第2章
第1話
マナーモードにしておいたスマートフォンが、テーブルの上で低い振動音を響かせた。
音声通話だ。
テキストとノートを広げて勉強していた僕は、それを素早く手に取る。ディスプレィを見てみれば、そこにはすっかりお馴染みとなった槙坂涼の名前があった。
さて、取るべきか取らざるべきか――と考えてみるが、もちろん、そんなものはポーズである。しかも、自分に対しての。自分のことを最もよく知る自分だからこそ、迂闊な隙は見せられない。人間とは自分に甘い生きものだ。彼女がいないからといって槙坂涼に対するスタンスを緩めれば、そこから一気に瓦解するだろう。
僕は端末を持って席から立ち上がった。
自動ドアを通って外へ。六月を目の前にした五月下旬の午後の陽射しは思った以上に眩しく、僕の目に無遠慮に飛び込んできた。屋内も決して暗くはなかったのだが、やはり人工の照明と太陽の光は違う。蛍光灯は人にやさしく作られているが、太陽は苛烈だ。僕はそれを実感しつつ太陽に背を向け、電話に出た。
「もしもし」
『今日も月がきれいね』
「……」
おい、太陽もっとがんばれよ。ぜんぜん目に入ってないやつがいるぞ。
思わず通話を切りたくなったが、ぐっと堪える。それは自ら負けを認めるようなものだ。戦わずして負けることは許されない。
「……月はまだ出てないと思うが?」
しかし、出てきた言葉は何のひねりもない上、悪手もいいところだった。
『そう? じゃあ、きっと天の邪鬼には見えない月なのね』
「何か用があったんじゃないのか?」
槇坂先輩の言葉にややかぶせ気味に発音する僕。結局、強引に話を変えてしまった。電話の向こうで彼女は、勝ったとばかりにほくそ笑んでいるに違いない。
『今日、帰りにつき合ってほしいところがあるの。次の授業が終わったら、掲示板の前で待っててくれないかしら?』
「生憎だけど、今日は午後の二時間ぶち抜きの授業が休講でね。僕はもうとっくに学校にいないんだ」
つき合えなくて実に残念だよ――と、つけ加えておく。……そういうことはもっと早く言っておいてほしいものだ。昼休みにでも言ってくれたら、こっちじゃなくて図書室で勉強していたのに。
『今どこなの?』
槙坂先輩は少しばかり慌てたように聞いてきた。
「ラーニング・コモンズで勉強中」
『ラーニング・コモンズ……?』
一字一字確かめるようにその単語をリピートする。
『初めて聞くわ。どこにあるの?』
「さて、どこだろうね。……ああ、ここもいちおう明慧の敷地内ではあるのか。ま、テキトーなところで引き上げるつもりだし、これから授業のある槙坂先輩に言っても意味はないんじゃないかな。それじゃ、これで」
『あ、ちょっと藤間く――』
最後に何か言いかけていたようだが、問答無用で電話を切った。これで先ほどの借りは返せたか。後で面倒なことになりそうな気がしないでもないが。
僕は通話が確実に切れていることを確認すると、端末を胸のポケットに差し込んだ。代わりにスラックスのポケットから取り出したカードをカードリーダーにかざし、開いた自動ドアからラーニング・コモンズの中へと這入った。席に戻り、勉強を再開する。
そうして約三十分ほど後のことだった。
「ここがそのラーニング・コモンズ?」
聞き慣れた涼やかな声。
僕はため息を吐きつつ、静かにシャーペンを置いた。何となくこうなることを予想、もしくは、期待していたような気がしなくもない。少なくとも、遅かれ早かれ辿り着くだろうとは思っていた。
顔を上げればそこに立っていたのは、黒髪ロングのオトナ美人。我が明慧学院大学附属高校では知らないものはいないであろう有名人だ。平和と退屈と本を愛する一介の男子高校生には不釣り合いも甚だしいのだが、紆余曲折を経て、現在、僕は彼女と親しい間柄にあった。
「……なぜあなたがここにいるのか聞かせてもらえないだろうか。授業は?」
僕は軽い頭痛を感じつつ尋ねた。
確かにいつかはこうなると思っていた。だが、それにしても早すぎる。授業があるはずなのだ。
「あの後、急にわたしのほうも休講になったの。驚いたわ」
「……」
そりゃあびっくりだ。
「もうひとつ。どうやってここに入った?」
ここに入るにはICカードを入り口のカードリーダーに読み取らせなくてはいけない仕組みになっている。ラーニング・コモンズの存在を知らなかった槙坂先輩がそれを持っているとは思えなかった。
「ちょうどここに入っていく人がいたから、中に友達がいるので一緒に入らせてくださいって頼んだの」
「……なるほどね」
彼女のことだ、きっと男子学生を捕まえたのだろう。槙坂涼に頼みごとをされて断れるやつなどそうそういない。
その件は兎も角として、休講云々の嘘を暴くことはとても簡単だ。今から連絡掲示板を見にいくか、携帯端末で明慧大附属のサイトを開いて生徒向け連絡事項のページを見ればいい。しかし、そうやって証拠を突きつけたところで、槙坂涼はあっさり嘘を認めるだけ。たぶん今のこの状況が変わることはないだろう。
なら、僕も頭を切り替えよう。
「よくここまで辿り着けたな」
電話では聞いたこともないような口振りだったのに。
「きっとわたしには藤間くんの居場所がわかるセンサがついているのね」
そんな冗談を言って彼女は微笑む。そうしてからテーブルをはさんで僕の前に座った。
「あなたが言うラーニング・コモンズという場所がどんなところか気になって調べてみたの。大学の施設だったのね」
そう。ここは僕らが通う高校から道一本隔てたところにある明慧学院大学の中だった。もっと正確に言うなら、学術情報館、つまりは大学図書館の管轄下の施設である。
「こっちにきたのは初めてだわ」
「てっきりここの学生とつき合ってたときに、よくきていたんだと思ってたよ」
確か槙坂涼にまつわる数々の噂の中にそんなのもあったはずだ。
「前にも言った思うけど、その手の噂はぜんぶ嘘よ」
「ああ、そうだった。ついでに今もフリーなんだっけ?」
瞬間、彼女はわずかにむっとした表情を見せたが、それはすぐに挑戦的なものへと変わった。
「ええ、でも、好きな男の子はちゃんといて、今がんばってアプローチしている最中なの。反応はあまりよくないけど」
「そいつはひどいやつだな。槙坂先輩ほどの人を放っておくなんて」
僕は白々しく応じる。
「本当ね。一度は好きだって言ってくれたのに」
「もしかしたら今ごろ、そう言ったことを後悔してるかもしれないな」
少なくともここに後悔している人間がひとりいるのは間違いない。……まったく。同じネタでこんなにも引っ張られるとは。不用意なことは言うものじゃないな。
「ちょっと素直じゃないだけよ。口ではそんなことを言ってるけど、本当はわたしのことが好きで仕方ないんだから」
「……あなたの一方的な妄想じゃないことを祈るよ」
真っ直ぐこちらを見つめてくる彼女を前に、僕はそれだけを絞り出すのがやっとだった。テーブルの上に置いていたペットボトルのお茶に口をつけ、暗にこの話題はこれで終わりだと告げる。
「それより――ここはどういうところなの?」
ラーニング・コモンズ内を見回しながら、槙坂先輩が問うてくる。僕もつられてあたりに目をやれば、そこにいる多くの学生がこちらを見ていた。制服姿の附属の生徒が珍しいのもあるだろうが、やはり槙坂涼の美貌によるところが大きいだろう。
僕はペットボトルを彼女からいちばん遠いところに置いてから答える。
「ここは単にテキストやノートを使った勉強だけじゃなく、議論や討論も含めた広い意味での学習の場所なんだ。静寂を美徳とする図書館の中とはちがって、ここはディスカッションやグループ学習などにも使える」
「それがラーニング・コモンズ?」
「本来は施設の名称ではなく、場の提供から図書館員による学習のサポートまでを含めたサービスのことだけどね」
ここに置かれているテーブルやイスは、すべてキャスターがついていて、簡単に動かせるようになっている。人数や目的に合わせて好きなだけ集めて使えるようにだ。ホワイトボードやパーティションもそう。利用者が自由に動かしてレイアウトを変えられるようになっている。
改めて中を見回せば、今もあちこちで学生がテーブルを囲んで何やら話し合いをし、司会役がホワイトボートにマーカーを走らせている。プレゼンの練習をしているグループもあった。もちろん、僕のようにひとりで勉強しているものもいる。
「ずいぶんとリラックスした空間ね」
「狙いはまさにそこだろうね。堅苦しい従来の図書館のイメージを払拭するために、1990年代、欧米の大学図書館からラーニング・コモンズははじまったんだ」
そのため空間の色彩もパステルカラーを使って、ぐっと明るくなっている。
「日本の大学もそれに遅れること十数年、2000年代になってようやく増えてきたところだ」
「わたしもたまにきてみようかしら」
「ぜひそうするといい。附属の生徒なら学生とほとんど同じように使わせてもらえるから」
最近では私立の大学でも地域貢献のため、有料だったり無料だったりはするが、図書館を周辺住民に開放しているところも多い。が、明慧学院大学はその流れには乗らず、相変わらず従来通り閉鎖的だ。ただし、附属の生徒は学内者扱いで利用できる。
槙坂先輩にかぎったことじゃないが、高校生の身でありながらせっかく大学図書館を使わせてもらえるのだから、もっと積極的に利用するべきだろう。
「藤間くんはよくここで勉強を?」
「まぁね」
僕はラーニング・コモンズという場所が好きだった。
ここは図書館に付属する施設でありながら活気がある。くるたびにテーブルの位置や向きが変わっているのは、よく使われている証拠だろう。たまにホワイトボードに消し忘れが残っていて、証明問題の解答や何かの打ち合わせの名残があって面白い。なぜかやたらと上手い絵が描いてあることもある。こんな場所では勉強に不向きに思えるが、僕がこの場所を気に入っているせいか、いつも意外と捗っている。休憩がてら周りの様子に目を向け、話し声に耳を傾けるのも楽しみのひとつだ。
「ずいぶんと熱心ね。やっぱりいい大学に入るため?」
「『いい大学』よりは『行きたい大学』だと思ってるよ。月並みだけどね」
大学なんてある程度までいけば、どこも似たようなものだ。その気さえあればいくらでも学べるし、遊びとバイトに勤しんでも最低限の単位さえ取れば卒業させてもらえる。ならば、偏差値なんていう数字でランク付けされた『いい大学』よりは、自分の行きたい大学を目指すべきだろう。
「あら、お目当ての先輩を追いかけて明慧にきた人が、どの口でそんなことを言うのかしら?」
「……前にも言ったはずだけど、図書室が充実しているのと大学図書館を使わせてもらえるという理由もあったんだ。あと、単位制にも興味があった」
決して嘘ではないのだが、どうにも今つけ足した感が否めないな。
「ところで大学はどこに行くつもりなの?」
「……気が向いたらおしえるよ」
僕は槙坂先輩の問いに、あえて回答を避けた。
実を言うと、僕の行きたい大学は日本にはない。僕がやりたいことを存分にやるにはアメリカが最適だし、そのためにはあっちの大学で最低でも修士課程まで修めなくてはいけない。
だから、たぶん僕は高校を卒業したらアメリカに行く。
「早くおしえてくれないと困るわ。わたし、先に行って待ってるつもりだもの」
「……」
だからだ。そんなことを言うから、僕もその話をするのに気がひけてしまうのだ。
「それにしても、藤間くんは本当に図書館が好きね」
「そこは否定しない」
話題が変わったことにほっとしながら、僕は答える。
「実は今年の夏休みにでもヨーロッパの図書館を回ってこようかと思ってる」
「そうなの? ヨーロッパならやっぱりイギリス?」
「それとフランス。あとは北欧だろうね」
北欧は図書館行政においてまぎれもなく先進国だ。その頂点には、それぞれの特徴ある外国研究を互いに利用し合おうという趣旨に基づいたスカンディア計画がある。そのスカンディア計画のもと、北欧四国にまたがる図書館ネットワークが構築され、特色ある図書館コレクションを相互に利用できる体勢が整っている。
特にデンマークとスウェーデンは、国内の公共図書館網もしっかりと整備されている。これは教育を重視してきた伝統と、戦後、福祉国家として再出発したが故だろう。
そんな話を興味深そうに聞いていた槙坂先輩は言う。
「楽しそう。日程が決まったらおしえて」
「うん?」
「わたしも都合をつけるから」
「待て」
何やら聞き捨てならない台詞を聞いた気がする。
「まさか一緒に行くつもりか?」
「ええ」
彼女は迷いのない様子でうなずいた。
「冗談はよせ。男とふたりで旅行なんて正気か?」
「もちろん正気よ。心配しないで。夏までまだ時間があるもの」
槙坂先輩は天使のように魅力的な笑みで、悪魔のように魅惑的な言葉を紡ぐ。
「きっとそのころには、旅行くらい何でもない関係になってるわ」
「……」
僕は思わず頭を抱える。
彼女の思惑に抵抗するには、もういっそのこと旅行自体を取りやめるのが早いのかもしれない。
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