第4話<5>
初めての行為は、無我夢中のうちに終わった。
僕はベッドの上で突っ伏し、隣では槙坂先輩が仰向けで身を横たえている。ふたりとも息が上がっていて、呼吸に合わせて体を大きく上下させていた。
「意外に疲れるものね」
少しずつ呼吸が整ってきた槙坂先輩が、可笑しそうにそんなことを言った。
この疲れの多くは、肉体的なものではなく、初めてする行為への緊張によるものだろうと思う。
「藤間くんが風邪をひいているときにしなくてよかったわ」
「ちょっと待て」
なんだその不穏な発言は。
あのとき、何もしないという約束で美沙希先輩が許可を出したんじゃなかったか? 普通、女性にさせる約束ではない気もするが。
「美沙希は期待してたみたいよ。わたしたちの間で何かあること」
「……」
何を考えているんだろうな、あの人は。僕を殺したいのだろうか。まぁ、どちらかをけしかけたわけじゃないから、本当に期待していただけなのだろうけど。
「ああ、忘れていたわ」
不意に槙坂先輩が声を上げた。
「ベッドの上くらいは名前で呼び合いたかったのよね」
「……」
正直なところ、そんな余裕は皆無だったな。僕だってこういうときは甘い言葉が交わされるのだと思っていた。だが、実際にはそんなのはどこにもなく、ただただ夢中だった。
「ねぇ、次はそうしてくれる?」
疲れ果ててまだ伏せたままだった僕の背に彼女がのしかかってきて、耳元で囁く。
「ッ!?」
いろんなことに驚いてしまった。
不意打ちみたいにして肌と肌が再び触れ合ったこともそうだが、次なんてものは考えてもみなかった。普通に考えれば、これで終わりではない。互いの気持ちが重なれば、またこうしてするのだろう。
「知るかよ、そんなこと」
僕は今さらながら、とんでもないことをやらかしてしまった気がして――槙坂先輩を払いのけると、タオルケットを引き寄せ背を向けた。
くすくすと槙坂の笑い声が聞こえてきた。
§§§
目が覚めると朝だった。
どうやら疲れと緊張による消耗で、あのまま僕は泥のような眠りについてしまったらしい。
隣に彼女の姿はなかった。先に起きているのだろうか。僕は床に散らばっていた服を着ると、寝室を出た。
「あら、おはよう」
迎えてくれたのは明るい調子の槙坂先輩の声と、ほのかに卵を焼く香り。――かくして、キッチンに彼女はいた。朝食の準備をしていたらしい。
「お腹すいてるでしょう? 昨日、結局夕食も食べずに……だったから」
「あ、ああ、そうだな」
それはいいのだが――、
「なんて恰好をしてるんだ……」
彼女はカッターシャツを着ていた。胸のポケット部分に明慧の校章の刺繍入り。間違いなく僕のだ。
そして、それだけ。
着ているのは、それだけだった。
いや、待て。
「ああ、これ? 着るものがなくて。何か借りようと思って藤間くんの部屋を覗いたら、ハンガーに吊るしてあったから」
「……」
確かに学校が夏休みに入ってからも、カッターシャツはハンガーにかけて壁のフックに吊るしたままにしてあったが――まぁ、あちこち探られるよりはマシだと思っておくか。あの部屋には見られたくないものもある。
「それでもそれはないだろう……」
カッターシャツの裾からは、すらりとした足が剥き出しのまま伸びている。そして、素足にスリッパ。
「大丈夫よ。下着は上も下もちゃんとつけてるわ」
「だったらほかも着てくれ」
高層マンションでは洗濯乾燥機は必須アイテム。どれもこれも昨夜のうちに乾いているはずだ。
「ダメよ。スカートもシャツも、まだしわくちゃだもの」
「……わかった。後でアイロンを貸す」
いや、その前に何か彼女でも着れるものを探すのが先か。
僕は改めて槙坂先輩を見る。
さすがに僕のカッターシャツは彼女には大きいらしく、かなりゆったりと着る感じになっている。それが幸いして、裾から下着が見えるようなこともなかった。
「えっと、その、それでもジロジロ見られると、それはそれで恥ずかしいのだけど、ね……」
槙坂先輩は急に居心地悪そうな様子で、さほど乱れてもいないシャツの裾を直し、下へと引っ張ったりしはじめる。
「わ、悪い……」
昨夜あんなことをしておいて、それでも見られるのは恥ずかしいのか。わからない――というのは、きっと安直で勝手な男の理屈なんだろうな。
僕はハイチェアのカウンターダイニングに腰を下ろした。極力彼女を見ないような姿勢を取るが、どうにも落ち着かない気分だった。昨日ついにそのラインを越えてしまったからだろう。料理をする槙坂先輩の背中を盗み見れば、一方の彼女はいたって普段通り。今朝になって僕と顔を合わせても動じた様子はない。ずいぶんと不公平な話だな。
僕はタイミングをはかるようにして口を開く。
「そも、僕は男だからよくわからなくて、これももしかしたら無神経な質問なのかもしれないんだが――体、大丈夫なのか?」
それは兎も角として、初めての行為の後の影響はあったりするのだろうか。少し気になって僕は問うた。
「心配してくれるの? 嬉しい」
ガスコンロの火を止め振り返った槙坂先輩は、無邪気にも見える笑顔を浮かべる。
「そうね。まだ少し違和感があるけど、特に心配はないわ」
「そ、そうか。ならいいんだ」
反応に困る返事が返ってきてしまった。下腹部に手を当てる彼女から目を逸らす。
「ところで――」
と、切り出した槙坂先輩はカウンターダイニングを挟んで僕の正面に立つと、テーブルに両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せた。その構造は今の恰好とも相まって、横から見たらさぞかし色気があるだろうが……やめてくれ。今僕を真っ正面から見るのは。
「わたしに言うことはない?」
その言葉が僕を責めているように聞こえてしまうのは、多少なりとも心当たりがあるせいだ。
行為の最中、僕はできるだけ彼女を丁寧に扱おうとした。でも、それでも僕の中に抑えきれないものがあったのは確かだ。欲望に流されるようにして、彼女のことを十分に考えることができていなかったかもしれない。だから、昨夜のことで彼女にひどい男だと思われている可能性はおおいにあると思う。それどころかひそかに怒っていてもおかしくはない。もしそうなら素直に謝るべきだろう。今後のためにも。
「何をだろうか……?」
僕はおそるおそる聞き返す。
「そろそろ言いたくなったんじゃないかと思ったの」
「今度の旅行のとき、やっぱり部屋はダブルにしないかって」
「……」
……。
……。
……。
「それは、ない」
僕はどうにかきっぱりと言い切った。
「シングルふたつで予約したと言っただろう」
尤も、一瞬今からでも変更が利くだろうかと考えてしまい、そんなことは口が裂けても言えないこと――なのだが、おそらく見透かされているにちがいない。
その証拠にさっきから彼女は、僕の顔を見たまま機嫌のいい猫のように笑っているのだから。
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