第2話<下>
彼は思った通りの子だった。
頭の回転が速くて――。
『槙坂涼』の前でも動じなくて――。
去年の春に見せた人懐っこい笑顔などどこにもなくて――。
笑顔の仮面を脱いでもまだ韜晦してばかりで――。
すぐにわたしは、そんな彼に興味以上のものを抱いた。
『わたしとつき合ってみる気はない?』
『ないね』
いや――、
まったくと言っていいほど思い通りにならないあたり、思った以上かもしれない。
嬉しい誤算。
わたしはまた難題を差し出され、わくわくしている。
彼との会話はとても刺激的だった。
思えば『槙坂涼』は会話をしていなかった。求められるのはいつも「その通りね」と頷いて同意するだけの聞き役か、皆をまとめる鶴のひと声。けれど彼はちがっていた。年下のくせに敬語も使わない生意気な子だけど、同じ目線で話をしてくれた。
それに――わたしの周りで彼ほど知的な子もいなかった。
§§§
例えば、ある日のこと。
午前の授業が終わって昼休みに入り、お昼を一緒に食べようと藤間くんに電話をかけてみた。
『悪い。調べたいことがあって図書室に行く。ほかをあたってくれ』
あっさりと切られてしまった。
「もう。ぜんぜん懐かない猫みたいな子」
『槙坂涼』のお誘いを断るのは、きっと彼くらいのものだろう。でも、怒るよりも先に口もとが緩んでしまう。
藤間くんが何を調べているのか気になり、わたしも食堂ではなく図書室へと足を向けた。
図書室へ入って見回してみれば、彼は一般資料の書架ではなく参考図書コーナーの大型本架のところにいた。
大型本架は百科事典のような大きくて重い本を収める書架で、高さは1メートル強。上下に二段しかない。このように低く作られているのは、重い本を高い場所から取り出す危険の回避と、閲覧席まで持っていかなくてもその場で読めるようにするため。よいものになると天板の部分に角度がついていて閲覧台になっている――というのは彼からの受け売りだ。
藤間くんは大型本架を正しくその通りの使い方をしていた。どうやら百科事典を見ているらしかった。
「何を調べてるの?」
横から声をかけると、彼は事典に目を落としたままわずかに意識だけをこちらに向け、答えた。
「ケッヘル番号。さっき読んでいた本にそういう単語があったんだ。本筋に関係ないものだから説明もなくさらっと流されていてね。気になったんだ」
「ケッヘル番号? それなら――」
幸いわたしはそれを知っていたのでおしえてあげようとしたら、彼はそれを手で制した。
「いい。自分で調べる」
「そう」
それなら邪魔はしないでおこう。
ふと見れば脇には使い込まれたふうのメモ帳が置いてあって、そこには『ケッヘル番号とは何か?』と書かれていた。
「せっかくだから問題を追加してあげましょうか?」
「うん?」
藤間くんがようやく顔を上げた。端整でちょっと薄情そうな相貌がこちらを向く。
「ケッヘル番号K.525が指しているものは何でしょう?」
「……」
彼の目がわずかに知的好奇心に光り、
「わかった。それも調べてみよう」
そう言うと先ほどのメモに一文を書き加えた。『また、K.525は何を指すか?』。どうやら調べる問題は単語ではなく文章で表すことにしているらしい。
藤間くんは再び百科事典に目を戻した。
その目と横顔は真剣そのもので、なかなかヤラレてしまいそうな感じだった。
「世界大百科事典に『ケッヘル番号』の項目はなし。ただし『ケッヘル』の項目がある。ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル……『<ケッヘル番号>で名を残したモーツァルト研究家』、か」
そこで一旦、調べた資料の名前やわかったことをメモにまとめ、百科事典を書架に戻した。
大型本架を離れ、次へ向かう。わたしも後をついていこうとすると、彼は不満そうにこちらを見た。「ついてくるのか」とでも言いたげな目。
「おかまいなく」
「……あなたがそばにいて平気な、そんな豪胆なやつがいたら見てみたいね」
踵を返して向かった先は、同じく参考図書のコーナーの芸術分野の書架だった。まずは『音楽用語事典』を手に取ってページをめくり、先ほどと同じように資料の名前とわかったことをメモ。次に『モーツァルト全作品事典』を取り出して、またも調査結果を書き留めた。
そうして藤間くんは改めてわたしに向き直る。
「K.525は、アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
「ええ、その通りよ。正解」
よくできました。
ケッヘル番号は、モーツァルト研究家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが、膨大な量のモーツァルトの作品を時系列的に整理して、付与した番号のこと。K.xやKV.xで表される。その中でK.525は、あの有名なアイネ・クライネ・ナハトムジークに振られた番号だ。
「ご褒美は何がいい? デートにでも行く?」
「……それはいったい何の罰ゲームだ」
「失礼ね」
さすがにこれには頬を膨らませる。
と、そこで藤間くんは何やら迷う様子を見せてから、
「僕はこれから学食に行くけど、どうする?」
「……」
わたしは思わずため息。
一緒に行くに決まってるでしょ。もっと素直に誘いなさい、天の邪鬼さん。
「さっきみたいなことはよくするの?」
ピークを過ぎた学生食堂で、わたしたちは向かい合って昼食をとる。わたしはいつもの通りお弁当を、藤間くんは今日はカツカレーだった。
「まぁね。昔からわからないことがあると自分で調べないと気がすまないたちなんだ」
道理で調べ慣れていると思った。
「特に百科事典は知識の宝庫さ」
後になってわたしは、彼の寝室で扉つきの書架に収められた日本大百科全書と世界大百科事典を見つけている。少し乱雑に並んでいる様が、よくそれを使っていることを示しているようだった。
「百科事典は革命だって起こすよ」
「どういうこと? 興味があるわ」
百科事典が革命を起こす?
「じゃあ、かいつまんで話そうか」
そう言うと藤間くんはカレーと一緒にトレイに乗っていた水を飲んだ。わたしも食べる手を休める。
「ことの発端は1746年、先に完成していたイギリスの百科事典に触発されるかたちで、フランスの出版業者ル・ブルトンが思想家で作家のディドロにフランス百科全書の作成を依頼したんだ。編集・編纂にあたって執筆者の対立や当局からの出版弾圧があったが、そのあたりは端折るとして――完成した百科全書は1751年から20年以上もかけて順次刊行されていった。書式は、今では珍しい大項目主義。各項目にはヴォルテールやモンテスキュー、ルソーといった、僕たちもよく知る思想家も寄稿している。知の集大成を目指したそれには当時の最先端の科学技術や絶対王政以外の政治形態、キリスト教以外の宗教についても触れられていた。つまり百科全書というのはある種の学術雑誌でもあり、啓蒙書でもあったわけだ。そして、1789年――」
「フランス革命ね」
「そう。ルソーら思想家が説いた社会契約論に影響を受けた知識人や、それに共感した市民により革命が勃発する。かくして王政と旧体制は倒され、フランスに民主主義の土台が築かれることとなった。この革命に発行部数4250部の百科全書が少なからず貢献していたと考えるのは、それほどむりがある話でもないと僕は思うね」
「それで『百科事典が革命を起こす』なのね?」
「そういうこと」
そう話を締めくくると、藤間くんは食事を再開した。
こんなふうに時折さらりと見せる彼の教養に、わたしは大きな魅力を感じる。周りにはいないタイプだ。
不意に彼の動きが鈍くなり――顔を上げた。何やら複雑な表情をしている。
「そうじっと見られると食べにくいんだが」
「あ、ごめんなさい」
気がついたらわたしは彼を見つめていた。
「何か言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」
「今日の帰り、あなたの部屋に寄っていい?」
「断る」
相変わらずの即答。
「あのね藤間くん、少しは考えましょうね。というか、この場合飛びつくべきじゃないかしら?」
「考える? 何を?」
彼はわざとらしく驚き、いちいち言葉を区切る。
「あなただってアルカンの名前くらい考えずに暗唱できるだろう?」
「メタン、エタン、プロパン、ブタン……。ええ、確かにそうね。そう。わたしの女としての価値は、それくらい考える必要がないということなのね」
わたしはにっこり笑い、彼も不敵な笑みでそれを受けた。
ちょうど近くを通りかかった生徒が、見つめ合って笑うわたしたちを二度見した後、これを見なかったことにして早足で遠ざかっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます