第4話<4>

 毎日歩いているはずのマンションの廊下は、どことなくいつもとちがって見えた。


 槙坂先輩が一緒にいるからだろうか。


 いや、確かにそれもあるかもしれないが、それは表面的なものに過ぎない。本当の理由はもっと奥、今ここに彼女がいる意味にあるにちがいない。初めての行為の後は景色がちがって見えるというのはよく聞く話だが、どうやらその前にも起こるらしい。


 逆説的な考えになるが――そうするとこの先に待ち受けているのは、間違いなくそういう流れということか。


 ドアの鍵を開けて中に這入り、リビングまで進んだ。夕闇に飲まれかけていた室内の照明を点ける。ついでにすぐそばにあるスイッチも押すと、開け放たれたままだったカーテンも自動で閉まっていく。


「どうする?」


 槙坂先輩はここまで黙ってついてきた。


「コーヒーでも淹れようか?」

「ううん。それより先にお風呂に入らせて」


 この後のことを否応なく連想させる発言に、僕はぎょっとしてしまう。


 だが、槙坂先輩には少なくとも今の言葉に他意はなかったようで、苦笑しながら言葉を継いだ。


「さすがに少し寒くなってきたもの。それにこのまま濡れた服を着てもいられないでしょ?」

「あ、ああ。そうだな」


 それもそうか。いくら夏とは言え、服が濡れたままでは体も冷えてくる。一度湯に浸かって温めたほうがいいだろう。


「使い方はわかるか?」

「大丈夫よ。前に一度使っているもの」


 そうだったな。


 僕は風呂場の中をさっと確認する。特に異常なし。それから脱衣場の戸棚からバスタオルを出す。以前槙坂先輩が使ったのと同じものだ。まだいくつか新品があるが毎度毎度新しいものを出してこられても気が引けるだろう。ついでに自分のタオルを手に取ってから戻った。


「洗濯機も使わせてもらうわね」

「ああ」


 出てきた僕と入れ違いに、槙坂先輩が脱衣場へと入っていく。僕はタオルで髪を拭きながら、その姿を見送った。


 私室でラフな部屋着に着替え、リビングに舞い戻る。


 キッチンでコーヒーメーカーをセットした後、ソファに身を沈め、ため息にも似た長い息を吐き出した。が、それでも気持ちはぜんぜん落ち着かない。いくつかドアを隔てたその向こうで、彼女が風呂に入っているからだろうか。槙坂先輩が言うように、前にも彼女は同じことをしているのだが、あのとき僕は熱を出して眠っていた。実質、こんな状況はこれが初めてだ。


 あの槙坂涼が僕の部屋で風呂に入っているだって? 悪い冗談だ。そう思いたいが、しかし、これは間違いなく僕の意志だ。僕が望んだことだ。


 静寂を埋めるためにテレビを点け、僕はくだらないことを考えはじめる、


 さて、行為の知識とはどこで得たのだったか。


 気づけば知っていたように思う。メディアで知って衝撃を受けた覚えはない。学校で性教育の時間はあったが、中学のときは通り一遍のもので、多少突っ込んだ話をした高校のときにはすでに知識はあった。友人からだろうか? 周りよりひと足先にそういう知識をもっていたやつは何人かいたようだが、知らない友人にわざわざおしえるような悪趣味なやつはいなかった。


 やはり種を残すための知識は、本能や遺伝子からくるということか。本能で漠然と理解していたからこそ、メディアは知識の補強でしかなかったのだろう。


 そんなどうでもいいことをつらつらと考えているうちにコーヒーができ上がった。コーヒーメーカーの電子音がそれを伝えてくる。特に味を楽しもうと思って淹れたものでもなかったので、コーヒーをマグカップに注ぐと、そこに適当な量の牛乳をぶち込んで飲む。


 ソファに戻ったあたりで忘れていた蒸し暑さを再び感じはじめ、エアコンのスイッチを入れた。


 ただ何かをしていないと落ち着かないからという理由だけでぬるいコーヒーを飲んでいると、脱衣場のドアが開く音が聞こえた。どうやら無意識のうちのテレビのボリュームを普段より大きくしていたらしいのだが、にも拘らずその音は明晰に僕の耳に届いた。


「……お待たせ」


 現れた槙坂先輩は体にバスタオルを巻いただけの姿だった。


 湿ったバスタオルが貼りつき、彼女の体を隠してはいても、起伏に富んだその体のラインはまったく隠せてはいなかった。首から肩、腕にかけての見えている部分も、風呂上りで血色がよくなっているせいか、昼間に見たときとは比べものにならないくらい艶めかしく見えた。


 単純な露出度ならプールに行ったときの水着のほうが上だ。だが、今は大部分を覆ってはいるが、それはタオル一枚だけの頼りないもの。その危うさが僕の呼吸を止めそうになる。


 手に持ったマグカップを落としかけ、ようやく気づいた。洗濯機に服を放り込んでしまえば、こうなるのは当然のことだ。


「悪い。気が回らなかった。何か着れるものを持ってくる」


 目を逸らさねばという思いもあったので、僕は慌てて立ち上がり、私室へと体を向けた。とりあえずTシャツでいいだろうか。


「待って」


 しかし、呼び止められる。


「その……藤間くんさえよかったら、もう……」


 消え入りそうな声で言う槙坂先輩。


 すでに足を止めていた僕だが、このひと言ですべての動きが止まってしまう。一緒に心臓まで止まってしまいそうな致死量のひと言だ。


 背中を向けたままで僕は問う。


「……本当に、いいのか?」

「そのつもりでここまできたのよ?」


 彼女はさっきよりもはっきりした口調に、かすかに笑みすら含ませていた。


 意を決して振り返れば、変わらずバスタオル姿の槙坂先輩がそこにいた。意志は固そうだった。ならば、僕だってもう迷ってはいられない。


「寝室はあっちなんだ」


 そんなことわざわざ言うまでもなく彼女は知っているはずだ。僕が風邪をひいて槙坂先輩が泊まったあの日、僕がそこに出入りしているのを見ているのだから。


 彼女の手を引き、寝室へと這入る。


 空いている手で真っ暗な部屋に明かりを灯した。


「ごめんなさい。恥ずかしいから電気は……」

「……わかった」


 点けたばかりの照明を消し、代わりに別のスイッチを入れた。部屋の隅にある間接照明だ。僕が寝るときに点けているもので、睡眠の邪魔にならない程度の光量しかない。これには彼女も何も言わなかった。


 ベッドに並んで腰を下ろす。

 腰をひねるようにして向かい合えば、お互いの顔ははっきりと確認できた。


 どちらからともなく唇を重ね――そのままベッドに倒れ込んだ。僕が押し倒したのか、彼女が引っ張り込んだのか。それとも暗黙の裡によるふたりの呼吸だったのか。


 互いに貪るように、息も絶え絶えになるほど唇を奪い合う。


 彼女の体を覆っていたバスタオルはいつの間にかなくなっていた。僕が剥ぎ取ったのか、乱れているうちにはだけてしまったのかは覚えていない。露わになった彼女の肢体を、僕は丁寧に触れていく。やがて槙坂先輩の呼吸の中に切なげなものが混じりはじめ、押し殺すように喘ぎ出した。


 そこから僕の中では、知識と好奇心のせめぎ合いだった。


 どこかで得た幼い知識と、その知識しか裏打ちのない拙い指使いで彼女を導きたいという思い。その一方で、どこに触れたらどんな反応を見せてくれるのだろうという好奇心――ある種の嗜虐心があった。


 行為をはじめてから、一切言葉はなかった。そんな余裕もなく、ただただ夢中で僕は槙坂先輩の体を求め、彼女もそれに応じてくれる。


 やがて初めての言葉が彼女の口から発せられた。


「……きて」


 暗闇の中、槙坂先輩はその潤んだ瞳の中に僕の姿を映しながら、そう囁いた。いや、本当にそう言ったのだろうか。口がそう動いただけかもしれないし、ただの僕の錯覚だったかもしれない。


 でも、それが合図だった。


 僕は彼女の中心をゆっくりと貫いた。


 まるでそれは光の中に飛び込むような感覚で、僕の意識はその光に溶けていくようだった。


 今度は理性と本能の間で揺れる。


 僕の前に苦しみに耐えるような槙坂先輩がいた。僕が与える刺激に合わせて戸惑いながらも艶めかしく喘いでいた先ほどとはちがい、今は透明できれいな何かの結晶のような涙が目尻に浮かんでいる。苦痛が過ぎ去るのをただじっと待っているような。そんな彼女を見て大事に扱わなくてはいけないと思う反面、欲望のままめちゃくちゃにしてしまいたいとも思ってしまうのを抑えられなかった。


 正直、後のことはよく覚えていない。


 ただ、絡み合う中で何かの拍子に槙坂先輩が身を起こしたとき、乱れる彼女の裸身がカーテンの隙間から差し込む月明かりに浮かび上がり、それが息を飲むほどきれいだったのを鮮明に覚えている。


 次第に僕たちは、動きも呼吸も、何もかもが重なっていった。

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