第4話

 こえだが必要以上に心配していた前期試験が無事終わり、秋休みを経て、今年度のカリキュラムは後期に突入した。


 新しい学期がスタートすると、まず最初にしなければならないのが履修する授業を決めること。つまり、履修届の提出だ。


 そして、ここ明慧学院大学附属高校においては、この履修届は悪名高い。


 ただでさえ自分がこの半期に受ける授業の時間割りを、単位やら必修科目やらを考えながら組み立てないといけないのに、そこに加えて届の書き方がわかりにくいのだ。そのせいでいつもこの時期になると頭を抱える生徒の姿がそこかしこで見られる。


 とは言え、履修届のおかげで過去いろんなことがあったのも事実だ。こえだと仲よくなったりだとか、誰かさんにうっかり声をかけて墓穴を掘ったりだとか。


 さて、僕と浮田は今、昼食をとった後の昼休みの残り時間を利用して、そのまま学食のテーブルで後期の履修科目を決める作業をしていた。


 向かいでは浮田がうんうんうなっている。


「授業、どれを取るべきか……」


 こいつには一年の後期と二年の前期に履修届の書き方を叩き込んでおいたので、今さらそれで頭を悩ませることはないはずだ。今は純粋に授業の選択で迷っているようだ。


「問題は槙坂さんが何を取るかなんだよなぁ。毎日なんて贅沢は言わないから、せめて週にみっつは同じ授業になりたいところだ」


 純粋ではなかったか。


「藤間、槙坂さんからどんな授業とるか聞いてねぇの?」

「知るわけないだろ」


 僕は浮田の問いかけを一蹴する。再び作業に戻ろうとして――そこでふと手を止めた。


「ひとつ参考までに聞くが、なぜ槙坂先輩が取る授業を僕が知ってると思った?」

「だって、お前、槙坂さんとつき合ってるんだろ?」

「……」


 なるほど。世間的にはそういう認識なのか。


 僕と槙坂先輩との間に、そういったターニングポイントは今のところ確認されていない。とは言え、男女交際において「つき合ってください」と申し入れるのは日本特有のものらしいし、周りからはそんなやり取りがあったかどうかは知る由もない。となれば、そう見えたならそれが事実。案外拘るのは当の本人たちだけなのかもしれない。


 納得した僕は、再び履修届を書く作業に戻る。


「何か言えよ!?」

「特にはない」


 なにしろ概ね事実だ。


 と、そこに、


「真先輩!」


 快活で、それでいてどこか甘えるような響きを含んだ声。こちらに小走りで駆けてくるのは加々宮きらりだった。


 また妙なタイミングで現れたものだ。向かいの浮田が、そして、彼女の声の届く範囲にいた男子生徒が、皆そろってぎょっとしている。僕も内心ぎょっとした。


 そんな僕を含めた男どもには目もくれず、彼女は僕の隣のイスに腰を下ろす。


「やぁ、加々宮さん」

「真先輩も今、履修届を書いてるんですか?」

「まぁね」


 答えつつ僕は書きかけのその用紙を裏返した。


「そっちは? ちゃんと書けてるのか?」

「それが……」


 と、ばつが悪そうに苦笑いをする加々宮さん。この調子では苦戦しているようだ。


「四月にも書いたはずなんですけど」

「だったら、こえだに聞くといい。僕が直々におしえてるから、書き方はわかってるはずだ」

「え、一緒に首をひねってますけど?」

「あいつ……」


 バカキャラが定着しても知らんぞ。


「真先輩は、後期はどんな授業を取るんですか?」

「おっと、悪いね。今日は店じまいだ」


 加々宮さんは伏せていた僕の履修届を手に取ろうとするが、しかし、それよりも先に僕がそれを掴み上げた。


「浮田、僕はそろそろ行くよ」


 僕は履修届をクリアファイルに入れ、巨大な時間割り表をたたんで、持ってきたもの一式をまとめた。午後は浮田とは別行動だ。


「それはいいけど、お前、加々宮さんとどういう関係なんだよ? 槙坂さんというものがありながら」

「その槙坂先輩が言うところによれば、妹なんだそうだ。……じゃあ」


 僕は立ち上がる。


「尚さら許せんな。……俺、浮田。藤間の友達で――」

「あ、いいです。真先輩以外には用はありませんから。……待ってくださいよ」


 そうして浮田があえなく撃沈するのを背中越しに聞きながらテーブルを離れた。


 


 各講義棟をつなぐ中庭を、なぜかついてきた加々宮さんと並んで歩く。


「誰が妹ですか、誰が」

「あの人が勝手に言ったことだよ」


 彼女にとって僕の妹と言われたことはいたく不満だったらしい。そう思うのだったら友人と一緒とは言え軽々しく泊まりにきたり、パジャマ姿を見せにきたりしないでもらいたいものだ。


 そう言えば、切谷さんにも兄貴面するなと言われたな。もちろん、昨日今日いきなり湧いて出た身でそんなつもりはないのだが。僕という人間は兄とするにはよほど魅力がないらしい。


「ところで、授業の話になりますけど、何を取ったんですか? 真先輩のことだからもう決めてるんですよね?」

「まぁね」


 各期開始一週間ほどは、受ける授業を決めるための期間だ。いちおうかたちばかりの授業があって、期間中は出入り自由。生徒は好きに先生の顔や話を見聞きして回れる。


 が、僕は加々宮さんが予想した通り、すでに今期に受ける授業を決めている。前期のときに後期も含めて計画を立てたからだ。


「おしえてください」

「どうして?」


 ストレートに切り込んできた加々宮さんに、僕はあえて意味がわからないといった様子で聞き返す。


「一年生でも受けられる授業があれば、一緒に受けようと思いましてー」

「こういうのは自分で決めるものだよ。人に左右されるものじゃない」

「えー、一緒に受けましょうよ。楽しいですよー?」


 彼女は甘えるように言ってくる。まるでじゃれついてくる仔犬か何かだ。前からこんなだっただろうか。まぁ、自分のかわいさを知っている彼女なら、何かを催促するときはこんなものか。


 そんな彼女と歩いていると、槙坂先輩ほどではないにせよ、注目される。世間的にももう槙坂涼とつき合っていることが事実になっているから、いったい僕はどんなふうに思われていることやら。それこそ浮田ではないが、槙坂涼というものがありながらといったところか。


「それもひとつの考え方だろうね」


 学校の授業なんてもとより面白くないものなのだ。だったら友達と一緒に受けて、切磋琢磨なり苦労の共有なりグループ学習なりの環境を整えるのも手だ。


「でも、僕の主義じゃない」

「そうなんですか?」

「そうなんだ。ついでに言っておくと、僕は槙坂先輩ともそういうことをしたことがないよ」


 尤も、そもそもまともに話すようになったのがこの五月で、そういう機会自体今回が初めてなのだが。しかし、後期に入って僕たちの間でそんな話が出たことはない。


「じゃあ、なおさらチャンスかもしれませんねー」

「チャンス?」

「だって、ほら、真先輩と一緒にいる時間が長いと、槙坂さんを出し抜けそうじゃないですか」


 ああ、そう言えばこういう子だったな。


「懲りないな、君も。じゃあ、せっかくだからひとつ僕が取る予定の授業おしえておこうか」

「ぜひ」


 加々宮さんは期待に満ちた目をこちらに向けてくる。


「サイモン先生の英語」

「ぐえぇ」


 いきなりその口からカエルがつぶれたような声が飛び出した。


「授業ぜんぶ英語でするって噂じゃないですか!? 無理ですよ、そんなの」

「そうかい? なら仕方がないな」


 僕もこの子ならそうだろうと思って言ったのだけど。


「真先輩、本当にあの授業とるんですか?」

「もちろん」


 これまでサイモン先生と校内で会うたびに会話をして、この夏にイギリスでもそこそこ英語が通用したことで自信がついた。サイモン先生にオール英語で授業をされても、まったくわからないなんていう無様なことにはならないだろう。


 当然のことながら、普通の生徒が敬遠するような授業を取るのは将来のためなのだが……加々宮さんのこの様子を見るに、こえだから何も聞いていないようだ。まぁ、ベラベラしゃべるようなやつでもないか。


「じゃあ、僕はここで」


 何となく加々宮さんの足取りの勢いから、僕と彼女の目的地がちがうことを察した。


「うー」

「ま、授業が一緒になったときは邪険にするつもりはないよ。仲よくやろう」


 まだ不満そうな加々宮さんにそう言うと、僕は彼女と別れた。




                  §§§




 放課後、


「で、後期はどんな授業を取るつもりなの?」


 槙坂先輩と肩を並べて校門に向かっていると、彼女がそんなことを唐突に聞いてきた。……どうも今日はそういう日らしい。


「それを聞いてどうする?」

「一緒の授業を並んで受けるのもいいと思ったの」

「槙坂涼らしくない行動だ」


 孤高にして高貴、そして、ある種の禁忌。誰も彼女をグループや派閥に組み込もうとしないし、してはいけない。それが槙坂涼という存在のはずだ。


「そうね。わたしのイメージにはそぐわないわね」


 そして、それをわかっているから槙坂先輩も求められるイメージ通りに振る舞ってきた。仲よしグループを作ったりしない、友達と一緒にわいわい時間割りを考えたりしない。誰もがそんな槙坂涼を求め、彼女はそれに応じるのだ。


「ブランド戦略も大変だな」

「わたしが望んでやってることじゃないわ」


 かと言って、まるっきり不本意だったわけでもないのだろう。彼女にとって周囲の期待に応えて理想の槙坂涼を演じるのはごく自然なことなのだ。


「望んでやっていたわけではないにせよ、それがどうして今になってブランドイメージを壊すような真似を?」

「わたしが壊そうとしてるんじゃなくて、もう壊れつつあるのよ」

「うん?」


 どういう意味だろうか。彼女がこれまでの清楚でオトナ美人のイメージを壊すような振る舞いを人前でするとは思えない。人前どころか僕の前でもそうだ。槙坂涼の基本はあくまでもそれ。ふたりきりのときに意外な一面を見せて驚かされることはあっても、そのイメージが損なわれたことはない。


「だって、わたしと藤間くん、もう完全にそういう関係だと思われてるもの」

「ああ、なるほど」


 周囲がそう認識しているというのは、昼の浮田の言動からもわかることだ。それはイコール槙坂涼に特定の男ができたということであり、確かにこれまでの神聖不可侵のイメージを壊すのには十分だろう。


「つまり、これまで通りに振る舞わなくてよくなった、と?」

「そういうこと」


 楽しげに肯定する槙坂先輩。


「もちろん、わたしが前からそういうことをしてみたかったというのもあるけど、これもある意味では周りが望んでいることよ。夏休みが明けてから、よく藤間くんとのことを聞かれるの」 


 なるほど。神聖性を失った槙坂涼はその地位を失墜させるのではなく、今度は普通に恋愛もする身近な、或いは、一歩大人の存在として受け入れられているのか。


「わたしが藤間くんと一緒にいると、みんな喜ぶわ」

「僕は見世物になるつもりはないよ」


 そもそも喜ぶのは槙坂先輩の周りの女子生徒たちであって、男連中は嫉妬に狂うにちがいない。絶対に暖かく見守ってもらえるような状況にはならないだろう。


 今だってそうだ。下校する生徒の流れの中、女子生徒は友達同士何ごとかを囁きながらこちらをちらちら見て、きゃあきゃあと弾んだ声で笑い合っている。時々槙坂先輩が手を振って応えると、その声はさらに高くなった。その一方で男子は、主に僕を見て舌打ちしそうな顔をしている。


「だいたい槙坂先輩のことだから、単位なんてもうほとんどいらないくらい取ってるんじゃないのか? 三年の後期によけいな授業を取ってる場合じゃないだろうに」

「ええ、残ってるのは必修科目くらい」


 進学校である明慧大附属においては、三年生の前期までに可能な限り単位を修得しておくのが一般的なスタイルとなっている。そうして後期に履修するのは必修科目とそのほかいくつかの授業だけにしてしまって、授業以外の時間は受験勉強に費やすのだ。


「わたしがまだ取ったことのない授業、ぜんぶ一緒に取ってもいいわね」

「やめてくれ」


 受験をひかえた大事な時期に時間を浪費しようとするな。まぁ、この人のことだから、そんなことをしながらでも大学入試なんて余裕なのだろうけど。ひと言、明慧大うえに行くと言えば大学側は無試験で歓迎してくれるにちがいない。


「それに誰かと仲よく授業を受けたりするのは、僕の主義じゃない。昼に加々宮さんにも同じことを言ったけどね」

「なに、あの子も聞きにきたの?」


 呆れ口調の槙坂先輩。


「おしえてあげたの?」

「いま言っただろ、主義じゃないって。おしえてないよ」


 正確にはひとつおしえているが、まぁ、加々宮さんのあの様子では取らないだろう。


「仮に彼女に言ったとしても、あなたにだけは言うつもりはない」

「ひどい話」


 と言うわりには、槙坂先輩は気を悪くしたふうではなかった。


「あなたがわたしに対してその態度なのは前からだけど、それにしてもずいぶんとあの子のことが気に入ったのね」

「気に入ってるのは否定しないかな。なかなかに愉快な性格をしているしね」


 こえだとはまたちがった面白さがある。


「でも、僕が加々宮さんに取る授業をおしえてもいいと思うのは、たぶん彼女なら邪魔にはならないだろうと思うからだ」

「それじゃまるでわたしなら邪魔をするみたいね」

「そこまで言うつもりはないよ。でも、少なくとも僕は、あなたと肩を並べて授業を受けたりしたら集中力を欠く」


 僕がそう言うと、槙坂先輩は黙り込んだ。僕の台詞の意味を考えているのだろうか。言葉の応酬が一旦止まる。


 そのまま僕たちは校門を出――そこでようやく彼女は口を開いた。


「そう、ね。わたしもそんな気がしてきたわ……」


 それが何らかのシミュレーションをした結果らしい。


 我ながらずいぶんとリップサービスをしたものだと思う。半分は本当だが、もう半分は……。


 僕はこえだに嘘を吐いた。


 あいつには悪いが、僕はまだ留学のことを槙坂先輩に打ち明けるつもりはない。そうするためにはそれなりの下地が必要だろうから。

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