おまけのショートストーリィ

その1 バレンタインSS

 2月14日はバレンタインディ。

 そんなことは誰だって知っている。日本全国共通だ。


 とは言え、後期試験を目の前にした高校生には、本来関係のない話である。


「藤間ー。バレンタインだぜっ」

「……」


 こんなところにバカが野に放たれていた――と思ったら浮田のやつだった。


 午前最後の授業の終了後.


 講義棟を出て2月の寒空の下、学食を目指していた僕に、後ろから追いついてきた浮田がハイテンションで声をかけてきた。どうやら近くの教室で授業を受けていたらしい。よりよい人間関係を保つため知り合い何人かの時間割りは把握しているが、こいつは対象外商品だ。


「試験前のこの時期にバレンタインとは余裕だな。好きにすればいいけど、もらう予定はあるのか?」

「ない!」


 力いっぱい答える浮田。どうしてそれで浮かれられるのだろうな。


「でも、まぁ、もらえないとしても、男にとっちゃ一大イベントなわけじゃん?」

「そうか?」

「どいつが何個もらうかとか、どの女の子が誰にあげるかとか」


 それだけ自分を蚊帳の外に置きながら今日という日を楽しめるそのポジティブさには感心する。


「中でも一番の注目は槙坂さんなんだけどなぁ」


 確かに槙坂涼の本日の動向は注目に値する。だが、浮田はそれを残念そうに言い、そういう言い方になるのには理由があった。


「でも、卒業したね」

「そうなんだよなぁ」


 わざとらしく項垂れて落胆のポーズを見せる浮田。


 そうなのだ。3年生は1月早々別メニューでの後期試験を終え、先日の卒業式をもってこの明慧学院大学附属高校を巣立っていった。槙坂涼はもうこの学校にはいない。


「槙坂さんのいない高校生活なんてっ」

「どうした? 意義を見出せなくなって自主退学か? 僕は止めないし、むしろ迷ってるなら背中を押してやろう」

「お前ね……」


 と、横目で何か言いたげな視線を向けてくる浮田に、僕は肩をすくめてみせる。


――さて、バレンタインか。


 せっかくの年に一度のイベントだ。それなりに楽しまないと損だという思いはある。が、この場にいない人間のことを言っても仕方がない。


 僕は周りを見回した。記憶が正しければこの学食へ向かう流れの中にいるはずなのだが。――いた。


「悪い。知り合いに声かけてくる。先に行っててくれ」


 浮田に断り、その小さな背中を目指す。


「こえだ」


 僕の声に彼女――三枝小枝が振り返った。


「あ、真だ。やっほー」


 こえだは無邪気に応え、先ほどの僕がしたように一緒に歩いていた友人を先に行かせた。

 待ってくれていた彼女に追いつき、並んで歩き出す。


「どしたの?」

「ああ。お前、何か忘れてるんじゃないかと思ってさ」

「何かって?」


 隣でこえだが首を傾げた。


「おいおい、そんなので大丈夫か? お前だっていちおう女だろうに」

「いちおーとか言うなっ。れっきとした女だもん!」


 そうしてむきになりながら、持っていたルーズリーフのバインダを僕の脇腹へと突き込んでくる。期待通りの反応だ。


「痛いだろ。……今日はバレンタインだぞ。ないのか、僕にチョコは?」

「あたしが? 真に? なんで?」


 いちいち区切って聞き返すなよ。時々むかつくやつだな。


 でも――と、こえだは言葉を継ぐ。


「いちおー義理も義理、超義理のやつを考えたんだけどさ、どーせ涼さんからもらうんだろうなって思ったらバカらしくなっちゃった」

「僕が槙坂先輩から? そんな予定はないけど?」

「いや、そういうのって普通、予定とか決めなくない?」


 それもそうか。


「会ってはいるんでしょ?」

「まぁね」


 槙坂先輩は去年のうちに受験勉強から解放されていた上、卒業までしていよいよ自由の身。おかげで好き勝手に遊びにきたり呼びつけたりしてくれるのだ。こっちが翌日学校でもおかまいなしに朝までいるのだから冗談じゃない。起きたら朝食ができているのだけは助かるが。


「とは言え、あの人はここにいないし、会う約束もないんじゃしようがないさ」


 と、僕がそう言った直後だった。


 


「おい、槙坂さんがきてるらしいぞ」

「うお、マジ?」


 


 そんなやり取りが耳に飛び込んできて、男子生徒ふたり組が早足で僕らを追い越していった。見れば他にも急ぎ足の生徒がちらほら。


 僕とこえだは思わず立ち止まり、顔を見合った。


「ほら」

「何がだよ」


 再び歩を進める。先ほどよりもやや早足。


 やがて見えてきた学務棟正面の学生掲示板の前に、小さな人だかりができていた。僕が知る限りこんな状況を作れるのはひとりしかいない。案の定、人垣の隙間からよく見知った顔――槙坂涼の大人っぽい顔が見えた。


 囲んでいるのは1、2年生の女子生徒で、そのさらに外側に彼女の姿をひと目見ようと男子生徒が集まってきているようだ。槙坂涼の人気は未だ衰えず、といったところか。


「もう大学は決まったんですよね? おめでとうございます!」

「ありがとう。次はあなたたちよ? がんばってね」


 祝辞に礼を言い、後輩たちへの応援も忘れない。


「今日は何しにこられたんですか?」

「職員室と学生課にね。事務的な用事」


 好奇心旺盛な質問にも笑顔で答える。


 常にやわらかい物腰を崩さない、大人の余裕を備えた上級生。これだから彼女は慕われ、憧れられるのだろう。


 ――彼女が僕を見つけた。


 が、同時、僕は逃げるように背を向け、その場を離れる。


「ちょ、ちょっと真! 真ってば! 声かけなくていいの!?」

「いいんじゃないか。何か用があるらしいしさ」


 こえだの声に背中越しに答え、僕はそのまま学食へ向かった。




                  §§§




 先ほど別れた浮田や、他2名の友人と合流し、昼食をとる。


 それが終わりかけたころ、テキストチャットが飛び込んできた。相手は槙坂涼。


 


『どうして無視するの?』


 


 そんな短文。


「……」


 別に無視はしていないつもりだけどな。用があるらしいから声をかけなかっただけで。


 心の中でそう反論していると、さらに続けてメッセージが。


 


『今お昼よね? 終わったらでいいから掲示板にきて。待ってるから』


 


 僕はため息をひとつ吐き、端末を閉じた。


「悪い、用事ができた。先にいってる」


 断り、席を立つ。


「まだ残ってるぞ」

「いいんだよ。健康のためには腹八分目さ」


 今まで思ったこともないことを口にして、トレイを持って食器返却口へと向かった。


 たぶんメッセージの内容からして、すでに掲示板前で待っているのだろうが――すぐに行くのも癪だな。僕は一度ロッカーに寄って、次の授業の準備をしてからその場所へ行った。


 槙坂涼はさっきほどではないが、相変わらず数人の後輩に囲まれていた。卒業したはずの彼女が姿を現したのだからこの状況も無理からぬことだが、人を呼んでおいてそれはないだろうと思わなくもない。


 と、


「藤間くん!」


 再び僕の姿を認めた槙坂先輩は、今度は迷うことなく僕の名を呼んだ。相手をしていた後輩たちに謝りながら輪を抜け、こちらに駆け寄ってくる。


 ここにきて初めてわかったが、彼女は卒業したというのに制服を着ていた。ただし、羽織っているコートは学校指定のものではなく自前のもの。シックな黒のコートだ。外で会うときにたまに着ているが、こうして見ると制服にもよく合うようだ。


「さっきはひどいわ。無視していってしまうなんて」


 僕のところまできた彼女は、開口一番そう言う。少しだけ怒っているようだ。


「忙しそうに見えたものでね。ていうか、何か用でも? 見ての通り僕はこれから授業なんだ」

「わかったわ。じゃあ、歩きながら話しましょ」


 彼女のその言葉をきっかけに、僕らは足を踏み出した。次の授業は確か講義棟4。ここからいちばん遠い場所にある。


 歩き出してから先に口を開いたのは槙坂先輩のほう。


 


「ねぇ、もしかして怒ってるの?」


 


「怒……………ん?」


 いきなり思いもよらないことを言われ、否定しようとするが、しかし、僕は思いとどまる。


 一歩引いて己を客観的に見――あぁ、と思った。


「いま気がついた。どうやら僕は怒っていたらしい」

「よかったら理由を聞かせてくれる?」


 今後の参考に、と彼女はつけ加える。


「突然前触れもなく学校にくるし。きてるならきてるで連絡ぐらいくれてもいいだろ」


 そう言った途端、槙坂先輩はぷっと吹き出した。


「あなた、普段は天邪鬼なのに、時々素直になるのね」

「ほっといてくれ」


 確かに今、ひどく子どもっぽいことを言った気がする。


「そういうところ好きよ。……いちおう釈明させてもらえる?」


 不貞腐れて黙っている僕にかまわず、彼女は続ける。


「いきなりきたのはあなたを驚かせたかったから。きてからも連絡しなかったのは、あそこで待っていたら会えるだろうと思ったのよ。……すぐに下級生に掴まってしまったのもあるけど」


 学生掲示板の前は、学食へ行くならどの講義棟からでも必ず通ることになる。そして、その性質上、休講や教室変更の情報が張り出されるので、通るだけでなく目を通していく生徒も多い。ここで張っていれば確実と言える。


「で、そっちの用はすんだのか? 学生課と職員室に用があったんだろ?」

「あら、あんなの嘘よ」


 さらりと言ってのける槙坂涼。


「いちおう担任の先生には挨拶にいったけど。今日は藤間くんに会いにきたの」

「わざわざ学校まで?」


 他にいくらでも時間と場所はありそうなものだが。


「今日は何の日か知ってる?」

「さてね」

「そうやってすぐに惚けるんだから。……ほら、手を出して」


 彼女の口調は、拗ねる弟に呆れる姉のよう。


 僕は彼女のほうを見ず、手だけを差し出した。

 直後、その掌の上に乗せられたのは、期待に反して驚くほど小さくて軽いものだった。……見れば銀色の包み紙に包まれた小さな物体。


「何だこれ?」

「あら、知らない? ぷっちょっていうお菓子よ」

「……」


 知っている。知っているが、しかし……。


「待て。何かおかしくないか?」

「そう?」


 今度は槙坂先輩が惚ける番だった。


 


「そうね、わたしもう一度素直でかわいい藤間くんが見たくなったわ。何がほしいか正直に言ったらあげてもいいわよ?」


 


 彼女が今どんな顔をしているか、そちらを見なくてもわかる。例の天使の顔をした悪魔の笑みを浮かべているに違いない。


「そっちこそ受け取ってほしいものがあるならそう言えばいい」

「素直じゃないわね」

「お互い様だろ」


 そのままふたりとも黙ってしまった。


 僕は素直に言うのが癪だから。彼女は僕が下手に出るのを待っているから、だろうか。言う通りにするのは業腹ではあるが、このままタイミングを逃すのはそれ以上に馬鹿らしい話である。


 僕は心の中でため息を吐いてから切り出した。


「えっと」

「あの」


 が、その発音が彼女のそれと重なった。


「……」

「……」


「……お先にどうぞ」


 掌を差し向け、先を譲る。


「じゃあ、わたしが先に言うから、藤間くんもいま言いかけたことを言ってね?」


 そうして一拍。


「今日はバレンタインよね? 藤間くんにチョコを渡そうと思って持ってきたの。わたしの気持ちよ。もらってくれる?」

「……」


 言われた。

 あまりにもストレートに言われてしまった。


 なら僕も言うしかない。

 深呼吸をひとつして、気持ちを落ち着かせる。


「僕もあなたからもらえたら嬉しいと思う。よかったらくれないか?」


「……」

「……」


 そして、再び互いに押し黙る。この変な沈黙はきっと気恥ずかしさからくるものなのだろう。横目で隣を見れば、槙坂先輩はややうつむき加減だった。


 だが、やがてその彼女がくすくす笑い出した。


「素直じゃないわね」

「お互い様だろ」


 さっきと同じやり取り。


「ええ、お互い様ね」


 そう言いながら彼女はコートの内ポケットからそれを取り出した。赤い包装紙に包まれ、リボンがつけられたそれは、今度こそ間違いなくバレンタインチョコのようだ。あまり大きくはないが、そこにセンスを感じる。


「どうぞ」

「ありがとう。喜んでいただくよ」


 まるでリレーのバトンのように差し出されたそれを、僕は受け取る。


「でも、こんなの僕が帰ってからでもよかっただろうに」

「久しぶりに人目の多いところで会いたかったのよ」


 いたずらっぽい笑みを含ませて言う槙坂先輩。


 いったいそれに何のメリットがあるのかわからないが、彼女の意図した通りさっきからすれちがう生徒の目を引いているのは確かだ。ひと目でそれとわかるバレンタインチョコはブレザーの中に入れておくことにしよう。


 講義棟4の前に着いた。


 午後の最初の授業はここの1階の大教室で行われる。その扉は目の前だが、僕は足を止めて槙坂先輩と向き合った。


「この後の予定は?」

「午後もフルに授業さ」

「大変ね」


 そこで彼女はすっと距離を詰め、僕のネクタイに触れた。


 そうしながら艶めかしく囁く。


「わたしに鍵を預けてくれたら、あなたのためにご馳走を用意して待っててあげるわ。もちろん、ご馳走は夕食だけじゃないわよ。何かは言わなくてもわかると思うけど」

「……」


 それは甘美な誘い。


「……生憎、僕はまだ魂を売るつもりはないのでね」


 だが、一度乗ってしまえば後は堕ちるだけの悪魔の囁きでもある。……尤も、小口の契約はちょくちょくしているような気がしないでもないが。とりあえず大口契約は辞退しておこう。


「残念」


 そう言って彼女は、緩んでいた僕のネクタイをきゅっと締め、離れた。暗に悪魔扱いされたことには特に文句はないのだろうか。


「午後の授業、がんばってね。また連絡するわ」

「ああ」


 最後に大人の微笑みをひとつ僕に投げかけ、帰っていった。


 彼女の『また』は下手をすると今日、僕の下校に合わせてかもしれないが。自由で羨ましいね、学校から解放された人は。


 僕は彼女の背を見送りながら、先ほどもらった小さなお菓子を口に放り込んだ。

 ソーダの味だった。

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