第10話

 月曜日。


『明日、さっそく学校で妙な噂が流れたりしてな』


 美沙希先輩のそんな不吉な予言に嫌なものを感じながら学校に行けば、しかし、特に変わった様子は見られなかった。どうやら美沙希先輩の、そして、僕の単なる考えすぎだったようだ。


 月曜日の一時間目は各クラスでのホームルーム。


 ここ、明慧学院大学附属高校では単位制が導入されていて、生徒がある程度自由に授業を履修できる。が、それでもクラスというものは存在していて、英語や体育などの必修科目はこのクラス単位で受けることになっている。


 所定の小教室で浮田とかいう名前のクラスメイトと雑談を交わしてみても、槙坂涼の熱烈なファンであるこいつの口から新しい話題が上るようなことはなかった。


 二時間目からは通常の授業。行った先の教室ではほかのクラス、ほかの学年の生徒が入り混じるようになるが、この授業には知り合いがいない。僕はいつものように本を読みつつ周りの雑談に耳を澄ましていたが、やはり噂の類が飛び交っている様子はない。


 ここまできてようやく僕は人心地ついた。ほっとする。

 いよいよ杞憂だったようだ。


 だいたいにして、そんな噂が流れるはずがないのだ。美沙希先輩によれば涼がわざわざ見つかるよう画策したとの予想だが、しかし、結局は唯一の目撃者である伏見先輩には彼女自身が口止めをしている。


 こうやって筋道立てて否定してみるのだが、しかし、それでも不安は拭えない。もうひとり言い振らしそうな人間に心当たりがあったからだ。


 三時間目の授業の前、僕は先生を待ちながら、一抹の不安を抱えつつスマートフォンを手で弄ぶ。


 端末には手帳型のケースがついている。今まではクリア素材のハードケースだったので、画面を見るのに『フタを開ける』という動作を挟むことに不便を感じる。でも、これは昨日槙坂涼とデートをして、お互いにプレゼントし合った記念品のようなものだ。しばらくはこれをつけていようと思う。


 涼はこれと色ちがいの赤。それをつけたスマートフォンを持って、今もどこかの教室にいるのだろう。そう考えると思わず不安を忘れて不思議な気分になる。


 と、そのとき。


「うっす」


 浮田だった。こいつとは一時間目に会い、二時間目で一度別れて、再度合流。ひとりひとり時間割りのちがう明慧ではこういうことは珍しくない。


「聞いたか?」


 浮田は隣の席に座りながら切り出してきた。




「我らが槙坂先輩、昨日遊園地でデートしてたんだってよ」




「……」

「どうした? 急にスマホしまって。って、お前さん、ケース替えたの?」

「まぁ、気にしないでくれ」


 僕はスラックスのポケットに端末を突っ込みながら返した。どうやら浮田は小さくプリントされた遊園地のマスコットキャラには気づかなかったようだ。……しばらく人前では使えないな。


「で、槙坂先輩のデートの相手ってどんなやつなんだ?」


 こうなってしまえば僕が気にしなければいけないのは、まずそこだ。


「それがはっきりしないんだよ。明慧の生徒じゃないのかもな」

「……そうか」


 まぁ、そうだろうな。僕だと知られていたのなら、浮田が会うなり僕の首を絞めにかかったはずだ。僕の名前は挙がっていないようで安心した。


「まさかと思うが、藤間じゃないだろうな」

「僕が? どうしてさ?」


 ナチュラルにすっとぼけながら問い返す。


「お前、最近何かと槙坂先輩と一緒にいるじゃん」

「ちょっとしたきっかけでお互いの顔を知って、よく話すようになったのは確かさ。でも、休日に会うほどじゃない」

「だよな? もしお前だったら嫉妬のあまりボコボコにしてるよ、俺」


 くるならきてみろ。僕も浮田なら遠慮なく過剰防衛ができる。その昔、「相手が三人までなら勝てるようになれ」と美沙希先輩が無茶なことを言ってくれたが(そして、僕もそれに応えたが)、こいつが五人でも負ける気がしないな。尤も、中学生のころじゃあるまいし、よっぽどのことがないかぎり今は喧嘩などしないが。


 そこでチャイムが鳴った。もう間もなく先生がくるだろう。浮田が前を向いて座り直す。


「いったい相手は誰なんだろうな」

「さぁね」


 本当に。誰だろうな、こんな噂を流してくれたのは。


「……」


 もちろん、僕はその最有力容疑者を知っている。まず彼女しかいないだろう。僕は浮田に気づかれないように小さくため息を吐いた。




                  §§§




 そのまま浮田とは昼休みまで一緒で、そこからさらに成瀬、礼部さんといった面々と合流して学食で昼食をとった。当然のように話題は槙坂涼についてで、特にいつも以上に興奮している浮田は非常に鬱陶しかった。


 ――そうして今、僕はひとりで次の教室に向かっていた。


「まったく。よけいな噂を広めてくれる」


 思わず愚痴がこぼれる。尤も、僕に直接の被害があったわけではないが。


 と、そこで前方に女子生徒の集団に見知った人物が混じっているのに気づいた。車椅子の後ろ姿。その右にふたり、左にひとりの横一列で、講義棟と講義棟を結ぶ小道いっぱい広がって歩いている。もちろん、車椅子は伏見唯子先輩だ。涼は一緒ではないようだ。


 話の内容まではわからないが、楽しげな笑い声が聞こえてくる。話題はやはり槙坂涼の例の噂だったりするのだろうか。


「伏見先輩」


 僕はふと思いついて、後ろから早足で追いつき、呼びかけた。伏見先輩はハンドリムを回していた手を止めて車椅子を停止させると、腰をひねって振り返った。同時にほかの三人もこちらを向く。


「お、藤間君じゃん」


 彼女は僕を見るや明るい笑顔を見せた。快活なスポーツ少女然とした人だ。


「どうも。ちょっと話があるのですが、少しだけいいですか?」

「ん? ああ、そういうことね。いいよ」


 頭の上にクエスチョンマークが飛んだのは一瞬だけ。すぐに何のことかわかったらしく、快諾の返事が返ってきた。友達には「先に行っててくれる」と言って先を歩かせると、僕と伏見先輩はその後ろをついていくようにして歩き出した。ゆっくりと歩を進め、前のグループとある程度距離が開いたところで僕は切り出す。


「例の話、先輩の耳にも入ってますか?」

「そりゃもちろん。さすが涼さんだよね。誰だってデートくらいするのに、それが涼さんだともう大騒ぎ」


 伏見先輩は嬉しそうに語る。一挙一動すべてが話題になってしまう友達がいて嬉しいのかもしれない。


 彼女はハンドリムを回して車椅子を進める。膝の上にテキストやノートを乗せているのだが、ぱっと見て二教科分ありそうだ。二時間続けて同じか、近い教室で授業があるのだろう。たいていの生徒もロッカーから遠い教室で授業が続くときはそうする。移動が不便な彼女なら尚更だろう。かく言う僕も、今日は午後の授業がふたつとも同じ講義棟であるので、二教科分のテキストを持っている。


「まさかとは思いますが、伏見先輩ではありませんよね?」

「言い振らしたの? あったりまえでしょー! 涼さんに言わないでって頼まれてるのに」

「ですよね」


 僕とて本当に伏見先輩だと思っているわけではない。いちおう念のための確認だ。


「でも、いったい誰だろうね。うちのグループの誰かだったら、見たその場で大騒ぎしてるだろうし」

「……」


 彼女はハンドリムを回す手を止めて、慣性の力に任せて進みながら首を傾げた。すぐに車椅子の速度が落ちてくる。その横で僕は何も言わないでいた。もちろん、見当がほぼついているからだ。


「……ほかにも明慧の生徒がいたのかもしれませんね」

「かもねー。それか、うちの関係者じゃないけど涼さんのことは知ってる、とか? 涼さん、このあたりじゃ超美人の高校生として有名だから。時々他校の生徒も見にくるし」


 槙坂涼にまつわる逸話としてそういう話も聞いたことがないわけでもないが、本当なのだろうか。もしそれが本当なら、いちおうその線も考えられるな。情報伝達の速度が速すぎる気もするが


「どちらにしても、藤間君にはラッキーだったよね。涼さんを見た人は藤間君のことは知らなかったわけでしょ?」

「そういうことになりますね」


 犯人があえて伏せていたのかもしれないが。……すでに犯人呼ばわりしている自分がいるな。


「誰も涼さんと一緒にいたのが藤間君だとは思わないだろーねー」

「でしょうね。僕ですらこんなことになるとは思っていませんでしたから」


 苦笑せざるを得ないし、実際、僕は苦笑した。


 入学してから知った槙坂涼という人物は容易に近づける相手ではなく、もうずっと遠くから眺めているだけのつもりだったのだけどな。


「本当のことを知ってるあたしとしては、言いたくてうずうずしてるんだけどね」

「……」


 いちばん危険なのは、やはりこの伏見先輩のような気がしてきたな。


「前から聞きたかったんだけど、涼さんと藤間君っていったいナニつながり?」

「さぁ? 何なんでしょうね」


 それは僕も知りたい。いったいいつのことがトリガーになったのか。彼女が僕に接触してきた直前の何かなのか、入学直後のか。それとも……。


 僕たちの前を歩くグループが右手の講義棟4のほうへと向かった。伏見先輩も当然そちらなのだろう。僕はその反対の講義棟3だ。この辺で話を切り上げよう。聞きたいことは聞いたし。


「きっと涼のきまぐれですよ。そのうち飽きたら捨てられると思いますよ」


 僕は笑いながらそう言って、伏見先輩と別れた。




                  §§§




 今日、月曜日は本来なら涼と会うことはないはずだった。例の噂で持ちきりの今は特に、下手に会えば周囲によけいな勘繰りをされてとばっちりを喰らう羽目になりかねないので、僕も彼女の姿を探すことはしていなかった。


 講義棟3の前には、自販機コーナーとベンチがある。


 今、僕はそこで缶コーヒーを飲んでいた。ロッカーに戻る必要がなく、近くの教室に移るだけだと十五分の休み時間は少々長い。時間潰しだ。こんなふうにのん気にベンチに座っている生徒は僕以外にいない。皆、かぎられた時間で次の教室に行こうと、忙しなく行き来している。たまにこの自販機コーナーにくる生徒もいるが、何か一本買ってすぐに行ってしまう。


 僕もこれを飲んだら教室に戻ろう――そう思ったときだった。


「だーれだ」


 不意に僕の視界が真っ暗になった。どうやらひとりこっそり近寄ってきたのがいたようだ。この声は間違えるはずがない。


「人の姿をした悪魔」

「……このまま指を目に押し込んでやろうかしら」

「オーケイ。僕が悪かった」


 そんなことをされたら目の疲れが取れるどころの騒ぎではない。


 直後、再び視界に光が戻った。腰をひねって見上げてみれば、そこにいたのは当然のように黒髪ロングのオトナ美人、槙坂涼だった。


「あなたって、わたしのことをそんなふうに見てたのね」


 彼女は呆れたようにそう言う。……人の目を抉ろうというやつが、悪魔でなくて何だというのか。


「りょ……」


 危うく名前を呼びかけて、誤魔化すように咳払いに切り替えた。思わず周りに目をやる。行き交う生徒がちらちらとこちらを見ていた。


 そんな僕を見て涼、もとい、槙坂先輩は大人っぽく笑う。


「わたしは涼でもいいのよ、真」

「あれは昨日だけのはずですよ、槙坂先輩」


 僕はむすっとして言い返し、そのまま黙り込んだ。


 槙坂先輩はくすくす笑いながら前に回り、僕が座っているところから九十度写した位置のベンチに腰を下ろす。ベンチが直角に置かれているのだ。


「会いたかったわ。それなのにずっと質問攻めで会いにこられなかったの。どうも昨日のデート、誰か見てたみたいなの。大変だわ」


 そう言って頬に掌を当て、ため息を吐く槙坂先輩。……わざとらしい。ため息を吐きたいのはこっちだ。




「何を言ってる。あなただろう、その噂を流したのは」

「ええ。もちろん」




 彼女はけろっとした顔で、あっさり認めた。惚けたり誤魔化したりする気はないらしい。


 要するにそういうことだ。情報の発信源は目撃者ではなく当事者。それなら伏せたい部分も思いのままだ。


「でも、どうにも辻褄が合わないところがある」

「あら、何?」


 彼女は興味深げに聞き返してくる。


「昨日のことはぜんぶ人に目撃させるためだった」

「ええ、その通りよ」


 そこまでは正解――と、まるで生徒の解法を聞く教師のように、微笑みながらうなずく。


「そのお膳立てをしたわりには伏見先輩には口止めして、結局は自分で噂を流している。これでは一貫性がない」

「ああ、そのことね。思い出したのよ」


 思い出した? 何を?


「よくよく考えたら唯子は話好きだけど、知らず知らずのうちに誇張してしまうところがあるの。噂の出どころになってもらうには少し不向きね」

「……」


 それは恐ろしいな。やはりあの人は危険人物だったか。


「それに実験をしてみたくなったの」


 と、槙坂先輩は妙なことを言い出す。……実験?


「ここで問題です。今日わたしが受けた質問の中でいちばん多かったのは何でしょう?」

「うん?」


 今日の槙坂先輩は心なしかテンションが高いなと思いつつ、僕は考える。


 男なら槙坂涼がデートなんて信じたくないから『あの噂は本当なのか?』だろうか? 女の子ならさらに突っ込んで『相手は誰?』あたりか?


「時間切れよ」




「答えは『一緒に行ったのはやっぱり藤間くん?』でした」


 


「ぶっ」


 思わず噴いた。


「ちゃんと否定してくれたんだろうな?」

「残念だけど、わたし嘘は苦手なの」

「……待て」


 してないのか? それにどの口でそんなことを言うか。四六時中悪巧みばかりしてるくせに。


「いつも通り『想像に任せます』って言っておいたわ」

「……」


 積極的に肯定はしていないわけか。そうやって相手の反応を見て楽しんでいるのだろうな。


「どうする? わたしたちつき合ってると思われてるみたいよ」


 可笑しそうに笑いながら言う槙坂先輩。


 実験とはつまるところその調査だったわけか。


「どうもこうもないさ。勝手に勘違いさせておけばいい。もちろん、そうかと問われたら僕は否定はするけど」

「本当につき合うという選択肢はないの?」

「ないね」


 そこはきっぱり主張しておく。


「相変わらず強情ね」


 ほっといてくれ。僕はヤケクソ気味に缶コーヒーを煽り、間、槙坂先輩は真顔でじっとこちらを見ていた。怒ったのだろうか。


 が、


「ねぇ。そのコーヒー、ひと口飲ませてくれない?」


 人の心配をよそにそんなことを言い出す。そんなことできるか。


「気づいていないかもしれないが、実はそこに自販機があるんだ。喉が渇いたのならそこで何か買うといい。ああ、よかったらお金も僕が出そう」

「そんなにはいらないもの。いいから貸しなさい」


 槙坂先輩は腰を浮かして手を伸ばすと、僕の手からさっと缶を奪った。再びもとの位置に戻り、一瞬の躊躇もなく缶に口をつけた。こくり、と喉が鳴る。僕はそれを黙って見ていた。


「こういうのって間接キスっていうのよね」


 いたずらっぽく笑う槙坂先輩。


「らしいね」

「でも、実感がないわ。本当のキスの経験がないから?」


 知るか、そんなの。


「はい」と戻ってきた缶を受け取り、僕もそれを飲む。


「あなただって躊躇いもなく飲むんじゃない」

「まぁね。それこそご大層な名称ほど実感があるわけでもなし」


 嬉々として口をつけてもそれはそれで変態くさいが、眉をしかめて缶を睨むほど潔癖症でもない。


「そんなことができて、昨日はデートもして。もうつき合ってるようなものじゃない」

「それとこれとは別。僕にも認めたくないものがある」

「きらわれたものね」


 肩をすくめる槙坂先輩。


「もういいわ。それじゃあね、天の邪鬼さん」


 ツンとした口調でそう言うと、彼女はベンチから立ち上がってスタスタと歩いていってしまった。


 予想外の展開に呆然とする僕。


「今度こそ怒らせた、か……?」


 槙坂先輩の後ろ姿が見えなくなってからつぶやいた。


 コーヒーの残りを一気に飲み干し、空になった缶をゴミ箱に投げ込んだ。くそ。別にきらってるわけじゃないんだけどな……。自己嫌悪。調子に乗りすぎたか。


 と、不意にスラックスのポケットの中でスマートフォンが鳴った。音声通話だ。誰だ、こんなタイミングで。口に出さずに毒づきながら端末を引っ張り出せば、ディスプレィには槙坂涼の名前が。


「……もしもし」


 何を言われるやら、と警戒と覚悟をもって電話に出る。




『怒ったと思った?』




 いきなりそれだった。

 あのな……。


 ちょっとほっとしたのも確かだが。


『大丈夫よ。怒ってないから。でも――』


 直後、プツリと通話が切れた。


「……」


 これも悪戯だろうか。確かにこんな切られ方をしたら続きが気になるが。


 ――また端末が鳴った。


 今度はメール。いま切ったばかりの涼からだ。メロディが鳴り終わらないうちにそれを開くと、そこには――。




『そろそろ遊びは終わりにしましょう?

 明日の放課後、例のカフェで待っています』

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