第6話 真相(2)

 エリスの視線を感じる中で、クレイドは緊張感を携えながら調弦を行っていた。

 弦を一本ずつ指ではじきながら、耳で聞いて寸分の狂いもなく音を合わせていく。


 ふと、弓の毛の部分を上から下に眺めたとき、松脂まつやにが白く固まっていることに気がついた。

 松脂は弦と弓の間に摩擦を起こすためのものであり、これが機能していなければ弾きづらいはずなのだ。

 クレイドは小さく唸った。

「そろそろ弓の毛も換えたいのですが、あいにく代わりのものを持ち合わせていなくて……」


「だ、大丈夫。今度はスベーニュのお店に行って交換してもらうから」

 エリスが発した言葉を聞いて、クレイドは「え?」と不意に声を漏らした。


 反射的に、クレイドは妹ではなく女性の顔を見た。

「……何か話したのですか?」

 女性は、ゆっくりと首を横に振った。

「まさか。最初からこの子は気がついていたようです」

 クレイドは目を丸くした。

 昨日のエリスの様子を見た限りでは、全くそうは思わなかったのだ。


 ――本当に、俺が兄だということに気がついていたのか……?


 クレイドはゴホンと空咳をして、動揺を悟られないよう、無理やり自分の中の職人モードを呼び起こした。


「調弦、終わりました」


 エリスが女性の背後からひょいと出てくると、長い髪を揺らしながら、照れた笑顔で楽器を受け取った。

「……あ、ありがとうございます」

 楽器の感触を手のひらや指で確かめる妹の姿を、クレイドは穏やかに見守っていた。


 ――エリス、ほんの少しの間だけでも話せて良かったよ。


「では、これで――」


 クレイドがそう切り出したとき。

 エリスが調弦を終えたばかりの楽器を女性に預けて、ベンチに座るクレイドの前にどんと立ち塞がった。


「……これ」


 エリスが差し出した右手の中に、2枚の金貨があった。

 クレイドは目をしばたたかせた。どう反応すればよいのか、正解が分からなかった。


 エリスは照れたような笑顔を見せた。

「これは、調弦代。ちゃんとした、支払い。理由があれば、お兄ちゃんも受け取るでしょ?」


 不意をつかれて、兄クレイドは表情を強張らせた。

 父ルージェンから受け継がれたクレイドの性格は、エリスも染み付いたように理解していたのである。


「このお金は、私のお小遣い。客が対価として支払うなら、お兄ちゃんも断らないと思って」


 クレイドはぎゅっと胸が締め付けられる思いに、表情を歪ませた。エリスの顔をまともに見ることができそうになかった。


「……これは、自分のために使わないと」


 エリスはクレイドの右手を掴むと、金貨を握らせようとした。

 クレイドはそれを返そうとするが、エリスもまた両手を隠すように後ろに回す。


「これは調弦代。お兄ちゃん、私が手紙を送ったから、ここまで来てくれたんだよね?」

 妹はそこまで察していたのか、とクレイドは不甲斐ない思いに顔を俯かせた。

「勝手なことして、ごめん……」

 真っ先に謝罪の言葉が出てくる。

「ううん、ありがとう。私、本当はこっちに来てすぐ手紙を書いていたの。でも、その後すぐお父さんが亡くなって……」

「そうか……」

 クレイドは手紙が入った鞄にそっと手を乗せた。

 少しだけ顔を上げて、エリスの顔をちらりと見る。

「私ね、お兄ちゃんに会う勇気がなかったの。お兄ちゃんに嫌われてたらどうしようって思って……」


 エリスの口から、クレイドの予想もしていない言葉が吐き出された。手紙では伝えきれない、内に秘めていた言葉。


 クレイドは穏やかに問いかけた。

「どうして、俺がエリスを嫌うと思ったの?」

 エリスは唇をギュッと結ぶと、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「だ、だって、私がお兄ちゃんを置いて家を出て行っちゃったから……」


 その言葉がクレイドの胸に矢の如く突き刺さった。息もできないほどに、ただ苦しくて、苦しかった。

 違うよ――と言いたかった。

 父が亡くなる前、楽器店を継ぐことに決めたのは自分の意思だった。そのせいで、エリスと離別することになったのだから。


 エリスは涙を拭いながら、言葉を紡ぎ出していく。

「私が手紙をすぐに書けなかったのは、目の病気があったからなの。お父さんのお葬式の時も本当はそうだった。だんだん見えなくなってきてて……」


 クレイドは小さく息を飲んだ。

 見た目はまだそれほど分からないが、昨日の違和感の原因に納得した。


「お兄ちゃんの顔もはっきり見えないけど、手の場所とかは分かるんだよ? 字を書くのは途中から難しくなったから、付き添いのニールさんに手伝ってもらったけど。途中まで自分の字で書いた手紙を、どうしてもお兄ちゃんに届けたかったの……」


 クレイドは己の至らなさに強いショックを受けて、身体を小さく震わせた。


「……ご、ごめん。俺がすべて悪かったんだ。俺はエリスのこと大好きだし、ずっと会いたいと思っていた。……でも、エリスは苦しんでいたのに、俺は何も知らなくて。何もできない兄で、本当に申し訳ない……」


 クレイドが熱を帯びた両眼を手で覆おうとした瞬間、エリスが正面から飛びついた。


「謝らないで。お兄ちゃんのおかげでこうやって話せたから、嬉しい。嫌いじゃなくて……良かった。また、スベーニュのお店に行っても、いい?」

 エリスの声は柔らかな日差しのように穏やかだった。

 クレイドは今にも感情が溢れ出しそうになりながら、天を仰いだ。

「……当たり前じゃないか」

 エリスの安心した声が、すぐ耳元で聞こえてきた。

「良かったあ。私、ハープも始めたの。目が見えなくなっても、それまでに一人立ちできるようになるつもりだから。安心して」

「……一人じゃない。離れていても、俺がいるんだから」

「うん」

「……どうして、昨日は俺に気がついたの?」

 エリスは「ふふふ」と小さく笑った。

「演奏を聴いたらすぐ分かるよ。お兄ちゃんの音には絶対に気がつく自信があるから。……たとえ、いつの日か、私の見える世界に色がなくなったとしても――」


 許容量を超えた感情がクレイドの頬を静かに伝った。


 ――そんな寂しいこと、言わないでくれよ……。



 クレイドは自分と同じ色の髪をそっと撫でると、ベンチから立ち上がり、その小さな身体を温めるように深く包み込んだ。


「……状況が安定したら、また一緒に暮らそう。もう苦労はさせないから」

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