第5話 困難な要望(1)
太陽光が部屋に差し込み始めた早朝。
ベッドの上で目覚めたクレイドは、天井の一点をぼーっと見つめていた。
身体が重く感じられて起き上がることが億劫に思えた。どうにも気分が優れなかった。
――まずいな、体調を崩してしまったか……。
少なくとも熱はなさそうだと自ら判断したものの、頭痛の症状があった。それも頭が割れそうなほどのズキンズキンと響く痛みである。この痛みが引くまでは食事もとれそうになかった。
最近はしっかりと睡眠時間の確保はできていたはずなのに何故だろう、とクレイドは頭の中で自問した。
***
一階では、リェティーが二人分の朝食を準備して待っていた。だが、どれほど待ってもクレイドが二階から降りて来ないため、そろそろ不安を抱き始めていた。
階段下で右往左往しながら、やはり何かあったに違いないと思い至る。
リェティーはクレイドの部屋へ足を向かわせた。
静かに扉をノックをするが、返事はない。
扉を数センチだけ開けて、隙間から中を覗いてみる。
すると、クレイドが部屋の扉の方へ向かって歩いて来る姿が目に入った。
いつもと違うクレイドの様相に、リェティーは居ても立っても居られず、勢いよく扉を開けて駆け寄った。
「お兄さま、フラフラじゃないですか!」
リェティーはクレイドの身体を支えようと、細い腕を背にまわす。
「リェティー、心配かけてすまない。俺は大丈夫だよ、少し頭が痛いだけなんだ……」
クレイドは痛みに顔をしかめながらも、部屋から出るための歩みを止めることはなかった。
「でも、お兄さま! 休まないと!」
「ほんの少し、だけだから……」
リェティーが身を案じる言葉をかけてくれるが、クレイドは聞く耳を持たなかった。
リェティーが不服そうな顔で見上げたため、クレイドは表情を歪めながらも精一杯の笑みを見せる。
「……ごめん。心配してくれてありがとう」
リェティーの力添えを受けて部屋を出たクレイドは、一階に続く階段を降りようと片足を踏み出す。
その瞬間、急に足下がふらついた。
危うくバランスを崩しそうになり、リェティーに背後から引っ張られる。
――なにやってるんだ、俺は……。
クレイドはため息をついた。
「ダメです! やっぱり戻りましょう!」
リェティーがクレイドの身体を押し戻そうと必死になる。
「熱はなさそうだし、ただ頭痛いだけだから……」
「それでも無理しないでください! 今日は看板を出さなくていいですから!」
いよいよ、リェティーが階段を降りようとするクレイドの前に立ち塞がった。
「でも、客が来るかもしれない……。じ、じゃあ分かった。せめて午前中だけでも、看板を出させてくれないかな?」
これが精一杯の妥協であった。
リェティーが体調を崩したときは迷わず閉店するにもかかわらず、クレイドは自らの体調については気にも留めないのだ。
だが、リェティーに迷惑かけるかもしれないということを、クレイド自身、理解していないわけではなかった。
「お兄さま……。わ、分かりました。ただし、午前中だけです」
リェティーはクレイドの妥協案を受け入れると、率先して看板を出しに店の扉へと向かった。
リェティーは体調の悪いクレイドを見守るために、了承を得たうえで一階奥の部屋で待機することにした。
店舗および作業場は、奥の部屋とカーテン一枚で仕切られている。リェティーがクレイドの姿を視界に入れることはできないものの、物音や声などははっきりと聞くことができる距離だ。
そして、看板を出した数分後、客が来店した。
リェティーはカーテンの隙間から客の姿をちらりと見て、目を丸くした。
高い爵位を持つであろう貴族の男性だった。年齢は三十代から四十代と思われ、切れ長の目に、堂々とした立ち振る舞いにインパクトを受ける。
リェティーはその第一印象を見て"怖い"という感情を抱いた。
男性客はずかずかと店内に入ってくると、右手に持っていた楽器ケースをクレイドに突き付けた。「いらっしゃいませ」の一言すらも躊躇われるような、異質なオーラを纏う客だ。
クレイドは楽器ケースを受け取ると、作業机の木屑や埃などを手で払って机上に置いた。奥の部屋にはリェティーがいるため、こればかりはやむを得ない。
男性客は薄ら笑いを浮かべると、低く太い声で言葉を添えた。
「私のヴァイオリンを直していただけるだろうか。何だか"音が悪い"のだ」
「どのように悪いのか、特に気になる点はございますか?」
「いまいち、しっくりこない。響きも、音質も。これは不良品なのかね」
クレイドは楽器ケースを開けて、男性客に確認する。
「ヴァイオリンを取り出してもよろしいですか?」
「勿論だ」
「では、失礼します」
そっと楽器を手に取ると、ぐるりと本体を見回した。
ヴァイオリンの裏板は一枚板で視覚的にも申し分ないほど美しかった。全体的な作りも丁寧であり、この場で見る限り不具合は見当たらない。
これ以上は試奏して不具合を確認するほかないだろう。
「一旦、こちらのヴァイオリンを預からせていただいても宜しいでしょうか。お客様のご都合に合わせて修理と調整をしたいと思うのですが……」
「うむ。では、明日の朝までに頼もうか。ヴァイオリンは渡したぞ。明日また来る」
――明日の朝?! なんて無茶苦茶な……!
頭にズキンと強い痛みが走った。
だが、クレイドは本音と裏腹に笑みを向けた。
「了解致しました。明日、お待ちしております」
二人の会話は淡々と終わり、男性は颯爽と店を出て行った。
クレイドは椅子に座り、預かったヴァイオリン眺めた。
リェティーは心配そうにクレイドの傍に寄る。
「お兄さま、明日の朝までですよ? 体調も良くないのに、大丈夫なんですか……?」
クレイドは視線を楽器に向けた状態でリェティーに返答する。
「まぁ、お客様に言われた通りにやらなければね……。見たところ、楽器に不具合はなさそうなんだけど、何が悪いんだろう……」
「それでも、楽器を直さなきゃいけないんですよね……?」
クレイドは黙って頷いた。
昼時を迎えると、クレイドはリェティーとの約束どおり店を閉めた。
クレイドは短時間でパンを頬張ると、すぐに作業机で再びヴァイオリンと向き合い始めた。
時々試奏をしながら、楽器に不具合がないかどうか入念に確認をおこなう。
自身の体調を気に掛ける時間すらも惜しかった。
「お兄さま、今はどのような状況でしょうか?」
リェティーが控えめに尋ねた。
「うーん、それがおかしいんだよ。不具合はどこにもない。演奏しても問題は感じられない。分かるのは、ものすごく高価なヴァイオリンということだけだ」
クレイドは完全に八方塞がりだった。ただでさえ頭が痛いのに、さらに頭痛がする。
――なぜ、このヴァイオリンを自分に修理させようとしたんだ? 彼はどんな音を求めている?
「根本的に音質を変えたいのか……? となると、楽器の持つ個性を壊さなきゃいけなくなる。でも、自然な音を壊すことはヴァイオリンの修理に当たらないんじゃないか? 一体どうすることが正解なんだ?」
頭の中でぐるぐると考えていたつもりが、気が付くと独り言として声に出していた。
***
店の扉が勢いよく開いた瞬間、外から夕焼けが店内に差し込んだ。
閉店時間を過ぎても堂々と店に入ってくる、客ではない男性。
ロディールがやって来たのだ。
「お疲れ! 最近あまり来れなくて悪かったな、寂しかっただろ~? 親方から色々と仕事頼まれて立て込んでたんだよなぁ。元気にしてたか〜?」
いつものように、ずかずかと店内に入るロディール。
一方、作業場でヴァイオリンに向き合うクレイドと夕食の準備を一人で行うリェティー。
ロディールの声を聞いたリェティーは、慌てて迎え入れた。
「ロディールさん、こんばんは!」
「おぅ! こんばんは、リェティー。夕飯の支度中にごめんな。……クレイドは何してるんだ?」
クレイドはロディールの方を見向きもしない。
「はい、お兄さまは明日の朝までにヴァイオリンの修理を頼まれたんです。でも、お兄さまの体調があまり良くなくて……」
リェティーはそう答えながら、クレイドの方をちらりと見た。
「クレイドでも難しいような仕事なのか?」
「どうやら、お客様が困難な要望を突きつけてきたらしく……」
クレイドが何か反応を示したかと思うと、出てきた言葉は予想外に強い口調だった。
「リェティー。客の要望に答えられなければ、俺がいる意味はないんだよ。部外者のロディールには黙っててくれないか」
リェティーとロディールは一瞬びくっとして、二人して顔を見合わせた。
クレイドはすぐに後悔した。
――何言ってんだ、俺は。リェティーは心配してくれているというのに……。俺の馬鹿……。
「クレイド。お前どうした? リェティーにそんな言い方するなんて、珍しいじゃないか。何があった?」
ロディールが不審気に尋ねた。
クレイドは一度ヴァイオリンから手を離して、誠意を尽くそうと二人に向き直る。
だが、言葉に迷って視線が泳いでしまう。
「自分の事で苛々してたかも……。リェティー、ごめん……」
クレイドはがっくりと肩を落として謝った。
そしてリェティーの反応を待たないまま、再び黙って楽器に向き直った。
「なんだ? どうしたんだ?」
ロディールが首をひねると、リェティーが小声で説明する。
「お兄さまは、ひどい頭痛なんです。でも、今日来たお客様が、明日までの期限で修理を依頼してきて……」
「そうか……」
ロディールは身振り手振りでリェティーに二階へ行くように促した。
クレイドを一階作業場に残したまま階段を上がる。
リェティーはロディールを自分の部屋へと案内した。
この場所であれば、クレイドに話を聞かれる可能性はまずないだろう。
「それで、具体的にどんな要望だったんだ?」
「『音が悪い』と言っていました。不良品なんじゃないのか、と。お客様は貴族のようでした」
「貴族の客か。そんなに難しい修理なのか。あいつはふてぶてしい所はあるが、あの態度は普通じゃないなぁ」
ロディールは腕組みして考え込んだ。それを見て、リェティーが慌てて補足説明する。
「お兄さまによると、どこも壊れていないみたいなんです。修理する所もなく、高価で良い物らしくて」
ロディールは神妙に眉をひそめた。
「クレイドが言うなら本当にそうなんだろう。だが妙だな。その客、何がしたかったんだ? 俺もその楽器を見せてもらおうかな」
「で、でも……」
「大丈夫。あいつは怒ってる訳じゃないから。むしろ落ち込んでるだろうな。自分から人に助けを求めるような奴じゃないからね。親身になってくれたリェティーを傷付けたんじゃないだろうか、って今ごろショックを受けてるさ」
ロディールは困ったように小さく笑うと、リェティーに肩を竦めてみせた。
リェティーとロディールが物音を立てないようにゆっくりと階段を降りた。
リェティーがそっとクレイドの様子を窺う。
そこには、俯きがちにヴァイオリンに向き合うクレイドの姿があった。
ロディールは何事もなかったかのように、クレイドに陽気に声をかけた。
「クレイド、俺にそのヴァイオリンを見せてくれないか?」
我に返ったように振り向くと、ロディールとリェティーが並んで立っていた。
「か、構わないけど丁重に扱ってくれよ。客は貴族、とても価値の高いヴァイオリンなんだ」
「おう、分かった。あと少し試奏してもいいか?」
「あぁ」
「んじゃ、お前の部屋に入らせてもらうな」
ロディールは楽器をケースごと受け取ると、一人で二階に上がった。
この場に残されたのはクレイドとリェティーだけになった。
「お、お兄さま……」
リェティーが恐る恐る口を開いた。
しかし、それを遮るようにクレイドが口を挟む。
「さっきはごめん、リェティー。心配してくれてありがとう、本当にすまなかった」
クレイドは椅子から立ち上がると、リェティーの頭にポンポンと優しく手を置いた。
「お兄さま……!」
リェティーは頬を赤く染めながら、クレイドを見上げてにっこりと笑う。
「そうだ、夕食の準備もありがとうね。楽器もロディールに渡したことだし、先に一緒に食べてようか」
笑顔から一転、リェティーが真顔になる。
「ロディールさんは宜しいのですか?」
「あー……」
「皆で一緒に食べましょう!」
夕食の席で、ロディールはヴァイオリンを試奏した感触について話していた。
「あの楽器、確かに壊れていなかった。音も最高だったよ。それで修理しろって言うなら、お前が思うように調整してみたらどうだ? それで文句は言えないだろうよ」
「……うん。そうだな。とりあえず、やってはみる」
そうは言うものの、クレイドは表情を曇らせたままで、声にも覇気がなかった。
それもそのはず、修理はまだ一切手付かずの状態なのだ。
「……それで、頭痛は大丈夫なのか?」
「あ、まぁ。朝から見たらだいぶ良くなったかな。心配かけて悪かったな」
クレイドはリェティーが作った野菜のスープを一口飲んだ。
すると、一瞬で覚醒したかのように目をパチリと開けた。
「リェティー、これすごく美味しいよ。ありがとう」
どれどれ、と続けてロディールもスープを飲む。リェティーは緊張した面持ちでその様子を見ていた。
「いや、本当に美味しいぞ。男の飯を食うよりいい!」
わざと真面目な表情を見せるロディールに、クレイドがしかめっ面で跳ね返した。
「おい。今度からご馳走してやらないからな」
ロディールは心の底から動揺し、顔色がざっと青ざめた。
「そ、それは困る……! やっぱり、クレイド君の料理は世界一……!」
それはそれでどうなんだ、とクレイドは呆れた眼差しでロディールを見た。
***
その夜、ランタンの明かりが灯る作業机上で、クレイドはヴァイオリンに調整を施していた。
リェティーは申し訳なさそうな表情で、一人先に部屋へと戻った。
一方のロディールは明日の仕事が休みとのことで、奥の部屋でクレイドの作業が終わるまで待っていた。
時々うつらうつらとしながらも、物音がするたび慌てたように目を覚ます。
クレイドの仕事が終わるまでは起きていよう、そんな生粋の兄心から、ロディールは自らの睡眠欲を律していたのである。
クレイドは一段落ついた頃、体力と気力を共に使い果たして作業机に伏して眠っていた。
ロディールはその姿を見て、右手にランタンを提げてゆっくりとクレイドの部屋へ向かった。
物音を立てないように扉を開けて、部屋の中をぐるりと照らす。
ロディールは掛け物を見つけて手に取ると、すぐに一階へと戻った。
「……風邪ひくなよ」
そう一言呟いて、クレイドの背中をふんわりと掛け物で覆った。
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