第9話
かくして、僕の日常から槙坂涼が消えた。
まぁ、慣れてしまえばこんなものかと思う。
そもそもこれまでの高校生活において、槙坂先輩がいた期間よりもいなかった期間のほうが長いのだ。そう考えれば、ただ単にもとに戻っただけとも言える。
そんなわけで僕は本来あるべき高校生活を連日謳歌するわけである。
本日の昼食はずいぶんと大所帯だった。僕、浮田、礼部さん、それに成瀬と瀬良さん、の総勢五人。
「あー、学園祭が終わって気が抜けた……」
と、言葉通り気の抜けた調子で言うのは、僕の正面に座る浮田だ。食べているのは親子丼だか他人丼だかの学食メニュー。
「すごいな。もう二週間がたつのに、まだ抜けたままか」
これは成瀬。完全に呆れている。
彼は、人ひとりがやっと通れる通路とも言えないような隙間を隔てた、隣のテーブルに座っていた。トレイの上には日替わりランチが広がっている。僕と同じだ。
「次はクリスマスかなぁ」
「藤間、なんで浮田がクリスマスを気にしてるんだ? あいつ、下手したら一生縁がないだろ」
僕の隣にいる礼部さんが、きつねうどんを食べる手を止め、当の本人にも聞こえるであろうボリュームで聞いてくる。
「そこ、一生とか言うんじゃねぇ。来年には何とかしてやるよ。今に見てろっ」
「箸で人を指すなよ」
「今年はもう諦めたんだな。……ハロウィンがあっただろ。あれはどうしたんだ?」
別に仲裁というわけではないが、僕は浮田と礼部さんの間に割って入る。
ハロウィンパーティは、学園祭同様これまた明慧大附属の恒例行事だ。完全に生徒主催で行われ、参加費を徴収するが、食べて飲んでしゃべって、仮装して写真を撮ってと、ただひたすら楽しむだけなので生徒の間ではけっこう好評である。年々参加者が増えているそうだ。
「もちろん、行った。でも、あれって学園祭とくっつき過ぎてて後夜祭って感じなんだよな。もっと離してくれりゃいいのに。こう、学園祭の熱が冷めたころにハロウィン、みたいな」
「お前は祭りがないと生きていけんのか」
またしても成瀬が呆れる。
「そういう藤間は? 行ったのか?」
「いや、行ってない。学園祭の実行委員で本番前後はバタバタするのがわかってたからね。あっちをやると決めた時点で不参加のつもりだった」
学園祭は十月の最終週の土日。そして、ハロウィンパーティは同じ月の三十一日。先にも浮田が述べた通り、どうしても日が接近する宿命にある。さすがに学園祭の後片付けにも出て、二、三日おいただけのハロウィンパーティにまで参加する気力はなかった。
「おかげで、手もとには愛華女子のハロウィンの招待状もあったのに、そっちにも行ってないよ」
「何だと!?」
「マジか!?」
「あ、男どもが喰いついた。サイテー」
色めき立つ浮田と成瀬に、それを見て蔑んだ調子の礼部さん。浮田はそういうキャラだから仕方がないとして、成瀬は瀬良さんもいるんだからもう少し隠せ。その瀬良さんに目を移せば、彼女は家から持ってきた手作りのサンドウィッチを頬張りながらニコニコと笑顔で成瀬を見ていた。後で引っ叩かれるパターンだな。
しかし、男連中が目の色を変えるのも無理からぬ話。愛華女子――愛華女子高等学校はこのあたりでは有名なお嬢様学校で、普段は当然のこと、学園祭のような学外者を招くイベントでも招待状がないと入ることができない。各種イベントの招待状を欲しがる男は山ほどいるだろうが、どれも入手困難な代物だ。
「男は殴って、女はたぶらかす藤間君や」
「ここにそんな董卓みたいなやつはいないはずなんだがな。いつも通り人聞きの悪い言い方、ありがとう。……なに、瀬良さん」
これまで黙って食べていた瀬良さんが声をかけてきた。男は殴るの
「どうやって手に入れたのですか?」
「親類縁者が愛華にいてね」
誰あろう切谷さんのことである。女子高の学園祭に興味があると言った僕の言葉を真に受けたのか、学園祭はもう終わったけど、とハロウィンパーティの招待状を送ってきたのだ。槙坂先輩と一緒にこいという指示つきだったのは、果たして何かを心配してのことか、それとも自分のひと言で僕と彼女の間の空気が悪くなってしまったことへのお詫びだったのか。場合によっては、これに応える未来もあったのかもしれないが、残念ながら招待状を無駄にする結果となってしまった。
「その親類縁者とやらをぜひ紹介してくれ」
浮田が腰を浮かしそうな勢いで身を乗り出してくる。
「僕の妹だぞ。よし、僕を倒していけ」
「ダメだ。勝てる気がしねぇ」
が、すぐに絶望的な表情とともに背もたれに身を投げた。
安心しろ。僕も負ける気がしない。
「かー、もったいない。這ってでも行けよ」
「うるさいな。気分じゃなかったんだよ」
しつこく話題を引っ張る浮田が鬱陶しくなって、思わず吐き捨てるように言い返せば――瞬間、場がしんと静まり返った。……しまったな。僕は後悔する。
当時、僕と槙坂先輩の様子がおかしかったことは、わりと近しい人間なら周知の事実だ。そして、ここ数日はいよいよ話もしなくなって、遡れば学園祭付近で何かあったのだろうと誰もが容易に想像できたはずだ。
「……悪い」
ばつが悪そうに浮田が謝った。
本当に謝るべきは、気を遣わせている僕のほうなのだが。
「それにしても、ほら、学園祭が終わってカップルが増えた気がするよな」
おそらく浮田は話題を変えるつもりだったのだろう。だが、学園祭の話自体が禁句のようなこの雰囲気下で、それは選定ミスではないだろうか。実際、浮田の隣にいる成瀬は「あ、こいつバカだ」と呆れ顔。……そこまで気を遣ってくれなくてもいいのだが。
「即席急増カップル死ねと思うわ」
「それでお前たちは俺と瀬良さんの邪魔をしにきたのか」
合点がいったとばかりに、成瀬。
「いや、浮田だぞ? ここにしようって言ったのは浮田だからな?」
先ほどのお返しなのか、礼部さんは箸で浮田を指し、言う。
彼女の言う通りである。僕と浮田と礼部さんがこの学食にきて、どこに座ろうかと席を探していたところ、浮田が仲よく一緒に食べている成瀬と瀬良さんを見つけ、嬉々としてその横のテーブルに決めたのだ。
「安心しろ。即席カップルが数多く誕生したかもしれないが、その一方で僕みたいなのもいる」
直後、再び空気が凍りついた。
沈黙。
僕としてはこんなふうに深刻に黙られるのは不本意なんだけどな。
その中でカツカツと音が聞こえた。何かと思えば、礼部さんが苛立たしげに塗り箸の先でトレイを叩いていた。
程なくして浮田が、どっと疲れた様子で口を開く。
「お前なぁ、俺たちがその話題を避けてるのに……」
「いや、お前は微妙に避けられてなかっただろ」
「いいよ、成瀬。変に気を遣わなくても」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
突然、礼部さんが叫び声を上げた。
頭を掻きむしりながら立ち上がる。いったい何ごとかと周りにいた生徒の目が集まる。しかし、礼部さんは気にした様子もなかった。
「藤間! お前ら、いったい何があったんだよ!? あんだけ仲がよかったのにっ」
どうやら彼女の中で耐えられない何かが爆発したようだ。
「……礼部さん、まずは座ろうか」
と、僕が促せば、礼部さんは素直に着席した。むすっとした顔ながら黙って僕の次の言葉を待つ。彼女だけではない。ほかの三人も同じだ。興味、と言ってしまうと言い方が悪いか。きっと気にしてくれていたんだろうな。
(何があったのか、か……)
瀬良さんには先日少しばかり話したが、途中までだ。その後の顛末は知らない。とは言え、聞かれるままほいほい答えて回るような話でもないだろう。
心配してくれるのは嬉しいが……
僕は周囲の生徒がこちらへの興味を失くすのを待ってから口を開いた。
「悪いけど、話が個人的すぎるからね。聞いても面白くはないよ。とりあえずは見ての通り、お察しの通りだ。まぁ、みんなは笑っといてくれたらいいんじゃないかと思う」
僕は努めて明るく、そう告げた。
何せ僕にとっても槙坂先輩にとっても大事な話をずっと黙っていて愛想をつかされたなんて、自分でもお笑い草なのだ。ならば、身の丈に合わない高嶺の花とつき合って、案の定続かなかったと笑ってくれたほうが気が楽だ。
「これが浮田なら指さして笑ってるところだけどな」
「おおおいいいっ」
浮田が隣にいる成瀬に顔を向け、悲痛な声を上げる。
騒々しいな。それにどうにも思っていた以上に友達思いのやつらだ。……いいかげんな自分には逆に居心地が悪い。
僕は席を立った。
「何てことはない。春ごろの僕に戻ったというだけのことさ」
食べ終わったことだし、先に行かせてもらおう。
みんな立ち上がった僕を見上げるが、特に何も言う様子はない。僕が気分を害して立ち去ろうとしているのだと思っていなければいいが。
「藤間君」
瀬良さんだった。彼女は僕を呼び止める。
「時間は不可逆ですよ。……ああ、これ早口言葉にいいですね。今度考えてみましょう」
「それくらいわかってるよ。でも、状況が戻ることはある」
僕はそれまでしていたように、槙坂涼や彼女を取り巻く連中を遠くから観察して楽しむ日々に戻るわけだ。それでこそ退屈と平和と本を愛する一介の高校生に相応しい平穏な――
「……」
平穏?
(それではまるで……)
その他大勢。
そんな言葉が頭をよぎった。
僕はこれから槙坂先輩にとってのその他大勢になるのだと考えて――ぞっとした。
「わかっているならいいのです。本当にわかっているのなら、ですけど」
「何か言いたいことでも?」
自然に答えたつもりだったにも拘らず発音に力がこもってしまったのは、先ほど頭に思い浮かんだ『その他大勢』という言葉のせいか。聞き咎めた成瀬が「藤間」と僕をたしなめる。
瀬良麗奈は侮れない。
エキセントリックな言動とは裏腹に、妙に核心をついてくることがある。自然、こちらも言葉選びが慎重になるというものだ。
「藤間君は槙坂さんとつき合っていたころのほうが楽しそうでしたよ?」
「そりゃああんな美人と一緒にいたからね。男としちゃ笑いが止まらないよ」
今度こそいつもの調子に戻り、言い返す。
「藤間くんらしからぬ
「……」
僕は思わず黙り込む。彼女の指摘を否定しようとして――しかし、そうするだけの言葉を継ぐことができなかったのだ。
「……なら、またつまらない毎日に戻るだけさ。……お先」
僕はトレイを手に取ると、それを持って逃げるように立ち去った。
理解した。
――時間は不可逆。
確かにそうだ。
僕はもう槙坂涼のことを知ってしまった。
心の中の多くを彼女が占めている。
ならば、環境だけをそっくりそのまま巻き戻したところで、それは似て非なるものでしかない。
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