第2話<下>
『天使の演習』という名のカフェがある。
槙坂先輩の家の最寄りの駅から少し歩いたところの、閑静な住宅街の一角に店をかまえている。上品な内装で、とても雰囲気がいいのだが、いつきてもあまり人が入っていないのが心配だ。客として利用する分にはそんなこと気にする必要はないのだろうが、ここのコーヒーは気に入っているし、なんだかんだで顔馴染みにもなったので、潰れてしまうのは少々もったいないと思う。そんなことにならないよう、ぜひとも頑張ってもらいたいものだ。
「いらっしゃいませー」
ドアベルを鳴らしつつ中に這入ると、迎えてくれたのは弾むような明るい女性の声。それを聞いた僕は、おや、と思った。
そこにいたのは鮮やかなハニーブラウンの髪をした女性だ。名前はキリカさんというらしい。槙坂涼に負けず劣らずの美貌の中に、隠しきれない快活さが見え隠れしている。彼女はまだ十九才で、現役の大学生。なので、このような平日の夕方でも顔を見ることは稀なのだ。
カウンタの向こうに目をやれば、いつ見ても眠そうな顔をしている男性がいた。こちらは二十歳そこそこ。
ふたりはこの店のアルバイトではない。このふたりこそが店長夫婦だった。何でも亡くなった父親からこの店を受け継いだのだとか。
現役女子大生にして人妻であるところのキリカさんは、僕たちを見るなり嬉しそうに、眩しいものでも見るように微笑んだ。
「今日も仲よく放課後デートですか?」
「ええ、そうなんです」
欠片も否定せず答える槙坂先輩。僕としてはただの寄り道のつもりなのだがな。
「羨ましいなぁ。……あ、お好きなところにどうぞ」
言われ、僕らはとりあえず手近なテーブル席に腰を下ろす。ついでに店内を見回してみれば、案の定、カウンタ席に中年の男性客がひとりいるだけ。いつも通り閑散としている。
すぐにお冷が運ばれてきた。
「珍しいですね、キリカさんがこんな時間にいるなんて。もとから講義がない日だったかしら?」
問うのは槙坂先輩。
僕たちとて顔馴染みになったからと言って毎日きて、キリカさんのいるいないを完全に把握しているわけではない。槙坂先輩は自分の記憶違いを疑ったのだろう。
「いいえ、たまたま休講になっただけですよ。いつもは講義の真っ最中です」
「自主休講ですか?」
「ちがいますよ。もう、失礼ですね」
ついつい茶々を入れてしまった僕に、向かいの槙坂先輩からは唇の動きだけの「バカ」が飛んでくる。
しかし、当のキリカさんは特に気にした様子もなく、かわいらしく怒ってみせただけだった。槙坂先輩よりもひとつだけとは言え年上のはずなのだが、時折少女のような無邪気さを垣間見せる彼女には、そんな仕草もよく似合っていた。
「いえ、世の中、高校生のくせに自主休講するのがいるもので」
「槙坂さん……」
彼女は、僕の言葉の含むところがわかったのか、槙坂先輩に窘めるような視線と発音を送る。
「だって、藤間くんったらいつの間にかいなくなってるんですもの」
「ああ。じゃあ、仕方ないですね」
と、納得した様子のキリカさん。
……は?
「男の子なんて、目を離すとすぐにどこか行ってしまいますからね。それくらいして、ちゃんと捕まえておかないと」
それは授業よりも優先されるべきものなのだろうか。
カウンタの向こうでは店長が苦笑していた。
「君、そろそろ注文をもらってください」
そして、僕への助け舟ではないのだろうが、キリカさんにそう促す。
「あ、はぁい。……今日は何にします?」
「わたしはブレンドで」
「僕も同じく」
「わかりました。ブレンドふたつですね」
キリカさんはそう復唱して戻っていった。
まだ六月にもなっていないというのに、すいぶんと暑くなってきた。次にきたときはアイスコーヒーを頼むことになるかもしれないな。
注文したブレンドコーヒーはすぐに運ばれてきた。間にたったひとりの客が帰ったことでその会計にキリカさんの手がとられたりしたが、それでも十分に速かった。
「旅行の話だけど――」
客が僕たちだけになった店内で、コーヒーをひと口飲んで喉を潤した槙坂先輩が、そう切り出してくる。
「そういうことがなければ許されるのかしら?」
それは旅行に行きたいがために提示した条件というわけではなく、彼女の頭に浮かんだ素朴な疑問として口にしたようだった。
「問題は大人がそれを信じるか、だろうね」
高校生の男女がふたりだけで旅行に行きますが、健全なものです。心配しないでください、と言って、果たしてそれを大人は信じるだろうか。
「大人って、誰?」
問いを重ねる槙坂先輩。
「大人は大人だろ」
「具体的には? 先生? それとも、泊まったホテルのフロント係?」
「……」
確かに。今まで言っておいてあれだが、実際誰を指すのだろうな。
休み中に旅行に行くのにわざわざ先生に事前連絡する義理も義務もない。学生課で学割を申請したとしても、各担任に連絡がいくとも思えない。旅先で関わる大人も、よほど目に余る行動をしないかぎりは、保護者はどうしたなどと騒ぎ出すことはないだろう。
「具体的には、僕の母親や槙坂先輩の両親かな?」
「でしょうね」
彼女は僕の回答を読んでいたようにうなずく。
「藤間くんのお母様は、やっぱりそういうことには厳しいの?」
「いや、特には」
逆に特別緩くもないが。
母は人から後ろ指をさされるような生き方を選んだ人だが、だからと言ってそれに引け目を感じて僕に対して強く言えないわけではなく、単にそういう性格なのだろう。人一倍自分を厳しく律することを僕に課したりはせず、高校生として最低限の節度だけは守れと言う程度。旅行に関してもそんなところだろう。尤も、その『最低限の節度』の範囲がいまいち不明瞭だが。
「うちも両親がわたしのことを全面的に信用してるから、嘘を言っても疑いもしないでしょうね。藤間くんと清く正しくおつき合いしていて、一緒に楽しく旅行に行くだけって言っても納得すると思うわ。……あら?」
と、不意に何かに気づいたように、槙坂先輩。……僕も気づいた。
「意外と状況は許すわね」
「いや、待て」
何をしれっと恐ろしいことを言っている。
「何かしら?」
彼女は白々しく首を傾げた。
「確かに状況は許すかもしれない」
「ええ、そうね」
そして、うなずく。
どうやら僕たちの周りは、子どもを信用してくれている大人ばかりのようだ。そんなだから、いつか僕と槙坂先輩の間で何かがあっても、それを高校生のくせにと一方的に非難せず、理解すら示してくれるのかもしれない。
そういう点では、よい大人に恵まれた境遇に素直に感謝したい。
「だけど――さっきも言っただろ。僕にそのつもりはない。そこは変わらないよ」
何せ健全な旅行がまっとうされるとは、まったくもって思えない。僕は槙坂涼を決定的に信用していないし、それ以上に自分自身が信じられない。
「残念」
槙坂先輩は唄うように、そう口にする。
口にしただけ。
喰い下がるわけでもなく、怒り出すわけでもなく。多少不貞腐れているような様子を見せてはいるものの、それだけだ。
諦めたのかどうか疑わしいところだが、僕はふと聞いてみたくなる。
「何でそんなに一緒に行きたいんだ?」
「そうね――」
と、彼女はどこか遠くを見るような目をし、
「藤間くんが世界に何を見にいきたいのか知りたい。できればそれを一緒に見てみたい。――そう思うの」
そう言ってコーヒーをひと口飲み――そして、カップを置いてから僕に微笑んだ。
その笑みに稚気や邪気といったものは欠片もなく、槙坂涼に相応しくただただきれい
で。
「……そうか」
僕はそう口にするのがやっとだった。カップを口に運び、さり気ないふうを装いつつ視線を外に向け、彼女から目を逸らした。
別にそんなたいそうな志をもって海外旅行に行くわけではないのだがな。僕は高校を卒業したらアメリカの大学に進み、そのまま生活基盤も向こうに移すつもりだ。だから、その前にヨーロッパも見ておきたい。せいぜいその程度だ。
そんなのでよければ……。
(バカ、やめろ)
うっかりとんでもないことを考えそうになって、自分で自分を制止した。しおらしいことを言って油断を誘う。それこそが狙いだったらどうする。そう思うと僕の向かいで槙坂涼が悪魔のような笑みを浮かべていそうで、視線を戻すのが怖かった。内心の恐怖を誤魔化すように、残っていたコーヒーを一気に呷る。
と、そのとき、
「そう言えば、ここのアルバイトってどうなったのかしら?」
「え? あ、ああ、そうだな」
僕が恐れていたようなことはなかったらしく、彼女はころっと話題を変えてきた。
「キリカさん。前に表に貼ってあったアルバイト募集って、どうなったんですか?」
店内に僕ら以外の客がないのをいいことに、槙坂先輩はカウンタ付近にいたキリカさんに呼びかける。
「あははー。それがなかなか。場所が悪いんですかね?」
返ってきた答えはこれ。
「ふたりとも、よかったらどうですか? やってみません? 時給ははずみますよ」
「君、勝手に決めないでください」
「はぁい」
またしても店長に怒られるキリカさん。舌を出しつつ、「だそうです」。
「でも、実際、君たちみたいな人にきてもらえると、僕としても嬉しいですね」
店長のその言葉に、僕たちは顔を見合わせる。
というか、僕と槙坂先輩でワンセットなんだな。確かに前にそんな話をしたことはあるが。
「どうする?」
「急にそんなことを言われてもね」
じゃあそうします、と簡単に決められる話でもない。
戸惑っていると店長がカウンタの向こうから出てきた。手にはコーヒーメーカーのサーバー。彼はこちらまでくると、空になっていた僕のカップにコーヒーを注いだ。これはサービスだと思っていいのだろうか。
「せっかくですから面接でもしましょうか」
「え?」
僕と槙坂先輩は異口同音に驚きを発音する。
眠そうな顔をして、唐突に何を言い出すのだろうな、この人は。
「ああ、そんなに身構えなくていいですよ。質問はひとつだけですから。……うちで断られたらどうします?」
「……」
断られたらというのは、不採用になったらという意味だろうか。……何だ、その質問は。そもそもこちらからアルバイトをしたいと言い出したわけでもないのに、いきなり不採用になったときのことを聞いてどうしようというのだろう。――とは言え、想定できないこともない。一度はそれも面白いかもと考えたのだから。
「まぁ、どうもしないかな、僕は」
「わたしも、ですね」
「ほかを探したりはしないんですか?」
店長がさらに問う。
「ないと思いますね」
別に可処分所得を得たくてアルバイト先を探しているわけではないので、ここで断られたら「そうか」と思うだけだ。今のところほかを探す予定はない。向かいでは僕と同じ意見なのか、槙坂先輩がうなずいていた。
「そうですか。……じゃあ、採用です」
あっさりと店長はそう言った。
「せっかく一緒に働いてくれるなら、うちがいいと思ってくれる人がいいですからね。それに動機はときに能力に勝りますよ」
「……」
まぁ、一理あるか。店長と同じようなことを言う企業の採用担当も多いらしいし、変わった人だとも言い切れないのかもしれない。単にテキトーな人という可能性もあるが。
「ああ、因みに、君たちが採用なのは本気ですよ。気が向いたら言ってください。明日からでもいいし、夏休みの暇なときでもいいです。いつでも歓迎しますよ」
「は、はぁ……」
相変わらず眠そうな目のまま笑みを見せる店長。僕は曖昧に返事をするしかできなかった。
「あははー、採用になっちゃいましたね」
そして、横で一連のやり取りを聞いていたキリカさんが苦笑する。
「でも、わたしも大歓迎です。いつか本当にきてくれると嬉しいです。ぜひ一緒にがんばりましょうね」
彼女はそう言うと、すでにカウンタへと帰ってしまった店長を追って仕事に戻っていった。
僕たちはまたも顔を見合わせる。
槙坂先輩が目だけで「どうする?」と聞いてきた。
「前向きに考えるさ」
僕は肩をすくめて、そう答えるのだった。さて、うちの学校はアルバイトについてはどうだっただろう。
§§§
帰り道、
「海外旅行ってどれくらいかかるのかしら?」
五月下旬の午後六時近く。まだ外は明るかった。ついこの間まで五時を過ぎれば暗くなりはじめていたのに、いつの間にか、というか、いきなり日が長くなったような気がする。
槙坂涼は視線をやや上げ、そのまだ明るい空を見ながら先のようなことを口にしたのだった。
「ほう、何か予定でも?」
「ええ、北欧のほうにちょっと」
槙坂先輩はにっこりと笑う。
「よかったら藤間くんも一緒にどう?」
「けっこうだ」
僕はきっぱりと断る。
やっぱり諦めてなかったか。だろうと思った。
「残念ね。二回行けると思ったのに」
「……」
別々にカウントするのかよ。
「そうやって旅費の心配をしてる時点で、僕についてくるもへったくれもないだろうに」
「ううん。これは純粋な疑問。お金なら心配ないわ。貯金がけっこうあるもの。……あら、わたしって優良物件。今のうちに押さえておいたら?」
「やめとくよ。昔からうまい話には迂闊に乗らないことにしてるんだ」
物件が優良すぎて、正直こわくて手が出せない。
「あら、ひどい。それじゃわたしが悪い詐欺師みたい」と笑う槙坂先輩。
実際、そんなものだろうに。詐欺師じゃなくて、彼女自身が詐欺そのもの。遠くから見ているときは素敵な
「女の子で痛い目に遭った経験でもあるのかしら」
「過去にはないよ。現在進行形ではあるが」
しかも、僕はその悪くない詐欺に未だつかまったままだ。
さて、槙坂先輩のほうには旅費の心配はないらしい。僕もない。さすがに全額自腹を切ったら貯蓄が底をつきかけるが、親に頼めば多少なりとも援助してもらえるだろう。何せ僕の将来にも関係しているのだ。そのための社会勉強という名目は立つ。
そして、お互い親は反対しないだろうという予想も出ている。
槙坂先輩が言うところの、状況は許す、だ。
なら、障害はどこにあるのだろう。
「……」
ああ、僕か。これはハードルが高いな。
なにしろ僕はさほど健全じゃない。いや、特に問題なく成長発達し、当然もつべき異性への興味をもっているので、ある意味では健全と言えるかもしれない。
その僕が槙坂先輩とふたりだけで旅行だって?
むりだな。
積極的にその気がある人間と、潜在的にその気をもっている人間がそろっているのだ。間違いが起こらないほうが奇跡だ。
気まぐれに、それこそ前向きに考えてみたけど、やはりいろいろ問題がありすぎる。
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