第2話<上>
わたしはすぐに藤間くんに近づくことを決めた。
でも、普通に「こんにちは」と声をかけるのはダメ。彼にはきっと『槙坂涼』のブランドは通用しない。もっと一瞬で惹きつけるような方法じゃないと。
学生食堂で偶然に目当ての人物を見つけ、わたしは一緒にいた友達に「ちょっとごめんなさい」と断ると、彼女に近づいていった。
「古河さん、少しいい?」
「あン?」
自販機に向かい、何を買おうか考えていたらしい彼女は、わたしの声で振り返った。
古河美沙希さん。
きれいなアーモンドのかたちをした目と、男っぽいウルフカットが特徴的な――そして、後にわたしの親友となる女の子だ。
「槙坂か。アタシみたいなのに何の用?」
「頼みたいことがあるの」
「ふうん」
彼女は興味深げににわたしを眺めると、
「いいよ。あっちで話そうか」
そうしてからわたしたちは、それぞれ飲みものを買ってから食堂の隅の席に移った。
さっそく古河さんは切り出してくる。
「それで、槙坂ともあろうものが何を知りたいんだ?」
「え、ええ。それは……」
少し迷う。
彼女に頼みごとをするためには藤間くんの名前を出さなくてはいけない。わたしの口から男子生徒の名前が出ることを古河さんはどう思うだろう。
「おいおい、なに緊張してんだよ」
そんなわたしの様子に、古河さんが苦笑しつつ指摘する。
「そういうわけじゃ……」
緊張? 確かにそうかもしれない。彼の名前を人前で、いや、それどころかひとりのときにすら口にしたことはない。これが初めてだ。
そんな『槙坂涼』らしからぬ振る舞いを振り払うかのように、咳払いをひとつし――切り出す。
「二年生の藤間くんっていう子のことなんだけど」
瞬間、彼女は、ぐふっ、と喉を詰まらせ、飲んでいる最中だったコーヒーで咽た。そして、「し……」と、何かを言いかけてそれを飲み込み、改めて口を開く。
「……藤間?」
「ええ」
と、答えておいてから――彼のことをすでに知っているふうな古河さんの口振りが気になった。
「ねぇ、もしかして藤間くんって、実は有名だったりする?」
「いや、そんなことないと思うぞ」
「そ、そうよね」
わたしはほっと胸を撫で下ろした。
よかった。本当はわたしが知らないだけで密かに人気があったりするのかと心配したけど、彼女がそう言うならそうなのだろう。彼が本当は女の子なら誰もがほうっておかない男の子だということは、わたしだけが気づいたわたしだけの秘密にしておきたい。
「本題に入ろうぜ。あいつの何が知りたいんだ?」
古河さんがまるでマフィアの取り引きのようにこう聞いてくるのにはわけがある。彼女は一部では有名な『情報屋』なのだという。頼めばこっそり知りたい情報を調べてくれるという話だ。
「彼の――藤間くんの電話番号なんだけど」
「電話番号?」
彼女はわずかに目を丸くしてから、「うーん……」と考え込みはじめた。
「やっぱり難しいかしら?」
「いんにゃ。そういうんじゃなくて、もっと別ンとこに問題が……。いや、ま、いっか。――いいよ」
「本当? 助かるわ」
どうやら彼女が何でも調べてくれるというのは本当らしい。
喜ぶわたしの前で、古河さんは取り出したスマートフォンを操作する。
「何か書くものある? メモとか紙とかのほう」
「ええ」
わたしは言われるままブレザーのポケットから、掌ほどの小さなメモ帳を取り出した。古河さんはそこから一枚切り離すと、ポケットに裸で突っ込んでいたらしいボールペンで何やら書きはじめ――それが終わると、人差し指と中指ではさんでこちらに差し出してきた。
「ほら」
「えっ? これって……」
「そ。ご所望のものだよ」
確かに紙には電話番号らしき11個の数字が並んでいる。てっきりこれから調べるのだと思っていた。つまり……。
「あなた、藤間くんのアドレスを知っていたの?」
「チョイと別件でね」
別件? 前に誰かが同じ依頼をしたということ?
「で、それ何に使うんだ?」
「え? それは……」
古河さんの問いに我に返り、口ごもる。
もちろん、電話番号なんて電話をかける以外の使い道はない。そう、わたしは彼と接触するためのツールとして電話を選んだ。『槙坂涼』からのいきなりの電話に、彼はきっと驚くにちがいない。
「ま、いいか」
しかし、彼女はあっさりと追求の手を引っ込めた。
「ところで、いちおー情報提供料をもらうことになってんだけど。日本銀行券以外の、商品券とかそんな感じのンでさ」
「そうね……」
財布の中に今、何が入っているかを思い出してみる。
「今は使いかけの図書カードくらいしかないわ。ごめんなさい、明日必ず――」
「ああ、それでいいよ」
「え、でも」
確かもう残高はあまり残っていなかったはず。財布から抜き出して見てみれば案の定。
「やっぱり。百九十円しか残っていないわよ?」
「じゅーぶんじゅーぶん」
笑って言いながら、古河さんはわたしの手から文庫本の一冊も買えない図書カードをすっと引き抜き、立ち上がる。
「どうやらこれから面白いものが見れそうだしな。それでチャラにしとくよ」
「え、それはどういう……?」
「おっと、それはこっちの話。じゃあな」
そうして情報提供料として得たそれを指ではさんだままひらひら振って、テーブルを離れていった。
「……」
最後のひと言が気になるところだけれど、わたしの望むものを手に入れたことは確かだ。
ずいぶんと簡単に、安く手に入ったものだけど。
「ゼロ・ハチ・ゼロ、の……」
わたしは部屋の勉強机に両肘を突き、メモを目の高さに合わせて、そこに書いてある数字を口に出して読む。本当はメモなどなくてもそらで唱えられる。今日一日、人の目を盗むようにしながらずっとこれを眺めて過ごしていたので、すっかり覚えてしまった。
――結局、その日は電話をかけなかった。
これは魔法の道具。
三角をふたつ重ねて丸で囲んで……じゃないけれど、これを使えば藤間くんにつながる。きっと最初の一回は特別なものになるにちがいない。だから、勿体なくてまだ使っていない。
そこでふと思った。今は夜。このタイミングで電話をかければ、もしかしたら彼とゆっくり話ができるかもしれない。友達同士が、或いは、恋人同士が楽しくおしゃべりするように。
でも、わたしはそれをすぐに否定した。
これは大きなインパクトをもって藤間くんに接触するためのツール。彼と再会するためのステージはここじゃない。
本番は明日だ。
§§§
ところが、翌日。
中庭の木の下で電話をかけてみたら、期待に反して彼は出てくれなかった。知らない番号からの電話には出ない主義のよう。警戒心が強いのか、それとも面倒なことがきらいなのか。
どちらにしても『突然の電話作戦』は失敗してしまった。
「さぁて、次はどうしようかしら?」
わたしは端末をしまいながら、つぶやく。
どうしてだろう。まるで絶好のコンディションのときに得意科目の難問に挑んでいるみたいに楽しかった。
そして――。
今、わたしの手の中には彼のスマートフォンがあった。
もちろん、無断借用してきたものだ。
これにわたしのアドレスを転送する。これで電話をかけてればわたしの名前が表示されることになり、正体不明でない相手なら藤間くんも応じるはずだ。後はこれを落しものとして学生課に届けて、彼に返すだけ。
途中、階段の踊り場で、気まぐれに彼の端末のカメラ機能を使って自撮りをしてみた。撮れた写真を見てみれば、そこには自分でも驚くほどの笑顔の――まるでいたずらが成功した子どものように笑うわたしがいた。
いつも大人びた微笑を浮かべている『槙坂涼』も、こんな笑い方ができるらしい。
そう、これは最初にこれを見るであろう彼に向けられた笑顔だ。
『二年の藤間真さん。お伝えしたいことがありますので、学生課までお越しください。繰り返します――』
その放送が流れたのは昼休みになってすぐのこと。
いつもならさっきまでの授業を一緒に受けていた子たちと学生食堂にいくのだけど、
「ごめんなさい。今から人と約束があるの。たぶんお昼もその子と食べることになると思うから」
「あ、そうなんだ。じゃあ、また今度ね」
手を振って彼女たちと別れる。
わたしはゆっくりテキスト類をまとめてから教室を出た。頃合いを見計らい、また中庭の木の下で彼に電話をかけた。
『……もしもし』
警戒の色の濃い彼の声。
当然だろう。落として返ってきた自分のスマートフォンのメモリィに、入れた覚えのないアドレスが入っていたのだから。だけどこれでようやく彼を舞台に引っ張り出すことができる。
「よかった。今度はちゃんと出てくれたのね」
『……聞きたいことがある』
案の定、彼は喰いついてきた。
こうしてついにわたしは彼と再会を果たすことができたのだった。
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