第1話<下>

 ささやかな楽しみと優越感と、小さな謎とを胸に時間は流れ――、


 それは暑さも一段落した初秋のある日のこと。


 学生食堂で友達と一緒にお弁当を食べていると、藤間くんが何人かの友達と連れ立ってやってきた。わたしは視界の端で彼を見る。すでに『目立たない平凡な生徒』の立場をまんまと確立してしまった彼に注目するのは、きっとわたしくらいのものだろう。


 ふと、彼が足を止めた。


 学生食堂の一角にある自動販売機コーナーの前。そこで藤間くんは小さな動作で自販機を順番に指さしていく。いや、数をかぞえているようだ。その数六つ。


「おーい、藤間。何やってんの?」

「ああ、悪い」


 短く答え、再び歩を進める。


 いったい今の行動に何の意味があったのだろう。わたしがそれを知るのは翌日のことだった。




 翌日。

 朝からはじまった騒ぎは昼休みにピークを迎えた。


 今日は朝からずっと自販機がぜんぶ故障中らしい。


 わたしは『故障中』の紙が貼られたそれを見ながら考える。昨日藤間くんが数をかぞえていた自販機が、今日にはこんなことになっている。これは偶然?


 そこにその藤間くんがやってきた。


「今日は朝からこうなんだってよ」

「らしいな」


 友達の言葉にまるで他人事のように答える。


 が、


「浮田」


 通り過ぎようとした彼は、昨日と同じように足を止め、友達の名を呼んだ。


「これ、どこも異状ないんじゃないか?」

「え、まさか?」


 浮田と呼ばれた彼は、半信半疑に自販機に近寄っていった。


「特にそれらしい表示はなし。売切中のランプもなし。釣銭切れってわけでもなさそうだな」


 かくして、ギャラリィの見守る中、硬貨を入れてボタンを押すと、何の問題もなく商品が出てきた。場は騒然となり、少なくない生徒が自販機に詰めかけた。


 結局、故障している機械はひとつもなかった。


「くそ、騙された」

「なんで誰も確かめなかったんだよ」

「誰だ、こんな悪戯したやつ」


 わたしは、はっとして藤間くんを見る。


 彼はいつも通りにシニカルな笑みで自販機コーナーの騒ぎを見ていた。


 いつも通り?

 いや……。


 ああ、なるほど。そういうことか。




 なんと面白い子だろう。

 わたしはいっそう彼に興味を持った。




                  §§§




 ひとつ確信があった。

 それは、きっと彼はほかにもまだ何かやっているという確信。




 藤間くんはだいたいいつも同じ場所に座る。大教室だと後ろ半分の階段席の通路側。あるときわたしは思いついてその席を見にいったことがある。


 ……やっぱりあった。


 机の上に落書きがひとつ。日本史のテストについての真偽不明の情報だった。広まったら日本史を取っている生徒が右往左往しそうな、それでいて先生のひと言で鎮火しそうな情報。


 わたしはそれを見て口許を緩める。




 




『槙坂涼』の毎日は退屈で、だからそれを面白くするためにいつしか『槙坂涼』で遊ぶことにした。


 わたしもよく同じことをする。


 例えば、『槙坂涼は医学部の大学生とつき合っている』。そんな落書きを机に書いておけば、意外なほどよく広まる。やがて誰かがことの真相を尋ねにくるけれど、わたしは「ごめんなさい。それはプライベートなことだから」「想像に任せるわ」と答えを曖昧にして反応を楽しむ。だけど、見ていればわかる。それはある意味ではとても『槙坂涼』らしい答えで、イエス・ノーをはっきりさせるよりも望まれているのだと。


 彼も同じなのだろう。




 他にもいくつかあったけど、そのうちのひとつ――四階の語学教室の窓の外側につけられた小人だか宇宙人だかの足跡を、試しに発覚前に消してみたことがある。だけど彼は特にそれを不思議と思う素振りもなく、改めて仕掛けることもなかった。成功に固執はしないらしい。




                  §§§




「ねぇ、あの足跡ってどうやってつけるの?」


 ずいぶん後――前期の定期試験が終わり、秋休み中のある日、わたしは藤間くんに聞いてみたことがある。彼のマンションで食事をしているときだった。


「ああ、あれ? あれは拳を握ってそれをこうやって――」


 藤間くんは握り拳の小指側を、朝食が並べられたテーブルの上にゆっくりとスタンプするように置いた。


「後はその上に2つか3つ、親指で点をつけてやればできあがり。チョークの粉でもつけるか、埃の積もったところででもどうぞ、というところさ」

「なるほど。確かにそういうかたちになるわね」


 わたしも同じように頭の中でやってみて、完成形をイメージしてみた。


「勘違いしないでくれよ。だからといって語学教室の件が僕の仕業だと言ってるわけじゃない」


 彼はこの手の悪事に関しては、絶対に認める発言をしない。


 さらに美沙希に聞いたところ、「あれな、中学んとき真と一緒に3階のぜんぶの教室につけてやった。次の日、学校中が大騒ぎになったな」と笑って言っていた。

 彼女は彼女で悪びれた素振りもないのだからたちが悪い。




                  §§§




 早いもので、気がつけばわたしも三年生に進級していた。


 そしてまた半年に一回のイベント、今期の時間割りを決めるときがきた。その期間中、履修届提出の締め切りまでまだ十分に余裕のある、ある日のこと、


「あ、あの、槙坂さん」


 車椅子の唯子と一緒に歩いていたわたしに声をかけてきたのは、同じ授業のときに時々言葉を交わす程度の女子生徒ふたり組だった。その程度だから教室ではないこの場では、勇気を出して話しかけてきたふうだった。


「前期は芸術科目を中心に取るって聞いたんだけど本当?」


 瞬間、わたしはこの発言が生まれるまでの経緯について考えを巡らせる。


 


 つまりは伝聞。けれど、わたしは芸術科目なんて取るつもりはないし、そもそも自分が何を履修しようと思っているか誰にも話していない。ということは、これは嘘の情報だ。


 どうやら嘘の情報が出回っているらしい。


 思えば昨年度の前期からこの手の出所不明の怪情報が行き交っていたように思う。人を惑わすデマゴギー。……なるほど。今度はこれなのね。


『槙坂涼』は微笑む。


「さぁ、どうしようかしら。まだ決めてないの。あけてみてのお楽しみね」

「えぇー」


 そんなひらりとかわすような返事に、彼女たちはユニゾンで不満とも歓声ともつかない声を上げた。


「また一緒の授業があるといいわね」


 そう言ってふたりと手を振りながら別れる。


「さっきの話、本当なの? あたしは演習科目と情報系だって聞いたけど?」


 と、唯子がこちらを見上げながら聞いてきた。


 そういう説も流れているらしい。こうやってみんなが振り回されているのを横目で見て、あの子は楽しんでいるのだろうか。


「どうかしら? 唯子の想像に任せるわ」

「涼さんはすぐそうやってはぐらかす」


 唯子は怒ったような素振りもなく、むしろ笑う。


 偽情報はこのままほうっておこう。これからも彼女たちのようにある程度親しい生徒が、噂の真偽を確かめにくるだろうから。きっといろんな反応を見せてくれるにちがいない。


 利害の一致。


 わたしの中にいる退屈という名の怪物を押し潰すため、彼をめいっぱい利用させてもらおうと思う。自分の頭にピストルを向けるのはいつでもできるのだから。




                  §§§




 そうしてあの日がきた――。




 藤間くんと一緒の授業のとき、わたしが教室に入ってまず最初にするのは彼を見つけること。そのときも教室中央の扉から入り、仲のいい友達と話しながら、横目で彼の姿を認めた。いつもの席に座り、本から顔を上げてこちらを見ている。いつもそう。冷めた様子で、シニカルなくせに誰よりもよくわたしを見ている。


 わたしは大教室を前後に二分する大きな通路を通って席へと向かう。彼の目の前を横切る軌道。

 定点と動点の最接近。


 そこで彼の声が耳に入った。




「よって、僕はあの人に興味はないね」




 結論するような口調の言葉。


 きっと後になって彼は、自分の迂闊さを呪ったにちがいない。


 そして、わたしも迂闊だった。

 わたしは思わず目だけで彼を見、ほんの刹那、彼と視線が交錯した――気がした。


 すぐに目を逸らす。


 だけど、もう遅かった。すでにわたしの心には決意が芽生えていた。


 忘れたの、藤間くん? 去年、あなたはわたしに興味をもって声をかけてきたんだよ? そう、忘れたのね。だったら思い出させてあげる。




 そのとき、わたしはこの一年間我慢していたのが不思議なほど、彼を知りたいと思った。

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