第11話<下>

 そして、放課後。


「おや」

「ん?」


 駅を降りたところで、僕はその人物と出くわした。

 見知った顔、というほど顔を合わせているわけではなく、ある意味では文字通り見知った程度の関係。


 年はおそらく二十歳か、それをひとつかふたつ越えたくらい。眠そうな半眼のまぶたが特徴的だが、よく見れば意外と目の光は鋭い。まるで擬態だな。抜け目のない為人を、おっとりした雰囲気で隠しているようだ。


 槙坂先輩と待ち合わせをしているカフェ、『天使の演習』の店長だ。


「君は確か、僕の店に何度かきてくれた……」

「ええ。今日もこれから行こうと。もしかして定休日ですか?」


 この人が店を離れてここにいるということはそうなのだろう。だとしたら無駄足だったな。先に行っているはずの槙坂先輩はどうしたのだろう。


「いえ、やってますよ」


 と、彼。ならばなぜこんなところにいる。


「店にお客が少なかったし、ちょうど僕の奥さんも帰ってきましたからね。彼女に店を任せて買い出しにきました」

「奥様はどこかに出かけられていたのですか?」

「彼女の本業は大学生ですから」


 気がつけば僕らは並んで歩いていた。


「そうでしたか。それにしても少し余裕を持ちすぎなのでは?」


 あの店はお世辞にも盛況とは言えない気がする。おかげでいつも静かで雰囲気はいいのだが、それでは先行きが不安だ。店は僕も気に入っている。だからこそ、潰れてしまうようなことがあっては勿体ないと思う。


「僕としてはそうでもないつもりなんですけどね」


 彼は苦笑する。


「あの店はね、父の遺産として僕が受け継いだものなんです。だからと言って、決して道楽でやっていけるものでもなく、ちゃんと守り立てていかないといけません。君、何かいいアイデアはありませんか?」

「……」


 素人の僕に聞くかよ。


「コーヒーハウスをご存知ですか?」

「そういう言い方をするところを見ると、単純に喫茶店に類するものというわけではなさそうですね」

「ええ」


 コーヒーハウスとは、1650年のオックスフォードに端を発する、図書室の性質を併せ持ったカフェのことだ。図書や雑誌など多数の蔵書を持ち、客はただそれを読むだけではなく、ときには読書会を開いたり、討論を繰り広げたりもしたのだそうだ。


「かのアイザック・ニュートンもそこで毎日のように常連客と討論し、『プリンキピア』を書き上げるに至ったそうです」


 18世紀初頭には2000軒にまで増え、その後、半世紀に渡ってコーヒーハウスの人気は続いた。


「君はなかなか博学ですね。それに面白そうなアイデアです」


 僕の趣味全開の案に、彼は興味を示したようだった。


「店内に書架を置いて、自由に読める本を並べてみても面白いかもしれませんね。気に入って何度も足を運んでくれる人もいそうです」


 店長と話しながら僕らは住宅街の中を歩き、やがて『天使の演習』へと辿り着いた。


 店の前にはお勧めメニュー(コーヒーとサンドイッチのセットだ)が書かれたチョークアートのウェルカムボードが置いてあった。前にきたときはなかったように思う。


「どうぞ」


 店長が僕のためにドアを開けてくれた。定番のドアベルが鳴る。「どうも」と軽く頭を下げてから、僕は店内へと踏み入った。


「いらっしゃいませ」


 涼やかな声。軽快な足取りでこちらにくるのは店長の奥さんだ。名をキリカさんという。彼女は一度だけ僕の後ろ――店長を見た。


「おひとりですか?」

「あ、いや……」


 僕は店の中を見回した。片手で数えられる程度の客。その中に槙坂涼はいた。窓際の陽当たりのいい席に座っている。


「彼女と待ち合わせを」

「ああ」


 店長夫人は目を細めて納得。


「ごゆっくり」


 とても嬉しそうにそう言われた。この人の目に僕たちはどう映ったのだろうか。


 それから彼女は、店長に「おかえりなさい」の挨拶。その声はどこか幼く聞こえ、振り返り際に見えた表情も、少女のように無邪気だった。


 槙坂先輩がいるテーブルへと着くと、僕はもう一度店長たちに目をやった。ふたりはもうカウンタの中に入っていた。


「ああいう女性が好み? でも、マスターの奥さんよ?」

「わかってるよ」


 言うことはいきなりそれか。


 僕は彼女の向かいに座った。槙坂先輩は今日は僕より一時間早く下校し、家も近いはずなのにまだ制服姿だった。何か本でも読んで待っていたのだろうか。


「彼女、大学生らしい」

「ええ、そのようね」


 知っていたのか。


「何度か話したことがあるわ。かわいらしい方よ。高校を卒業と同時に籍を入れたんですって」

「ふうん」


 と、そこにさっそく店長がお冷やを持ってきた。


「決まりましたか?」

「じゃあ、ブレンドを」


 奥方の話をしていたの聞かれただろうか。陰口ではないので、そこは見逃してもらいたいところだ。


 僕は改めて槙坂先輩と向き合った。


「楽しそうだな」

「わたし、藤間くんと一緒のときはいつもと感じがちがうんですって。自分でもその自覚はあるわ」

「自分を知ることはいいことだ」


 世の中には己の気持ちすらも謀るようなやつがいるからな。


「さて、何の話からはじめる?」


 僕は自ら口火を切る。


「わたしたちの出会いと再会について」

「……いつだ?」

「とぼけて」


 くすくすと笑う槙坂先輩。


 もちろん、とぼけてなどいない。予想通りだ。彼女の昼間の言動からして、この話題しかないと思っていた。その上で問うのだ。いつなのか、と。


「あれは去年の四月だったわ。前期にとる授業も決めて、学生課に履修届を出そうとしたときに呼び止められたの。新入生の男の子よ。先輩はどの授業を取られるんですか。よかったら履修届を見せてくださいって」

「……」

「勇気がある子だと思ったわ。普通そんなふうに堂々と聞いてこないもの。だから、思わず見せてあげたの。……覚えてる?」

「もちろん。むしろそれはこっちの台詞さ。覚えてたのか」

「忘れるわけがないわ」


 あれは自分でも失敗したと思った。

 最大の失敗だ。


「でも、後でわたしは腹が立ったの」


 彼女はむっとした調子で言う。


「なぜ?」

「それっきりだったからよ」

「……」


 黙り込む僕のところに、店長がブレンドコーヒーを運んできた。


「お待たせしました。……どうぞごゆっくり」


 僕はさっそくミルクピッチャーからミルクを適量垂らし、ひと口飲んだ。美味い。これで値段もほどほどなのだから、こんなに得なことはない。


 向かいでも槙坂先輩が、まだ残っていた自分のコーヒーに口をつけ――先を続けた。


「楽しみにしていたのよ? また声をかけてくれると思ってたのに、結局それっきり。授業だって一緒なのは週に二回だけ。少し腹が立ったわ」


 小さく、そして、かわいらしく鼻を鳴らして一拍。


「でも、わたしはそのころから藤間くんに興味をもっていたわ」


 そして、懐かしむような口調でそう言う。




「だから、よくあなたを見ていた」




「え?」

「気がつかなかったでしょう? 悪いけど、そこはわたしのほうが一枚上手よ」


 槙坂先輩は勝ち誇るわけでもなく、いたずらっぽく笑う。


「藤間くんが気がつかないうちに、わたしは気がついた。何を? それはわたしがあなたを見ているように、あなたもわたしを見ているということ。藤間くんはあの日たまたま声をかけてきたわけじゃない。最初からわたしに興味があった。ちがう?」

「自惚れだな」

「自信よ」


 彼女はそれこそ自信たっぷりに言い切る。


 結局、僕は質問に答えていない。しかし、この場合、それは即ち肯定であるともとれる。


 あのとき僕は、授業云々は槙坂涼に接触するための丁度いい口実だと思ったのだ。それを話題にして彼女に接触し、その反応を見るのが目的だった。だが、まさか彼女が前述の如くそこまで不可侵だとは予想外だった。たかだか履修科目の話なのに。それとも傍若無人な美沙希先輩のそばにいるせいで、僕の感覚が狂っていたのだろうか。


 結果、それは思いがけず印象に残る行動となってしまい、以後、僕は彼女が忘れてくれることを期待して、できるだけ目立たないようにしてきた。


「それなのにあなたは、わたしなんかに興味がないと言ったわ。そんなはずないくせに」


 浮田と話していたあのときだな。やはり聞こえていたのか。


「それで僕に近寄ってきたのか?」

「ええ」


 彼女は笑顔で首肯する。


「忘れているみたいだから思い出させてあげようと思ったの。あなたはこの明慧にきたときから、わたしに興味をもっていたのよって。ちょっとしたゲームをしながら、ね」


 あのときのことを覚えていない振りをして近づき、言葉の端々で覚えていることを匂わせる。まるで追い詰めるようにして。


 そんなお遊びゲーム


「どう? これでもまだ認めない気?」

「……」

「……」


 しばらく根競べのように見つめ合った後、僕は深く息を吐いた。


「わかった。認めよう。僕は最初から槙坂涼という人間に興味があった」


 それくらいなら認めるさ。


「それで――こうしてあなたの思惑通りに認めてしまったわけだが、この後はどうする? まさしく遊びは終わり、だ」


 思い出されるのは、昼間授業中に居眠りをしたときに見た夢。


 Game is over.

 ゲームが終われば……。


 僕は彼女の返事を待つ。


「そんなの決まってるわ」




「遊びが終わったら、本気の恋愛をするだけよ」




「だって、わたしはあなたのことが好きで、あなたはわたしが好き。――でしょう?」

「自惚れだな」

「自信よ」


 またもきっぱりと言い切る。


「わたしは槙坂涼だもの」


 確かに自信だ。


「そこまで言われたら僕の負けだな」


 僕は肩をすくめ、苦笑した。


 どこかほっとしている自分がいる。それも二重の意味での安堵だ。

 僕の負け? いえ、残念ですが槙坂先輩、どうやら状況は僕の望むものであるようですよ。




 ――。




 僕たちは会っている。去年ではなく、もっと前に。もちろん、僕としては忘れてくれていて好都合だった。なにせ、そのときの僕は少々恰好悪い姿をしていたのだから。


 槙坂先輩の思惑通り僕は、その言葉の端々から彼女が少なからず前のことを覚えていると気づき、やがて確信した。それなら仕方がない。結局のところ最大の問題は、それがどの時点からなのか、だった。槙坂先輩から近づいてきて思いがけず親しくなって 記憶を呼び覚ますきっかけになりそうな場面もあった。だが、それでも彼女は僕たちの本当のはじまりを思い出さなかった。


 僕は悟られないよう密かに胸を撫で下ろす。向かいでは槙坂先輩が相変わらず微笑を浮かべていた。


 が、そこで気づく。

 いつの間にかその笑みの質が変わっていることに。


 例の、天使の顔をした彼女の、悪魔の笑みだ。


 僕がそれに気づいたのを読み取った槙坂涼は、そのままゆっくりと両肘をテーブルに突き、組んだ指に顎を乗せて言葉を紡ぐ。




「わたしたちのの話はこれでお終い。じゃあ、?」




 まるで愚かな人間が契約書にサインをした後の悪魔の笑みだ。


 すべては彼女の思い描いた通りの流れ。

 僕の中にあった勝利の確信は、一瞬にして無残に飛び散った。


 槙坂先輩を見つめる僕は、かなり間の抜けた顔をしていたにちがいない。そして、そんな僕に視線を返す彼女は、仕掛けた最大のいたずらが成功して満面の笑みだった。


 ああ、これはあれだ。スマートフォンに入っているのと同じ。




 あの日、見た瞬間に僕を魅了した小悪魔の笑みだ――。

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