第11話<上>
あれからずっと、メールについて考えていた。
『そろそろ遊びは終わりにしましょう?
明日の放課後、例のカフェで待っています』
あまりにも唐突に送られてきたメール。
どういう意味だろうか?
その意図は?
遊びとは何だ? そして、それが終わればどうなる?
「ちょっとぉ。真、ちゃんと聞いてる」
隣から投げかけられた非難交じりの声に、僕は我に返った。
――今は登校途中。
そう言えば駅を降りたところで、これ――こえだを拾ったんだったな。
「悪い。何の話だった?」
「聞いとけよぉ」
こえだこと三枝小枝は頬をふくらませる。ついでに「まぁ、改めて言うような話じゃないけど」とつけ加えた。
「今日の真ってば、元気なくない?」
「そうか?」
その自覚はない――が。
「考えごとをしてたからかもな」
「悩み?」
「というほどのものでもないから心配するな。それに否が応でも放課後には解決してるだろうし」
槙坂涼は放課後を指定して僕を呼びつけている。そこで何らかのイベントがあるのは確実だろう。
「ふうん」
こえだは面白くなさそうな調子でそう言い、
「我が世の春を謳歌してる真が悩みねぇ」
「何だよそれ」
やけに棘のある口調だ。
「昨日から槙坂さんがデートしてたって噂が出てるけど――あれの相手って真でしょ?」
「……想像に任せるよ」
ずばりと切り込んできたな。
「何それ。槙坂さんと同じじゃん」
「お前もあの人に噂の真偽を問い質したクチか?」
「たまたま近くにいただけ。……でさ、槙坂さんって、一緒にいたのが真かって聞かれると、ちょっとだけ嬉しそうな顔するの」
「ことが思惑通りに進んで嬉しいんだろ」
あれはそういう種類の悪魔だ。
「まぁ、こえだにはちゃんと言っとくよ。――本当だ。日曜に一緒にいたのは僕だよ」
「やっぱり。だと思った。ここんとこべったりだもんねー」
と、不貞腐れたようなこえだ。
その様子を見ながら、僕はふと思い出す。
「お前。あの人のこときらいなのか?」
「え? 別にそんなことない、け、ど……?」
言いつつ僕の反応を窺うようにこちらを見る。小動物の目だ。僕は一度その視線を真正面から受けて、
「槙坂先輩が言ってたぞ。仲よくしたいけど、お前にその気がないみたいだって」
「うー……」
こえだは小さな唸り声をひとつ。何やら考えている様子で、それきり黙ってしまった。
「できればでいいが、仲よくしてくれよ。知り合いふたりの仲が悪いなんて、あまり気持ちのいいものじゃない」
「ま、まぁ、あの槙坂さんと知り合いになるチャンスだし。それにどうせ勝てそうにないし」
「お前はあの完璧超人とどのジャンルで張り合って勝とうと思ったんだ」
尤も、実際は悪魔超人だが。
「いいのっ。真の知らなくていいことだからっ」
こえだはぷいとそっぽを向く。
「あーあ、あたしっていいセンパイを持ったなぁ」
「それたぶん褒めてないだろ?」
「わかってるじゃーん」
笑ってそう言ってから、彼女は少しだけ歩調を速めた。
僕のほうはこえだがどう思っていようと、かわいい後輩を持ったと思っているんだけどな。そして、お前がいちばん好きだと素直に思えたらもっとよかったのに、とも思う。
§§§
唐突に――僕と槙坂涼が向かい合っていた。
彼女は僕に告げる。
『これまでのことはただのお遊び。でも、もうそれも終わりね。いい夢が見れたでしょ? わたしもいい暇つぶしになったわ。……さよなら』
「……」
踵を返し、遠ざかっていく彼女。
その後ろ姿を眺めながら僕は、あぁなるほどな、と妙な納得をしていた。
§§§
そこで目が覚めた。
直後、先生の「じゃあ、今日はここまで」という声が耳に入ってくる。どうやら授業中に眠っていた僕は、高校生活で培った体内時計によってか、それとも教室内の空気を感じ取ってか、授業終了に合わせて覚醒したらしい。
と、状況を分析しているうちに、壇上では先生がピンマイクを外して教室を出ていった。
「おーし、行こうぜ。藤間」
「ん? ああ……」
浮田だ。
そう言えば、今から昼休みだったな。この男が元気になる時間だ。
しかし、実に授業の半分の時間を睡眠に費やした僕の体は、すぐには動けそうもなかった。こんなに寝たのは、昨日メールについて考えすぎて睡眠不足になっていたからだろうな。
「悪い。先に行っててくれ」
「そうか? わかった。早くこいよ」
僕はそれに手を上げて応える。
すでに授業の準備の三倍の速さで荷物をまとめていた浮田は、疾風のように教室を飛び出していった。
一方、僕は緩慢な動きでテキスト類を重ねながら、さっきの夢を思い出す。……まったく。起きた瞬間に忘れてしまう夢も多いのに、こんなときだけはっきりと覚えているのはどういうことだろうな。
深々とため息を吐く。
正直、昨日の槙坂涼からのメールをそう解釈しなかったわけではない。むしろそう考えたほうがしっくりくるかもしれない。そのうち飽きたら捨てられると思いますよ――昨日、自分でも自嘲気味にそう言ったのを思い出した。
もし、その想像が本当だったらどうする?
「……」
まぁ、それもいいんじゃないだろうか。そのときはまたもとの、槙坂涼とその周囲を遠くから眺めて楽しむ日々に戻ればいい。
一緒にいれば僕を知られ、理解される。そして、いずれ思い出される。
だから、彼女は危険だ。
それだけじゃない。一緒にいて、僕は槙坂涼の知られざる一面を知った。清楚で、大人で、心優しくて……巷で語られているそれは、彼女のことを十分の一も知らない人間が勝手に言っているだけのものだ。
本当の彼女は自分の魅力と影響力を熟知し、その上で周りを振り回し、反応を見て遊ぶ。僕に対してもそうだ。隙を見せれば、遠慮なくそこを突いてくる。あまりにも油断ならない。
そして、彼女のそんな部分が僕の心を……。
だから――危険。
「……」
ため息をひとつ。
そうして立ち上がろうとしたそのとき、
「こんにちは」
「!?」
完全に不意打ちだった。
振り返ればこの階段席の通路に槙坂先輩が立っていた。わざわざ後ろから近づいてきたのは、何の悪意があってのことだろうか。
「……どうしてここに?」
火曜日は同じ授業がなく、普通にしていれば放課後まで顔を合わせることはないはずだ。だからこそ、会ったときにいきなりクリティカルな話題を切り出せる。どんな話をするつもりなのかは知らないが、今日は彼女にとって都合がいいのだ。
それなのに槙坂先輩はそんなことなど忘れたかのように、いつも通りの調子で答える。
「あなたがなかなか出てこないからでしょう。教室の外で待っていたのよ?」
「あ、ああ、悪い」
って、悪いのは僕なのか? 約束は昼休みではなく放課後だったはずだ。しかも、学校ではなく例のカフェ。そう言おうとしたのだが、槙坂先輩が先に次句を継いだ。
「でも、ちょうどいいわ」
言いながら肩から提げていたトートバッグを机に置く。
「何だこれ?」
「もちろん、お昼ご飯に決まってるわ」
ここで食べる気か?
「……そうか。僕はいつも通り学食だ。悪いが、あなたひとりで食べてくれ」
僕は重ねたテキストを抱え、立ち上がった。まるで逃げるようだ。何から? きっと僕はここでその話を切り出されるのを恐れているのだろう。いずれ放課後になれば嫌でも聞くことになるのに、今この場から逃げたいのだ。
「待って。ちゃんと藤間くんのもあるわ」
トートバッグから出てきたのは、少し大きめのランチボックスがふたつ。ひとつはバスケットタイプだった。
「……」
「早く座って。ひとつそっちに詰めてね」
僕は渋々言われた通りに腰を下ろした。さっきまで座っていた通路側の席ではなく、もうひとつ内側だ。
教室には弁当組やらまだ席で喋っているグループやらでまばらに生徒が残っていて、僕らの様子を見るやなんだなんだとざわつきはじめた。……奇遇だな。僕も同じ気持ちだ。
網の目のランチボックスを開けると、中にはサンドイッチがきれいに並べられていた。
にしても、何を考えているのだろうな。わざわざ放課後に呼びつけているくせに、それを待たずに遭いにくるなんて。
「ハッシュドビーフじゃないのか」
あまりの不可解さに、意味のない文句が口をついて出た。
「そんなわけないでしょう。もちろん、あなたさえよければいつでも作りに行くけど?」
「……僕が悪かった」
冗談じゃない、彼女を家に入れるなんて。前に風邪をひいた日に強襲されたときもたいがいだったが、今はあのとき以上に自分が何を言って何をやるか自信がない。
もうひとつのランチボックスはサイドメニューのようだった。チキンやポテトなど。油を使ったものがちょっと多いような気がしたが、その分サンドイッチのほうはハムレタスやタマゴなど、女性好みのさっぱりしたものが多かった。
「これ、そこで買ってきたわ」
最後に取り出したのは二本の缶コーヒー。
あれよあれよという間に準備が整い、気がつけば今さらいらないとは言えない状況になってしまっていた。
結局、僕は諦めていただくことにして、サンドイッチに手を伸ばした。槙坂涼製なら味は保証されているし、これで一食分が浮く。
「今は何を読んでるの?」
食事の最中、不意に槙坂先輩が聞いてきた。彼女の視線は重ねたテキストの上に乗っている文庫本に向けられている。本には書店のカバーがついていてタイトルはわからない。
「『妖魔の森の家』」
「ジョン・ディクスン・カー?」
「そう。僕としてはカーなら『ビロードの悪魔』が読みたいんだけどね」
しかし、これがなかなか手に入らない。どこかで再版してくれないだろうか。
「『いずれの読者にもすべて、その人の図書を』。出版業界も見習ってほしいものだな」
「ランガナタンの『図書館学の五法則』ね」
「その通り」
よく知ってるな。
以前こえだにこの話をしたら「ランガナたん?」などと、数学者にしてインド図書館学の父をやたらとフレンドリィに呼びやがった。そのくせ『図書館の自由に関する宣言』はどこからか知識を仕入れていたようだが。あぁ、僕が貸した小説か。
「でも、第二法則だった? それとも第三?」
「第二だな。とは言え、ランガナタンは第一と第五だけ知っていれば十分さ」
つまり、
第一法則 図書は利用するためのものである
第五法則 図書館は成長する有機体である
の、ふたつだ。
前者は、図書館とは資料を大事に保存するための場所ではなく、利用者と資料の出会いの場所であることを述べている。資料も図書館も利用してこそのもの、ということだ。
後者は、図書館とは成長するもの――それもただ資料が増えて巨大化するのではなく、そこで奉仕する図書館員も利用者のニーズや地域の特色に合わせて成長しなくてはならないと説いているのだ。
「前から聞こうと思ってたんだが――」
「どうぞ。遠慮しないで何でも聞いて」
一瞬、彼女を困らせるためだけに本当に何でも聞いてやろうかと思ったが、すぐに思いとどまった。危ないな。人間、品性を失ったら終わりだ。
「本はよく読むほうなのか?」
「どうかしら。人と比べたことはないけど、読めるうちにできるだけ幅広く、たくさん読んでおこうとは思ってるわ」
「ふうん」
時々これは知らないだろうと思うようなことを知っているのはそのせいか。
しかし、それにしては……。
「意外? そう思うのはずっとわたしを見てても、そんな姿を目にしたことがなかったから?」
槙坂涼は心を見透かすような瞳で僕を見た。
僕は何も言わない。
「そうね。あまり人前で読むようなことはしなかったから」
それは友人と一緒にいるときでも平気で本を開く僕への当てつけだろうか。彼女の前でそんなことをした覚えはないのだがな。
「でも、今はダメね。受験勉強が少しずつ忙しくなってきて、あまり読む時間がとれないわ」
「だったら、僕と遊んでないでそうしたらいいだろう」
そう言う僕が手にしているのは、睡眠時間か勉強時間か、何らかの時間を削って彼女が作ったサンドイッチだ。忙しいと言っているわりには、受験生らしからぬ余裕だな。
「プライオリティの問題よ。作った時間で本を読むより、あなたと一緒にいるほうが得られるものが大きいもの。いつもより集中して勉強して藤間くんに会いにいって、明日の分まで課題をこなしてからデートするの。むしろ今までよりメリハリがあるわ」
「……好きにしてくれ」
人のライフスタイルの変化に口を出すつもりはない。
と、そこでふと気づく。
「受験って、上にはいかないのか?」
上とは明慧学院大学のことだ。この附属高校からはそう表現される。エスカレータ式ではないが普通の入学試験よりはハードルが低く、世間一般で言う大学受験のイメージは薄い。槙坂涼のような成績優秀者なら大学側も諸手を上げて歓迎し、無試験合格だろう。
しかし、彼女が口にする大学受験は、どうも外部の大学を指したようなニュアンスだ。
「ええ、そのつもり」
彼女もあっさりそれを認めた。
「差し支えなければ理由を」
「少し周りが騒がしくなりすぎたわ」
その声はかすかにため息混じりだった。
まぁ、そうだろうな。槙坂涼という人間はどこへ行っても目立つし、その一挙手一投足が注目される。今だって教室にいくつかのグループが弁当を食べているが、ちらちらとこちらの様子を窺っている生徒が少なからずいる。誰も自分を知らないところに行きたくなるのも当然か。
「尤も、半分くらいは自分のせいだけど」
「……」
まぁ、そうだろうな。言葉ひとつで人を右往左往させて楽しんでいるからだ。
「ねぇ、どうせならふたりで外の大学に行きましょうか」
「それはなんとも心踊るお誘いだ。だけど、あなたが行くような大学に凡人の僕が入れるとも思えない」
「あら、大丈夫よ。目の前にいい家庭教師がいるじゃない」
「目の前か。目の前というと、遥か先にホワイトボードがあるくらいだな」
直後、槙坂先輩の手が伸びてきて、そのしなやかさとは裏腹に万力のように僕の顔を挟み込むと、強引に自分のほうへと向けさせた。それは僕の首の可動域ぎりぎりの挙動で、思わず口から「ぐ」とうめき声がもれた。
「これで見えるかしら、優秀な家庭教師の姿が」
彼女はにっこり笑う。
たぶん僕の視界いっぱいに天使の笑みを浮かべているのが、家庭教師とかいう新種の悪魔なのだろう。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
程なく食事が終わった。
「喜んでもらえてよかったわ。じゃあ、わたしはこれで」
槙坂先輩はランチボックスを片づけ、トートバッグを抱えて立ち上がった。
気がつけば昼休みはもうすでに半分を過ぎていて、そして、僕はすっかりあのメールへの不安を忘れてしまっていた。槙坂先輩の振る舞いがあまりにも普段通りだったからだろう。僕はもしかしてあのメールを読み解きちがえていたのだろうか。
だが、彼女は僕の耳に囁く。
「次は放課後ね。待ってるわ」
「!?」
思い知らされる。やはりあれは本当なのだと。
弾かれたようにして立ち上がれば、彼女はもう僕に背を向け、階段状の通路を降りようとしていた。
「待ってくれ」
思わず呼び止めた僕の言葉に、彼女は振り返る。
「なに?」
その顔には笑み。
例えば僕が校内で彼女を見つけて呼び止めれば、こういう表情をするのだろう。それくらいいつもの笑みだ。
「僕に何か話があるのか?」
「ええ」
言いながら槙坂先輩はすっと距離を詰め、僕のネクタイに触れた。まずは手遊び。
「ミステリで言うところの解決編というやつね」
彼女は楽しそうにくすくすと笑う。そうしてネクタイを整え、僕を見上げる。やはりそこには優しげな微笑があった。
「怒ってるのよ?」
「え?」
「一年以上もわたしのこと興味のない振りして」
優しげな笑みのまま、槙坂涼はそう言ったのだった。
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