第3話<6>
「もちろん、泊まっていくわ」
そう言った槙坂涼の言葉に、僕は別段驚きはしなかった。この展開はとうに読めていたからだ。
むしろ、うんうん、と横でうなずいているこえだと加々宮さんを見て、あぁきっと音頭を取ったのは槙坂先輩なんだろうなと納得と理解をしたものである。
というわけで僕は、食事がすんだらとっととシャワーを浴びて、書斎にこもった。もっと正確に表現すると、立て籠もった。日中の勉強会なら兎も角、泊まりにきた女の子三人に混じるなど冗談ではない。
この書斎は、勉強部屋、寝室に続く、第三の僕の部屋だ。いくつかある書架には趣味や娯楽の本が並び、後は本を置いたり書きものをしたりするための小さな丸テーブルとリクライニングする革張りのイスがあるくらいだ。ここなら時間の使い方はひとつしかないが、朝まで退屈しない。眠くなったらイスを倒してそのまま寝てしまうつもりだ。女性陣には好きにさせておいて、僕はここでひとりのんびりすることにしよう。
しかし、中には放っておいてくれないのもいる。三人とも大なり小なりその傾向はあるのだが、ひとりそれが顕著なのがいるのだ。ドアの向こうから聞こえるこえだと加々宮さんの声に混じって、ノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
そう返事をすると現れたのは、予想した通り槙坂涼だった。
彼女は風呂に入ったのか、英字プリントのTシャツワンピースに着替えていた。ノースリーブに袖をぶら下げたような、肩が剥き出しになるデザインだ。裾からはすらりとした脚が伸びていて、足先にはスリッパ。ワンピースと名がついていても、ボトムの類なしに着るには少々頼りない丈だ。この部屋にイスが一脚しかなくてよかったと思う。
「読書中?」
「まぁね。……こえだ、と加々宮さんは?」
こえだのことを気にしていたせいで、「こえだは?」と聞きかける。それを途中で軌道修正したため、言葉が変なところで切れてしまった。
「みんなお風呂に入って、今は楽しそうにはしゃいでるわ。まるでパジャマパーティね。藤間くんも出てきたら?」
「冗談を。あのふたりだって僕がいたら居心地が悪いだろうさ」
どうかしたら扇情的にも見える恰好しながら恥ずかしがる素振りのないのもいるが。まぁ、今さらか。
僕の返事に槙坂先輩はくすりと笑った。
「そうでもないみたいよ。わたしがせっかくだからみんなで泊まりましょうって提案したら、迷ってたのは少しだけで、すぐに乗ってきたもの。かわいい後輩たちに信頼されてるわね」
やはり諸悪の根源は槙坂先輩だったか。
それはさておき、そのかわいい後輩であるところのこえだは、案外侮れない観察眼の持ち主だったわけだがな。
「ところで、サエちゃんどうかしたの? 夕方、少し様子がおかしかったようだけど」
「……」
やっぱり気づいていたか。だからこそ、あのとき僕とこえだをふたりきりにしたのだろう。
「藤間くん?」
「ああ、悪い」
僕がこのとき考えていたのは、こえだとの約束のことだった。僕が卒業後にアメリカへの留学を考えていることを、できるだけ早く槙坂涼に言う――それがこえだとの約束なのだが……。
(やはり今はやめておくか)
すぐ近くにはこえだと加々宮さんがいる。もう少しタイミングを見ることにしよう。
「あいつ、僕の部屋にあった参考書の量を見てショックを受けたみたいなんだ。二年になったらこんなに勉強しないといけないのかってね」
「そうだったの」
「参考書の類がバカみたいにあるのは僕の要領の悪さ故だって、こえだにはちゃんと言っておいた。よかったら槙坂先輩から勉強の仕方をおしえてやってくれないか?」
「そうね。そのあたりは我ながら要領のいいほうだと思ってるし」
そう言って彼女は苦笑する。
「サエちゃんと一緒に藤間くんもどう?」
「僕はいいよ。そういう要領の悪いやり方が性に合ってるみたいなんでね」
実際、僕は勉強に関しては要領のいいほうとは言えない。高校に入ってからのこの一年半で、細長い書架が参考書で埋まりかけていた。でも、僕はそんな要領の悪い勉強方法が案外気に入っている。巡り巡って後で何かの役に立つことがあるからだ。そのあたりは日々を楽しむためには努力を惜しまないというスタイルに通じるものがあるのかもしれない。
「そう? 残念ね」
「わからないことがあったときには頼りにさせてもらうさ」
と、そこで再びドアがノックされた。
「開いてるよ」
槙坂先輩がここにいる以上、ドアを叩いた主はこえだか加々宮さん、或いは、ふたりともということになる。
入り口付近に立っていた槙坂先輩が脇に退くのと同時、ドアが開いた。そうして顔を出したのは我らがかわいい後輩のふたりだ。しかも、本当に文字通り顔だけ。
「どうした?」
そろりと顔を覗かせるふたりに、僕は声をかける。
するとふたりは顔を見合わせ、呼吸をはかるようにしてうなずき合うと、
「じゃーん」
「どう?」
部屋の中に飛び跳ねるようにして入ってきて、両手を広げてみせる。
こえだは、デフォルメされたハムスターの絵がいたるところにプリントされた水色のパジャマ姿。一方、加々宮さんは濃紺に白の縁取りがされた無地のパジャマだが、日中はツインテールにしている髪を、今は下ろしていた。普段かわいらしさをアピールしているわりには、こうして見ると少し大人っぽい感じがする。
「かわいいんじゃないか、ふたりとも」
パジャマがどうのこうのというよりは、ゆったりめのそれを着ているふたりの姿がかわいらしかった。
「ほんと?」
「やったぁ」
互いに掌を合わせて嬉しそうに笑うこえだと加々宮さん。
「実はこれを見せたかっただけなんですけどね」
そう加々宮さんが照れたように締めくくると、ふたりはまたリビングへと戻っていった。最後にこえだが「ばいばーい」と手を振って、ドアは閉められた。
「なんだ、あれ?」
「だから見せたかっただけでしょ」
笑いをこらえるようにして槙坂先輩が言う。
「大丈夫か、あいつら。僕がひとつしか歳のちがわない同じ学校の生徒だってこと、忘れてるんじゃないか」
「それだけ慕われてるのよ。ふたりともひとりっ子らしいし、無邪気にお兄さんの部屋に遊びにきてる感覚なんじゃないかしら」
「妹なら最近ひとりできたばかりなんだがな……」
まさか一気に三人に増えるとは思わなかった。
§§§
夜は女性陣三人が寝室のダブルベッドを使い、僕がリビングのソファに寝ることになった。こえだも加々宮さんも小柄だし、ダブルベッドなら三人で寝ても大丈夫だろうという判断だ。
ソファで寝ているからか、それともすぐ近くに女の子が三人も寝ているという普段ならあり得ない状況だからか、どうにも寝つきが悪かった。なんでこんなことになったんだったかな、とリビングの天井を見ながら考える。カーテンを通してわずかに入ってくる月明かりと、闇に目が慣れてきたことで、薄ぼんやりと部屋の全体像は見えていた。
ふいに寝室のドアの開く音がかすかに聞こえた。
何の用で出てきたかわからないので、声はかけないほうがいいだろう。僕は誰かを確認することもなく目を閉じ、寝た振りをする。
だが、その誰かわからない彼女は、足音を忍ばせこちらに寄ってきた。
「寝てる?」
槙坂先輩の声だった。
「寝てる」
「そう。じゃあ、せっかくだし、いたずらしちゃおうかしら」
「生憎と今起きたところだ」
僕はソファの上で体を起こす。すぐそばにTシャツワンピース姿の槙坂涼が立っていた。
ソファの空いたスペースに彼女が座る。
「なぜこっちにくる」
「だって、向こうはせまいもの」
「こっちのほうがせまいだろ」
だが彼女はそれ以上何も言わず、また、何をするわけでもなく、ただ座っていた。本当にこのままここで寝るつもりだろうか。
「……」
「……」
何か言ったほうがいいのだろうか。例えば、いつかタイミングを見て言おうと思っている話とか。
が、先に槙坂先輩が口を開いた。
「今日はしないわよ。すぐ向こうにあの子たちがいるもの」
「何のことを言っているのかわからないが……あなたがそれを言うか」
「……」
「……」
「……わたしって、その、そんなにいつもしたがってるように見える?」
何か急に不安に駆られたようだ。
「いや、そこまで言うつもりはないよ。嫌々つき合わされたことはないし、僕も無理強いしたことはなかったと思ってる」
「それはわたしもだわ」
前から何となく思っていた。僕たちにはふとした拍子にお互いのほしいと思う気持ちが重なることがあって、そういうときにだけ行為に及んでいる、と。
そんなときはいつもどちらかが誘うわけでもなく、自然とその流れになる。日ごろから挑発的な言動を吐く彼女だが、あんなものは単なる悪ふざけだ。逆にその気持ちがどちらかにない場合は、彼女が泊まりにきても朝まで何もないまま、ただ一緒に寝ているだけのこともあった。今がちょうどそういうときなのだろう。
「今度は秋休みにひとりで泊まりにくるわ」
「……わかった」
二期制を採用している明慧大附属では前期と後期の間に、一週間ほどの秋休みがある。それだけあれば当然、槙坂先輩が遊びにくることもあるだろうとは思っていた。
「ひとつ言っておくと、こえだ、僕たちがどれくらいの関係か気づいてるぞ」
実際には断言ではなかったが、あの口振りだとたぶん正確にわかっているのだろう。
「……その話、聞かないほうがよかったわ。明日、サエちゃんとどんな顔して会えばいいの……」
肘掛けに倒れ込むようにして頭を抱える槙坂先輩。
「ここで寝てたら誤解されないかしら」
「だったら向こうに戻れよ」
結局、彼女は朝まで僕の隣にいた。
しかしながら、こえだや加々宮さんに白い目で見られることや誤解されることもなく、かと言って逆に妙な理解をされることもなかった。そうして三人の少女は朝食をとって帰っていったのだった。
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