第7話 約束の日
時は夕暮れ、ウェリックス公爵は待ち望んだ日を迎えて、嬉々として胸を弾ませていた。公爵家の人間であることを悟られないよう灰色の服を身にまといながらも、一般人に扮した護衛がすぐ後方に二人ついている。その雰囲気は一般人には醸し出すことのできない物々しさがあり、家路へ向かう人々の視線を集めていた。
公爵の歩く足取りは軽快で、表情はどことなく好戦的であった。
楽器店の扉を開けると同時に、公爵は眉をひそめた。作業机に向かっていたのは、クレイドではなく見知らぬ男――ロディールだったからである。
「職人はどうした?」
この声に聞き覚えがあり、ロディールは姿を見て一瞬固まった。それでも、表情には冷静さを取り繕っていた。
「おりますが」
「今日は約束の日だが?」
「そのようですね。あいつは職人気質の世界に向いていませんから、あなたのお誘いに乗るでしょう」
「随分と他人事だな?」
「……今ちょうど、二階に女を連れ込んでまして。楽師になるとしばらく会えなくなるからと言ってましたが、全然降りてきませんね」
公爵は神妙な面持ちを浮かべた。
「前に修理を頼んだ時には、そんな人間には見えなかったが。……まあいい、決断がついているなら何よりだ」
「あいつは女のことになると、人が変わったようになります。正直、俺もついていけません。……なぜ、そんなあいつを宮廷楽師に?」
公爵はクレイドとの交渉が成立したのだろうと解釈すると、途端に態度を変えた。やんわりと口元に笑みを浮かべる。
「まずは職人としての腕の良さ、感の良さ、頭の良さ。そして、何より一流の演奏をするとの噂で有名だ。
ロディールは「なるほど」と頷きながら、公爵の機嫌が悪くならないうちに、クレイドを呼ぶ必要がありそうだと早々に判断した。
「……呼んできましょうか?」
「ふむ、そうだな。……ヴァイオリンを忘れずに持ってくるように伝えておけ」
ロディールは怒りを露わにしない公爵の様子を見て内心で安堵した。
「承知しました」
ウェリックス公爵と護衛二人を店内に待たせて、ロディールは二階へと向かった。
ロディールがクレイドの部屋の扉をノックしようと左手を向けたとき、嫌な緊張感が過ぎった。
――これ、本当に入って大丈夫だよな……?
いいや、この計画の首謀者である自分が一体何を躊躇ってるんだ。ロディールはそう思いながら呼吸を整えると、扉を静かにノックした。
「……うわぁっ?!」
ロディールは驚愕の声を上げた。
ベッドの上にはフィナーシェが眠るように横たわっていた。その姿を見たロディールは反射的に身震いした。クレイドはベッドに腰掛けたまま、窓の外の景色を真っ直ぐに見つめている。
ロディールはその状況を理解できないまま、不思議と涙が出そうになっていた。
クレイドはゆっくりと扉の方を振り返ると、そこにはロディールしかいないことを確認した。ベッドから立ち上がり、歩み出てロディールの左腕を掴むと、無言で部屋の中に引き入れた。そのまま扉を閉めると、最終確認を兼ねて小声で訊ねた。
「……ありがとう。あいつが来たんだよな? あとは、俺が出て行って公爵について行けばいいんだよな?」
クレイドは話し声が一階に届くことのないようにと、細心の注意を払っていた。ロディールは悲壮に満ちた目をクレイドに向けて、コクコクと機械のように頷く。
クレイドは肩を竦めると、自分の妹にこの配役を任せたのはロディールじゃないか、と小さくため息をついた。
「これは演技に説得力を持たせるためだ。フィナーシェの提案だ。本当にありがたいよ」
クレイドの言葉に反応して、フィナーシェが上半身をむくっと起こした。寝たふりをしていたことにロディールは驚いて再び声を上げそうになったが、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
「お兄ちゃん。公爵さんがこの部屋に入って来たら困るから、せめて言い逃れできる程度には準備しておこうと思って」
フィナーシェが柔らかな笑みを浮かべた。
「そ、そうは言ってもだな……」
ロディールは少しばかり苦言を呈したかったが、ぎゅっと口を噤んだ。
「俺を呼びに来たんだろ? ……それなら、ここで長く話していたら怪しまれるよな」
クレイドが言うと、青い瞳を真っ直ぐにロディールに向けた。
「後は何とかやってみるよ」
「お、おう……」
「右腕のこともあるから、職人仕事はあまり無理しないでくれ。……悪いけど、少しの間だけこの店とリェティーをよろしく頼む。俺は早々にウェリックス公爵の屋敷を脱出して、エリスの居場所を突き止めるためにアルマンへ向かう。……そして、必ず帰ってくる」
ロディールは不安そうに眉を寄せたまま、深く頷いた。
「……あぁ、分かった。その後にウェリックスが何かしでかしたら、こっちで何とかする」
彼の表情と言葉は不釣り合いであったが、どこかロディールらしさを感じて、クレイドはふっと笑みを浮かべた。
「ありがとう。――それじゃあ、行ってくる」
クレイドは普段使いの革製鞄を斜めに背負うと、ヴァイオリンを入れたケースを右手に提げた。ゆっくりと部屋を出て、階段下に立つウェリックス公爵の姿を見る。
互いの視線がばちんと合った瞬間、クレイドは凍りついた。以前、ヴァイオリンの修理を理不尽に押し付けてきた、あの貴族の客人だ。
クレイドは動揺して階段の一段目を踏み外しそうになり、心臓の高鳴りは増すばかりであった。
一歩一歩、やっとの思いで階段を降りて床に足をつける。
「こ、公爵……。あの時はお顔を存じ上げておらず、大変失礼しました……」
考えるより先に、謝罪の言葉が口から飛び出した。
ところが、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに公爵は首を横に振る。
「……それよりも、君の言葉で返事を聞きたい」
公爵に恐怖心を抱いてはならない、考えていることを悟られてはならないのだと、クレイドは心に強く言い聞かせる。
硬い表情でゆっくり頷くと、呼吸を整えた。
「……私は、私の意思で楽師を引き受けます」
そして、言葉を続けた。
「全ては、私自身のために」
これを聞いた公爵は、片方の口角をわずかに上げた。
「面白いことを言う。……分かった、ひとまず契約は成立だ。店のことも善処しよう」
どこが面白いことなのかと反吐が出そうになりながら、クレイドは感情に逆らって公爵に頭を下げた。
――うまく、やらなければ……。
「……よろしく、お願いいたします」
「うむ。では、これから屋敷に向かおう。次にこの街を見るとき、きっと景色が変わって見えることだろう」
ウェリックス公爵が扉の方へ身を翻した瞬間、クレイドは階段を降りてきたロディールと一瞬だけ視線を交えた。
緊迫した表情で頷き合い、無言の挨拶を交わす。揺るぎない信頼関係を確認し合い、互いの健闘を祈って――。
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