及ぶ範疇をとうに超えているのだ。


 ――警戒を怠るな。何とか、屋敷を早々に脱出する方法を考えろ……。


 ***


 公爵ら一行は広場の横を通り過ぎて、街の中心部の公爵家の屋敷へ到着していた。

 既に辺りは暗闇となり、ぼんやりと浮かぶ灯りは指で数える程度までに減っていたが、この屋敷だけは違った。光剛とした明かりが建物の窓から漏れ出て、建物の輪郭が暗闇にくっきりと浮かび上がっている。

 クレイドはこの屋敷に一切の感情を抱くことなく、案内されるがままに屋敷の中へと入った。


 階段を上がり、彫刻像や自然や美が調和した彩色豊かな絵画が飾られた廊下を歩いていると、途中で公爵の足が止まった。


「ここが部屋だ。晩餐で、挨拶代わりに一曲弾いてもらおう。部屋の前に護衛を一人置いていくから、ヴァイオリンの準備が整い次第、楽屋を案内してもらえ。服装も着替えておくように。そこには食事もあるから、自由に取って構わない」

 クレイドは聞き返したいことが山ほど思い浮かんだが、ぐっと飲み込んで頭を下げた。

「……分かりました」


 公爵がこの場を去り、一人の護衛が呟いた声をクレイドは聞き逃さなかった。

「あのお方が、ここまで自ら対応なさるとは……」


 職人技術により紋様が丁寧に彫り込まれた扉を、クレイドはそっと手で押し開けて部屋の中に入った。

 一端いっぱしの楽器職人には広すぎる部屋だった。目を引くものばかりで、視線がどれか一つに留まることがない。

 外部の人間に提供する部屋にしては、もてなしが過ぎるのではと、クレイドは目眩しそうになりながら顔を下に向けた。

 他の部屋はもっと絢爛豪華なのかと想像すると、不思議と嫌悪感が増す。この場所は自分には向いていないのだと、今はっきりと認識した。


 ***


 クレイドは着慣れない衣服を身に纏い、鏡で全身を確認した。柔らかな生地はだぶらんとして、どこか気が引き締まらないようで違和感を覚える。それでも着替えを命ぜられた手前、今は我慢するしかなかった。


 ヴァイオリンを入れたケースを手に持ち、扉の前で一度深呼吸をして部屋を出た。

 楽屋に入ると、既に中には数人ほど集まっていた。まず目に入ったものは、数々のオードブルと、食事を楽しみながら会話を弾ませる者たちの姿。さらに辺りを見回すと、リュートやハープ、ヴィオローネなどの古楽器を鳴らす楽師たちの姿があった。

 クレイドはオードブルに手を付けることなく、入り口の隅で人々の姿を観察していた。


「あなたは新入りさん?」


 右耳から女性の囁きが聞こえて、クレイドは慌てて耳を塞いで振り向く。ブロンズの髪をアップにした、白雪のような肌と長いまつ毛が印象的な若い女性であった。ロディール曰く鈍感なクレイドですら、これは直視してはならないものだと本能が察知して視線を逸らす。


「新入り……、そうなるのでしょうか」

「私はハープ奏者のマリエル。昨夜、公爵が仰っていたのよ。明日は素晴らしい一日になるだろうって。そんなに期待されているあなたが羨ましい」

 羨ましいものか、とクレイドはわずかに顔をしかめた。

「これから演奏をして、……その後のご予定は?」

 マリエルは右側から近距離で詰め寄るため、クレイドは左側に一歩身を引いた。

「ただ翌日に備えるだけです」

「それだけじゃ、つまらないでしょう?」

 クレイドの右腕にマリエルが腕を回しかけたところで、クレイドはさっと振り払った。

 一瞬、驚いたようにマリエルが目を見開く。

「失礼ですが、私は公爵の条件によりここに来ました。長居するつもりはありませんので」

 嫌悪感を露わにするクレイドだったが、マリエルは柔らかな笑顔で強引に言い寄ろうとする。

「後悔しません?」

「結構です」

 クレイドは言い切ると、ヴァイオリンのケースを持って場所を移動しようとした。

「本当に……?」


 背後からマリエルの弱々しい声を聞いて、クレイドは一瞬立ち止まった。拒否する態度が露骨すぎただろうかと、少し罪悪感を感じて振り返った。


「うっ?!」


 クレイドは声を上げた。唐突に正面から強い力で抱きつかれて姿勢を崩す。全集中力を注いで楽器の保護に徹するが、マリエルはすきを狙ってクレイドの身体を両腕で囲うと、顔を上げてにやりと笑った。

 弱々しい声は彼女の演技だったのかと、クレイドは眉を寄せた。


 すると、前方から豊かな顎ひげをたくわえた男性が、酔いが回ったようにおぼつかない足取りで向かってくる。


「あっはっは! 捕まったら逃げられんぞ? マリエルは公爵お気に入りのハープ弾きだ。新入りは決まってこいつに品定めされる」

「あ、あなたも……ですか?」

 どれだけ剛力なんだとクレイドは若干引きながらも、何とかマリエルの腕の輪から抜け出そうと身体を捩った。

「俺はもっと昔からここにいるからねえ。だが、品定めされた奴らはたくさん見てきたねえ」

 見ているなら助けてくれと思いながら、クレイドは少し息を切らし始めた。嫌な圧迫感を受けてクレイドは楽器ケースを持つ手に力を込める。


 すると、マリエルの腕が観念したようにすっと離れた。クレイドは血液がどっと全身を駆け巡る感覚に、若干のふらつきを起こす。


「こんな人初めて……。使い物にならなければ、私も公爵に見放されてしまうかしら……」

「あっはっは、新入りの勝ちか。こいつを前にしてそれだけ耐えられた奴はいねえなあ」

 何なんだこの人たちは、とクレイドは頭がくらくらした。


 クレイドはゆっくりと逃げるように場所を移動して、床面に腰を下ろした。ヴァイオリンをケースから取り出すと、真っ先に損傷の有無を確認する。

 幸い楽器は無事で、クレイドは安心してひと息つきたいと思っていたところ、自らの名前を呼ぶ声が聞こえた。


「クレイド・ルギューフェ。公爵がお待ちだ」


 ――今はただ、言われたことをやるだけだ。


「ただいま参ります」

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