第4話<上>
教室に槙坂涼が入ってくるとすぐにわかる。その瞬間、空気が変わるからだ。
皆、今か今かと彼女の登場を待ちわび、彼女が現れると友達同士で何ごとかを囁き合う。「やっぱり槙坂先輩、いいなぁ」「今日もきれいだ」などなど。実際、大人っぽい整った容姿で、長い艶やかな黒髪を揺らす彼女は、注目を浴びるのに相応しい生徒だと言える。
今日も当然そんな教室内は感じで、僕は槙坂涼と、そして、彼女を見た生徒たちの反応を見て楽しむ。
大教室だとたいてい彼女は、前から四分の一くらいの列の、ホワイトボード正面から左右どちらかに少しずれた位置に座る。そのあたりが彼女にとって授業を受けやすい座標なのだろう。
そのはずなのだが。
今日は入ってくるなり僕を見つけると、一緒にきた友達と別れ、こちらに歩み寄ってきた。こっちくんなと思った僕の願いも虚しく、彼女は階段状になった席の通路側に座る僕の横に立った。
「こんにちは、藤間くん」
「どーも」
「隣、空いてる?」
「……」
空いていることは空いている。だが、それは友達とお互いのパーソナルスペースを侵害しないためにひとつ空けているのであって、本来の意味での空席ではない。そして、教室が混んでくれば、そこも詰めて座ることになる。
「もちろんです」
「どーぞどーぞ。こんなところですが」
どうやって追い返そうかと思っていたら、友人たちが勝手に返事をしてしまった。特に槙坂先輩が横に座ることになる我が友人、浮田は全力でウェルカムだ。
「そう。よかったわ」
彼女は僕の後ろを通り、隣の席に腰を下ろした。
……近い。
先日、向かい合って昼食を食べたが、それ以上だ。肩と肩、肘と肘が当たりそうだ。大教室の構造的欠陥だな。今度、学校に要望を出しておこう。
「高くていい眺め。でもホワイトボードが遠いわ」
「ああ、見えないなら前へ行ったほうがいい。ぜひそうするべきだ」
「大丈夫よ。目はいいほうだもの」
思わず舌打ちしそうになった。
「ところで、今日は何を読んでるの?」
彼女の興味が、今度は僕が読んでいる本へと向かう。
「ディクスン・カー、『帽子収集狂事件』」
「乱歩が選んだ海外ミステリ10作のうちのひとつね」
知っていたのか。意外に雑学持ちだな。
「槙坂先輩はあの作品の中でどれがいいと思う?」
「そうね。『ナインテイラーズ』かしら。ドロシー・L・セイヤーズの」
「いちばん新しい作品だな。僕は逆に最も古い、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』だ」
単純なのに盲点を見事についた、あの人間消失トリックには感動したものだ。百年以上たった今でも、あのトリックを超えるものはないだろう。
「というわけで――残念。僕らは相性が悪いようだ。……どうぞお引き取りを」
直後、槙坂先輩がすっと立ち上がった。
まさかこれで本当に引き下がるつもりなのか――ちょっと驚いて彼女を見上げると、ずいっと斜め上方から顔を寄せてきた。鼻と鼻がつきそうなくらいの至近距離。
「そうね。今日はここまでにしておきましょ。面白いことはゆっくり楽しまないともったいないわ。……またね」
そう僕にだけ聞こえるボリュームで言い――微笑む。
それから彼女は持ってきたテキスト類をまとめ、友達のところへと戻っていった。
「やれやれ……ぐえっ」
「お前お前お前ーっ。なんで追い返してんだよっ!?」
浮田だった。血の涙を流しながら首を絞められても困る。こっちだって都合があるんだ。
「いいよなぁ、お前。あんな間近で槙坂先輩に笑いかけられて」
「……」
バカめ。あれはファウストに契約を迫るメフィストの笑顔だ。
§§§
授業が終わり、教室移動。
明慧学院大学附属高校には四つの講義棟があり、その講義棟と講義棟をつなぐ道を歩いているときだった。
「真ってば真ってば真ってば」
後ろからきたやつに腕を絡め取られ、そのまま道を外れて芝生のほうへと引っ張り込まれた。
見れば僕の腕を取ったのは、ショートの髪をヘアピンで止め、おでこも広く露になった小柄な小動物系の少女――、
「なんだ、こえだか」
名前を
僕は一緒にいた友達から離され、こえだと芝生を歩く。
「見てたよ見てたよ」
「何をさ?」
「あの槙坂さんと仲よさそうじゃない」
やっぱりそのことか。
「そう言えばさっきの授業、こえだも一緒だったな」
「覚えとけよぉ」
頬を膨らませながら、僕のふくらはぎのあたりにローキック。わりと痛い。
もちろん、どの授業に誰が一緒か覚えているが、彼女のこういう反応が見たくて、ついついからかってしまうのだ。
「で、どうしたの?」
「別に。たいしたことじゃないさ」
わざわざ言うことでもないのだが。
「実は槙坂先輩に言い寄られてるって言ったら信じるか?」
「信じるわけないじゃーん」
「ま、普通はそうだな」
そのまましばらく黙って芝生を踏みしめ、歩を進める。
「えっと……」
と、やがてこえだがただならぬ空気を感じ取ったのか、おそるおそる口を開いた。
「……マジ?」
「本気かどうかは本人に聞いてくれ」
「ええーっ」
盛大に声を上げるこえだ。
「大きな声出すなよ。うるさいやつだな」
「……う。ごめん……」
周囲の視線がこちらに集まり、こえだはしゅんとなる。基本的には見た目通りに小動物なのだ。
「もしかして、美沙希さんがらみ?」
「部分的には噛んでると思う」
こえだの口から出た美沙希さん――
「でも、基本的にはこれは僕と槙坂先輩の話だ」
「なぁんだ。美沙希さんがけしかけたのかと思った」
「あの人はこんな遊び方はしないよ」
ていうか、美沙希先輩はこういうのはもう卒業している。
「で、どうするの?」
と、こえだ。
「何が?」
「だーかーら。槙坂さんから熱烈なアプローチを受けてるんでしょ? 真はどうするのってこと」
「ああ、そういうことか。決まってるさ。きっぱりお断りだ」
僕が好きなのは騒ぎの中心にいることではなくて、騒ぎを端から見ることだから――ともつけ加える。
「うわ。こんな大事なこと、そんな基準で決めちゃう? なんかちがくない? それにさ、あの槙坂さんと関わってる時点で、もう渦中の人だと思うけどなぁ」
「……」
おそろしい話だ。
「おっと。あたし、こっちだから。……じゃあね、真」
「ああ」
片手を上げて応じてやるが、すでに走り出していたこえだは、こちらを振り返りもしなかった。
「やれやれ」
僕は深いため息を吐く。こえだの騒々しさと、彼女の指摘に。
渦中の人、ね。
面倒な話だ。
§§§
そうしてまた別の日、彼女はやってきた。
「隣、座っていい?」
「僕はふたつも占拠するつもりはないさ。そこは誰の席でもないから、好きに座るといい」
無礼にも本から顔も上げずに答えたのだが、槙坂先輩は気にした様子もなく隣の席に座った。
「今日は何を読んでるの?」
「夢野久作『ドグラ・マグラ』」
果たして、これで読むのは何度目だろうか。
「日本が誇るアンチ・ミステリね」
よく知っている。一度彼女と真面目にこの手の議論をしてみたいものだ。なかなか面白いものになりそうな気がする。
「こういうものがミステリの本場イギリスではなく、日本やイタリアで発生したのは興味深いところだ。……ところで槙坂先輩は、アンチ・ミステリを数えるときは三大? それとも四大?」
「そうね。わたしは四大とするべきだと思うわ」
「僕は『三大奇書』だ。竹本健治の『匣の中の失楽』は、あくまで中井英夫の『虚無への供物』のオマージュさ。……というわけで、やっぱり僕らは相性が悪いようだ。どうぞ、お帰りはあちら」
僕がそう言うと、槙坂先輩はすっと立ち上がった。
「仕方ないわね。またくるわ」
ひとこと言い残し、席を離れる。
本日も素直に帰ってくれた。
もちろん、この後、僕は周りに座る友人たちにボロカスに文句を言われたが。
さて、その授業があと十分ほどで終わって、そして、終われば待ちに待った昼休み――というとき。
スラックスのポケットの中でスマホが振動し、着信を伝えてきた。メールだ。机の下でディスプレィを見る。
槙坂涼。
そう言えば、まだアドレス帳に残っていたんだったな。
メールを開封する。
『この後、お昼一緒に食べない?』
どうしたものかと悩んでいると、さらにもう一通送られてきた。
『授業が終わるまでに考えておくこと』
猶予は十分弱。
僕はこのとき初めて、授業が長引けばいいのにと思った。
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