第3話 準備
その後、リェティーは慌ただしく荷物の整理を始めた。もとより、ほぼ身一つでこの家にやって来たこともあって、リェティーの荷物は少ない。そうはいっても、少しずつ買いそろえた衣類や小物があるため、これらは日用品としてリェティーが持っていく必要があった。
「お兄さま。私がお邪魔させていただく家のおばさまは、どんな方なのですか?」
クレイドはミセス・ヴェルセーノの姿を想像した。
――大柄で短髪、女性にしては声域が低い? 性格だけでなく容姿にも頼もしさがある? 笑い方が豪快?
クレイドは一人で勝手に想像しながら、眉間にしわを寄せた。彼女のことを詳しく説明するのは、なかなか難しいように思う。
「ひと言でいうと、明るいおばさんかな? 人情もあるし優しいし、話しやすいんじゃないかな」
これは我ながら妥当な説明だ、とクレイドは思った。リェティーは興味津々に食いついた。
「そうなんですか! お兄さまの昔からのお知り合いだと思うと、なんだか楽しみになります!」
クレイドはリェティーの表情から、その気持ちが嘘ではないのだろうと感じ取った。
「そんなに期待されると、こっちも緊張するね」
「ふふ。お兄さまとは、どういう関係なんですか?」
「俺の父の知人だったんだよ。俺も小さい頃はよく面倒を見てもらってたんだ。ある意味、もう一人の親みたいな人かなぁ?」
考えれば考えるほど、ミセス・ヴェルセーノのにこやかな笑顔がクレイドの脳裏に浮かんだ。失礼ながら、やや顔をしかめてしまった。
しかし、リェティーの瞳は輝きを増すばかりだった。
「あぁ、そうだ。そういえば、俺がいつも買ってるパスタだけど、あれはミセス・ヴェルセーノの店で売ってるものなんだよ」
「そ、そういうことだったのですか! わぁすごい!」
リェティーが感嘆したかと思うと、突然、はっと動きを一時停止した。
「……そ、そういえば、ヴァイオリンを持って行ってはいけないでしょうか?」
まるで悪いことをして謝るときのような、申し訳なさそうな表情だった。
確かに楽器を持っていきたいよな、とクレイドは内心で理解していた。この場所を離れると分かれば、いつも使っているヴァイオリンを持って行きたいと思うのは当然のことである。
しかし、簡単に頷くことはできなかった。普段からほとんど楽器を演奏しないミセス・ヴェルセーノの家から、突然ヴァイオリンの音が聞こえたとなれば、周囲の住人が違和感を覚えるだろう。不要なリスクは極力避けたい。
この頼みを断れば、きっとリェティーに悲しい思いをさせることになる。クレイドは気が重くなりそうだったが、これは正直に断るべきことなのだと自身に言い聞かせた。
「あ、あのさ。ミセス・ヴェルセーノは楽器をほとんど弾くことがないんだ。だから、ヴァイオリンの音が家から聞こえてしまったら、きっと良くないと思うんだ……」
「弾かなくてもダメですか……? 持って行くだけです。楽器を近くに置いておきたいんです……!」
リェティーはクレイドを見上げて、左腕をぐいと引っ張りながら必死に訴えた。
その姿を見て、クレイドは不意に実の妹の幻影を重ねた。
――8年前、楽団員として初めての演奏会当日のこと。
外にロディールを待たせて、クレイドはヴァイオリンを持って外出する直前だった。
「エリスも、いく!」
クレイドの片袖を引っ張りながら、一向に泣きやむことのない小さな妹エリス。
「行けないよ。今日は大事な日だから、遅れたら困るんだ」
クレイドはそう言いながらも、妹の腕を振りほどくことはできなかった。
「はやく、かえる?」
「演奏会だから、少しだけ遅くなるかも……」
「おそいのいや!」
クレイドの父ルージェンが、泣きわめくエリスを後ろから抱き上げた。
「エリスは一緒には行けないな。だから、父さんと一緒にお兄ちゃんの演奏を聴きに行こう」
クレイドは驚いたようにルージェンを見上げた。このとき、父親は仕事で来ることができないものだと勝手に思っていた。
「お友達を待たせているんだろう? さあ、行っておいで」
ルージェンの優しい笑みがクレイドの記憶に残っていた――
クレイドは懐かしさを感じて、どこか温かい気持ちになった。
「リェティー。しばらくは演奏できないかもしれないけど、それでもいいかい? 近くにあったら弾きたくならない……?」
リェティーは何度も大きく頷いた。
「はい、弾けなくても手入れはできますから! 近くに楽器があるだけで嬉しいんです!」
この率直な言葉が、楽器の製作者であるクレイドの心を揺さぶった。嬉しさを隠すことができず、顔を綻ばせた。
「あぁ、分かったよ。よろしく頼むね」
リェティーは、ぱあっと頬を紅潮させた。
「あ、あ、ありがとうございます! お兄さま大好きです!」
喜びのあまり涙を滲ませた笑顔で、正面からクレイドにぎゅっと全体重をかけて抱きついた。
――?!
クレイドは驚きのあまりに足元がよろめき、そのまま押し倒されるように床へ尻もちをついた。
「いっ……!」
クレイドはその衝撃に声を漏らし、腰をさすった。リェティーは慌ててクレイドから離れると、顔面蒼白になりながら、横にちょこんと座り込む。
「お、お兄さま、すみませんでした……! 大丈夫ですか……?!」
クレイドは痛みを堪えながら、少し照れたように笑った。
「お兄さま……?」
きょとんとした表情で、リェティーが何度もまばたきをする。
クレイドは、こんな日常がいつまでも続けばいいのに、と心から願わずにはいられなかった。
「……リェティー、ありがとうね」
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