第2話<上>
翌日の槙坂涼は、何だか浮かれているように見えた。
僕と彼女、共通の授業の前の休み時間。
僕が座っているのは教室後方の階段状になった席で、槙坂先輩は前方の教卓正面から少し左にずれた位置。お互いいつもの席だ。だから、見えるのは後ろ姿だけで、しかも、例の如く彼女を慕う生徒に囲まれているので、その隙間にちらちらと見える程度。それだけの視覚情報しかないが、僕の目には彼女が浮かれているように見えた。
話すときの身振り手振り。
横にいる生徒に顔を向けたときの横顔。
普段とあまり変わらないように見えて、でも僕は、今日の槙坂先輩は機嫌がいいなと思った。
「なぁ、槙坂先輩、なんかはしゃいでないか?」
「そうか?」
何となく隣にいる浮田に聞けば、やつは「んー」と目を凝らして前方を見つめる。
「今日もいつも通りきれいじゃないか」
「わかった。お前に聞いた僕がバカだったよ」
いつも槙坂さん槙坂さん言っているこいつが気づかないのだ。つまり、僕の気のせいということなのだろう。
§§§
「ええ、ちょっと浮かれてるわよ」
それでもどうにも気になって聞いてみたところ、あっさりとそんな肯定の返事が返ってきた。
今は放課後。
明慧大の図書館に行って、昨日交付申請をした槙坂先輩のライブラリーカードを受け取ったその帰りだった。
行くときは大学の正門から入ったが、キャンパス内での図書館の位置からして、帰りは別の門から出て駅を目指すほうが近い。そのため僕たちは、いつもの大きな道路沿いの歩道ではなく、住宅地の中を通って裏から駅へと向かっていた。
「あまり表には出さないように気をつけてたのだけど、隠しきれてなかったのね。でも、嬉しいわ。こんな些細な変化に気づいてくれるなんて」
槙坂涼は、今度は気のせいではなく、明らかにはしゃいだ様子でそう感激を口にした。
「ずっとわたしのことを見てるからかしら?」
「何かいいことでもあったのか?」
僕はそこには触れず、先を促す。
「ええ、もちろん。……そのあたりはあなたも同じだと思ってたのだけど?」
「僕も?」
どういう意味かわからず、僕は問い返した。
「だって、わたしには素敵な彼氏ができたし、あなたには素敵な彼女ができた。思わず浮かれてしまうには十分だわ」
「自分で言うかよ」
彼女らしいと言えば彼女らしいが。
槙坂涼は誰もが認める美貌と知性の持ち主だ。そして、それを鼻にかけないだけのひかえめさも持ち合わせている。つまり、優等生。とは言っても、それは僕以外の人前での話であって、僕の前ではちがう。僕と一緒にいるときの彼女は意外と自信家で、いたずら好きの性格を隠そうともしない。そんな精神性の持ち主でないと『槙坂涼』なんてやってられないのだろう。
「あら、その台詞でいいの?」
「……前言撤回。彼女なんかできた覚えはないね」
僕が言い直すと、槙坂先輩がくすくすと笑い出す。
「ずいぶんと苦しいわね」
「なに、守るべきものを守るためには、多少不恰好になっても気にはしないさ」
「そう。どこまでがんばれるか、期待してるわ」
非常にばつの悪い思いを抱きつつ歩を進める。
「ほかにもあるのよ、理由」
「……まだ何か?」
どうにもろくでもないことのような気がしてならない。知らず自分の声に警戒の色が含まれる。
「だって、夏には藤間くんとの旅行が待ってるんだもの。楽しみだわ」
「……」
ほら見ろ。
「楽しみにしているところ悪いが、僕にそのつもりはないよ」
「そうなの? どうして?」
そう問う槙坂先輩の声には驚きも落胆も怒りもなく、不思議そうな、そして、どこか期待するような響きがあった。彼女のことだ、僕が断るためにどんな理由を持ち出してくるのか楽しみなのだろう。
「当たり前だろ。高校生の男女がふたりだけで旅行になんて行くものじゃない。何かあったらどうする」
「何かって?」
「何か、だよ。わかるだろ」
わからないはずがない。槙坂涼は清楚可憐だが、年相応の知識と興味をもっている。もしかするとその大人びた容姿に相応しく、決定的な一歩を踏み込む勇気ももっているかもしれない。周りは彼女が清廉で純真無垢だと思いたがるだろう。だけど、それは幻想に過ぎない。少なくとも僕はそうだということを知っている。
「間違いと言い換えてもいい」
「わたしとあなたなら、それは間違いではなく必然だわ」
「かもね」
男と女がいて互いのことを想っているのなら、その流れは自然なことだ。
「だけど、大人はそうは思わない」
まだ高校生なのに。知識もないのに興味だけで大人の真似をする。最近の子どもは自分を大事にしない――。そうやって呆れられ、嘆かれることだろう。当事者がどんな気持ちかなんて関係ないのだ。
「ままならないものね」
彼女はため息を吐く。
槙坂先輩は、大人や周りが自分に何を期待しているかに敏感で、彼女もその期待に応えることが自分の役割だと思って『槙坂涼』という優等生を作り上げたような人だ。だから、僕が言わんとしていることもすぐにわかったのだろう。
「そして僕は、大人の前ではいい子でいたいから、そんなことには興味のない振りをするのさ」
「つまり、振りをしているだけで、興味はあるということね。そんなことを言われると、逆に一緒に悪いことをしたくなるわ」
だけど、今度は一転して苦笑。
「その気にさせてあげようかしら。藤間くんの視線を釘づけにして、どきどきさせる方法なら知ってるわ。練習もしたし」
何のことかと思えば、いつぞやの学校の階段でのことか。そういう男の本能的な部分を突くのはやめてもらいたいものだ。
「あんまり男をからかってると、痛い目に遭うぞ」
「素敵な台詞。こっちがどきどきするわ」
「……」
言っても無駄か。
「だいたい練習って、そんなことやってて虚しくならないか?」
「それは……ええ、ちょっと、なったわ……」
何か思うところがあったのか、槙坂先輩は重い口調でそう吐露した。
「ところで、藤間くんは、その、どんな……」
「うん?」
「ごめんなさい。やっぱりいいわ」
ぺしり、と掌で叩くようにして顔を覆ってしまう。
「……」
いったい何なんだろうか。
それきり槙坂先輩が口を閉ざしてしまったこともあり、僕らは黙って歩いた。横目で隣を見れば、彼女は落ち込んでいるのか反省しているのか、力なく視線を落としていた。
やがて駅が見えてきたころ、
「そうだ。いつものカフェに寄っていかない?」
ようやく口を開いた槙坂先輩は、何かを吹っ切るみたいにして、努めて明るい口調でそう提案してきた。
「今日は遠慮しておくよ」
「そう……」
僕がすげなく断ると、彼女は残念そうにぽつりとこぼし、また黙り込んでしまった。
その様子に少しばかり心が痛む。
さっきから断りすぎだろうか。どれもこれもそう簡単には受け入れられないもので、譲る気はないのだが、それならばカフェに寄るくらいはしてもいいのかもしれない。
「……まぁ、少しくらいならつき合ってもいいが」
「あら、そう?」
途端、ころりと明るい声を発する槙坂先輩。
「じゃあ、行きましょ。さすが藤間くんね。口で言わなくても、わたしが今いちばんしたいことをわかってくれるわ」
「……」
罠だったか。
どうせ変化に鋭くなるのなら、罠や演技も見抜けるくらいになりたいものだ。
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