第4話 不穏
人気のない街中をゆっくりと歩いていると、前方から人の声が聞こえてきた。
「――こんなことになるとは、思いもしなかったよ。あなたが嘘さえつかなければ、誰も犠牲になることなどなかったのに……」
ランタンの明かりが暗闇の中で不自然に揺らめきながら、男性の声とともに近づいてくる。
「――こんなに悲しく、腹が立ったのは何年ぶりだろう。これで私は約束を果たすことができなくなってしまったではないか」
クレイドにとっては聞きたくもない、嫌いな声だった。
「約束だなんて、あんたがよく言えるね。……私の命であの子らが救われるなら、随分と安いものさ」
その声が聞こえた瞬間、クレイドは足を止めた。
聞き間違いであってほしいが、おそらく間違いない。この声はミセス・ヴェルセーノだ。
レオンスはクレイドをちらりと横目で見ると、肩を軽く叩いた。
「これは何だか良くない状況かもねえ。やっぱり予定どおりでいこう」
クレイドは黙って頷いた。
この件については、アルディスの叔父に乗せてもらった船内で、既に事前の打ち合わせまで済んでいる。危険な状況下で身を守るための方法を、レオンスが発案したのだ。
ただ正直なところ、この手法にはクレイドはかなりの苦手意識があった。ただ不思議なこともあるようで、今回は傍にレオンスがいる――それが唯一、彼の奇抜な発案を許諾する理由となり得たのである。
クレイドは暗闇に染まる黒い布で、頭を深く覆っていた。これならば簡単に相手方に顔を見られることはないだろう。
足音が近づいて、左隅の視界に彼らの足元が映った。
おそらくウェリックス公爵を先頭にして、二人の騎士がミセス・ヴェルセーノを間に挟んで隊列を組んでいるのだろう。
歩きづらそうなミセス・ヴェルセーノの足元を見ると、彼女は両手を縛られているのかもしれない。
クレイドは自分の身体が小刻みに震え出したのを感じた。
「そこの者たち、こんな日暮れに何をしている?」
突然の声に、クレイドはビクッと肩を跳ね上がらせた。
単なる夜間巡回としての声かけなのか、一人の騎士が隊列をはずれて近づいてくる。
クレイドがわずかに後方に下がると、レオンスは前に堂々と立って会釈した。
「これはこれは、夜分遅くまでお疲れ様でございます。私たちは帰宅途中でして。幼い子が眠ってしまったので、先を急いでいたところです」
レオンスの声に合わせて、クレイドが布に包んだヴァイオリンを赤子に見立てて揺さぶった。すべての感情を押し殺して、精一杯の演技をする。
それでも騎士は当然のように疑いをかけてくる。
「なぜこのような時間に子供を連れ回しているのだ?」
騎士はいかにもレオンスの装いを怪しんでいた。それもそのはずで、彼は左目を細長く切った布で完全に覆っているのだ。おかげで頭の半分も布でグルグル巻かれた状態である。
レオンスは控えめに苦笑すると、フードを深く被ったクレイドにちらりと視線を向けた。
「……ここだけの話ですが、彼女は元夫から逃げているため、あまり人目に付きたくないのです。それゆえに、この時間に行動した次第です」
騎士はレオンスの顔近くにランタンを寄せると、その顔をまじまじと見ようとする。
「おっと……」
あまりの眩しさに、レオンスは顔を手のひらで遮った。
「……まあいい、わかった。念のために聞いておくが、お前は何者で、何の仕事をしている?」
「職業は詩人でございます。私は彼女を助けるため、新天地となりうる我が家に連れていく途中でして。……ああそれと。私は怪我を負って片目を覆わねばならないゆえ、顔は見苦しいでしょうが、どうかお許しを」
レオンスはその場で深々と頭を下げた。演技とはいえ、どこか掴みどころがないその姿に、クレイドは予想以上にレオンスらしさを感じていた。
「……まあいい。礼節をわきまえているようだからな。一般人なら、夜警に咎められる前に家路につくようにしろ」
レオンスは顔を上げると控えめに笑った。
「ええ、ありがとうございます。……ちなみに、そちらの状況、どうやらただ事ではないようですな?」
騎士は返答に迷ったのか、ウェリックス公爵が立つ方向を見た。
公爵は冷めた視線を騎士へ返す。
「まだ一般人に話すようなことではない。全ては明日分かることだ」
その言葉にクレイドは一瞬だけ身体を震わせた。ここで動揺してはいけないことは分かっている。それでも、いざこの状況を目の当たりにすると、恐怖が勝ってしまうのだ。
――明日、何かが起こるのか?
騎士が形式的にこちらに一礼すると、隊列へと戻っていった。
「……本当にやるつもりかい? あんたは後悔しないのかい?」
再び歩き始めた隊列から、ミセス・ヴェルセーノの声が聞こえた。
「娘を匿っていたこと、私はそれを知って悲しかったのだ。これ以上、姉上を嘘つきの罪人にさせたくはない。ならば、私が手を下すしかない。刑罰は明日告知する」
「あの子らに手を出したら許さないよ」
「それは別の話だろう。その約束はあなたの嘘によって破綻したはずだ」
「ふん、よく言うよ。私が死んだら化けて出てやるさ」
クレイドは布に包んだヴァイオリンを両腕に抱えたまま、その場で立ちすくんでいた。
最悪の事態が起きたのだ。
――リェティーが見つかった……?
連れ去られようとしているミセス・ヴェルセーノを、今すぐにでも助け出したい。その想いは人一倍あるはずなのに、今はただ黙って見ているしかなかった。
隊列の声が聞こえなくなると、レオンスは左目を覆った変装用の布を軽く捲り上げた。同時に、クレイドを覆う黒いフードに手をかざし、それもわずかに捲り上げる。
クレイドはレオンスの顔をまともに見ることさえできなかった。
「ここは少しの辛抱だよ。今はどうやら不利な状況らしいけど、何とか作戦を考えよう」
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